【戦国こぼれ話】織豊時代から江戸時代にかけて、牢人(浪人)の京都居住が難しかった意外な理由

時代劇でもおなじみの牢人(浪人)。京都に住むのは難しかった。(提供:アフロ)

 コロナ禍で宿泊業は厳しいが、ある京都のホテルは長期滞在プランを打ち出し盛り返している。しかし、織豊時代から江戸時代にかけて、牢人(浪人)の京都居住は難しかった。その理由を探ることにしよう。

■牢人(浪人)が大量にあらわれた時代

 「一介の素浪人」といえばかっこいいかもしれないが、実際には扶持を得ることができなかったので、生活は厳しかった。生活が厳しかった牢人(浪人。以下、牢人で統一)は、京都などの都市に流入し、生活の糧を得ようとした。

 牢人の厳しい生活状況にもかかわらず、京都の町衆は牢人たちを歓迎していたわけではない。見知らぬ者たちが市中を徘徊することは、歓迎できなかった。おまけに牢人は武器を持った武士でもあり、市中の治安悪化が懸念されたと考えられる。京都市中の牢人対策は、豊臣秀吉の代から継承されたものであった。

 天正11年(1583)6月、秀吉は京都奉行の前田玄以に指示し、7ヶ条の掟を制定した(『京都町触集成』)。そのうち、牢人に関わる条文を挙げると、次のようになる。

洛中洛外の諸牢人のうち、秀吉が把握していない者については、居住を許可しないこと。

 一言でいうならば、牢人は洛中洛外からの退去を求められたのである。同時に、この7ヶ条は奉公人(下級武士)の非分・狼藉を禁止しており、原則として武士身分にある者が規制を受けたのである。その職務を託されたのが、京都奉行職なのであった。

 文禄5年(1596)、下京を管轄していた京都奉行・石田三成は、奉公人が町人に非分・狼藉を行うことを禁止し、従わない場合は処罰する旨を伝えている(『京都町触集成』)。現実問題として、奉公人による濫妨・狼藉が京都市中で行われていたと考えられる。

■家を無断で売ったら罰金

 秀吉の奉公人、牢人対策は、町が定める掟の内容にも反映された。天正16年(1588)、冷泉町では奉公人に家を売却した場合、売主に罰金を課すことを決定した(『京都町式目集成』)。この方針は、以後も継続された。

 また、文禄3年(1594)には下本能寺町で、翌文禄4年(1595)には鶏鉾町で、それぞれ家を武士(奉公人)に売却することを禁止している(『京都町式目集成』)。町をあげて、奉公人の町内居住を拒否したことになる。町の自衛的な対応によって、町からの奉公人の一掃が図られたのだった。

■関ヶ原合戦以後の牢人対策

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦以降、京都の支配は京都所司代である板倉勝重が担った。そして、秀吉以来の奉公人、牢人対策も引き続き行われた。

 慶長8年(1603)8月、冷泉町は勝重の命を受けて奉公人の宿を禁止し、同年12月にはその手続きを定めている(『京都町触集成』)。具体的には、奉公人が借家をする場合は、勝重の宿切手(許可証)を必要とするというものであった。

 奉公人の借家・居住については許可制を採用し、一時的に奉公人が京都に滞在するときは、京都所司代が把握・管理することになった。武士を排除したという町側の意向と、奉公人・牢人対策を進めたい京都所司代との思惑が一致したのである。

 このように見るならば、牢人の京都滞在は極めて困難であった状況をうかがえる。また、関ヶ原合戦後に牢人となった長宗我部盛親らが宿切手を得ていたという確証はないが、何らかの方法によって、京都滞在の許可を得ていたものと考えられる。

 盛親のような大名クラスの牢人は、必然的に監視の対象になったであろう。彼ら大名や武士の仕官活動は、こうした状況も相俟って、非常に厳しいものであったと推測される。

 もともと京都に居住していなかった武家奉公人や牢人は、治安を乱すものとして、町衆から恐れられていた。京都奉行はその意向を受けて、彼らの居住を許可制にしたのである。たださえ生活が苦しい牢人は、いっそう追い詰められていった。