【戦国こぼれ話】本能寺の変を物語る史料には、デタラメが書かれているものがあるので注意が必要
6月2日は、本能寺の変が起こった日だった。本能寺の変に関しては多種多様な史料があり、なかには酷い代物が含まれている。特に、今回には二次史料について検証することにしよう。
■一次史料と二次史料
歴史研究を進めるうえで、もっとも重要なことは、確実な史料(証拠)がどれだけ残っているかである。それは、本能寺の変の研究でも同じである。
史料は大別すると、一次史料と二次史料があり、重要視されるのは前者の一次史料である。その違いは、いかなるところにあるのか。
一次史料は同時代に発給された古文書あるいは日記、金石文(金属や石に刻まれた文字や文章)などを指す。史料としての価値は高い。
ただ、一次史料だからと言って、全面的に信を置くのは危険である。特に写しの場合は、何らかの意図で創作されたものもあり、偽文書であることも珍しくないので、十分な史料批判が必要である。原本ですら、虚偽を書いていることもある。
二次史料は系図、家譜、軍記物語など、後世になって編纂されたものである。素材は文書、口伝などであり、執筆者の創作が入ることも珍しくない。作成された意図(先祖の顕彰など)が反映されていることなどから、史料的な価値は劣る。
歴史研究では一次史料に拠ることを基本原則とし、二次史料は副次的な扱いとする。しかし、二次史料にまったく価値がないわけでもなく、作成された政治的・社会的・文化的な背景を考慮し、史料批判を行なって用いることもある。
このなかで扱いが難しいのは、二次史料になろう。
■本能寺の変にまつわる重要な二次史料
織田信長の一代記『信長公記』は、根本史料に位置付けられるが、二次史料であるという点に注意すべきである。誤りがあるかもしれないし、不都合なことはあえて書かなかったことを想定する必要があろう。とはいえ、おおむね史実に沿って書かれており、信頼に足る史料であると評価される。
『本城惣右衛門覚書』は、寛永17年(1640)に成立した。実際に本能寺の変に出陣した本城惣右衛門の覚書であり、信頼に足りうると指摘されている。惣右衛門が本能寺に向かった際、信長を討つのではなく、徳川家康を討つのだろうと思ったと書かれていることは、注目に値する。
しかし、それはあくまで惣右衛門自身の考えであって、それが当時の人々の共通した認識とするのは危険といえる。近年では、「惣右衛門は光秀が家康の援軍に行こうとした」という解釈もなされている。
もっとも評価が難しいのが、フロイスの『日本史』である。内容は、キリスト教に理解を示す者への評価は甘く、そうでなければ辛口になる。同史料は、一次史料と突合せて用いるべきだろうと評価される。
一方で、『日本史』のセンセーショナルな記事をすべて鵜呑みにする傾向もあり、首をかしげたくなるような説も提起されているので、注意が必要である。
『明智軍記』などは歴史史料としての価値が認められないので、研究には使用すべきではない。ところが、自説に有利な記述を発見すると、「根拠もなく、こういうことは書かないだろう」と安易に採用する例も散見する。こうした態度で二次史料を援用すると、あるべき歴史像が捻じ曲げられることが懸念される。
■難しい史料の扱い
一次史料を用いる場合でも、問題がある。間違えることは仕方がないが、史料の誤読や曲解、そうした誤りに基づく論理の飛躍は、決して珍しいことではない。最優先されるのは、史料を正確に読むことである。
そこから何を言えるのかは各論者の判断になるが、少なくとも史料に書いていないことを「書いてある」と言ったり、史料から読み取れないことを「読み取れる」と強弁することは厳に慎むべきだろう。
実は、現存する一次史料からは、光秀が本能寺の変を起こした理由はわからない。信長の暴力などに耐えかねたという、二次史料の記述も信を置けないところがある。また、一次史料を用いた足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説も否定されつつあり、袋小路に入った感がある。
そうなると、当時の政治情勢や信長と光秀との関係を詳細に検討することが重要なのではないだろうか。信長の四国政策の変更、あるいは政権構想などは、一つの切り口である。本能寺の変はどうしても黒幕探しに終始するが、一次史料によって構成された、蓋然性の高い説を期待したいところだ。