【戦国こぼれ話】さまざまな女性との噂が絶えなかった豊臣秀吉。本当に秀吉は女性好きだったのだろうか

豊臣秀吉は正室の「おね」だけではなく、多くの側室を迎えていた。(写真:アフロ)

 連日のようにマスコミを賑わせるのが、有名人による女性問題。ところで、天下人だった豊臣秀吉についても、女性に関する噂が絶えなかった。秀吉は本当に女性好きだったのだろうか?

■豊臣秀吉は女性好きだったのか

 豊臣秀吉の妻といえば、正室の「おね(ねね)」や側室の淀殿が知られている。しかし、実際に側室の数は、十数人になってしまう。おまけに大坂城には御奥なるものがあり、女性らを多数召し抱えていた。果たして秀吉は、女性好きだったのだろうか。

 秀吉の女好きに関してはフロイス『日本史』が貴重な報告を行っている。次に、その部分を掲出しておこう。

(秀吉は)齢すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘を三百名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また多数の娘たちを置いていた。

 今とは違い、当時の50代は相当な老人である。フロイスは、秀吉の精力に驚いたのであろう。当時のヨーロッパでは、一夫一婦制が基本であり、御奥のようなところに女性を囲っている例はなかった。大坂城内に若い娘を300名以上も囲っていたというのは、財を成した秀吉にしかできなかったに違いない。

 したがって、キリスト教の教えと相俟って、フロイスの目には秀吉ga

不純で肉欲に溺れた野蛮人のように映ったのである。しかも、秀吉は「極悪の欲情」を抱いており、「全身を支配していた」というのは最悪の評価といわざるを得ない。

■どうやって女性を集めたのか

 では、秀吉が囲った女性は、どのように集められたのであろうか。続きを見ることにしよう。

彼(秀吉)がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった。彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者とてはなく、彼は、国主や君侯、貴族、平民たちの娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した。

 このように記したうえで、秀吉の性格が尊大であり、この悪癖が度を過ぎていること、そして「彼(秀吉)は自分の行為がいかに賤しく不正で卑劣であるかにぜんぜん気付かぬばかりか、これを自慢し、誇りとし、その残忍きわまる悪癖が満悦し命令するままに振舞って楽しんでいた」と結んでいる。

 この記述を信じるならば、秀吉は己の快楽や性的な欲求を満たすため、金にものを言わせて、手当たり次第に美しい女性を召し寄せたということになろう。

■本当の理由とは

 先述のとおり、秀吉には「おね(ねね)」という正室がおり、淀殿をはじめ多くの側室がいたのは事実である。しかし、当時において側室を迎えるということは、おおむね政治的な問題と絡んでいた。要するに政略結婚であり、やみくもに側室を迎えたわけではない。

 加えて秀吉の場合は、なかなか実子に恵まれなかったので、女性には性的な快楽を求める以上の意味があったはずである。それは豊臣家の末永い存続であり、後継者の誕生に尽きていた。秀吉が秀頼の誕生を心から喜んだのは、当たり前のことだった。

 秀吉はしばしば女性好きとして語り継がれ、後世に編纂された書物にも数多く記されている。しかし、先述の政略結婚的な要素を加味すれば、決してフロイスの記述は正確とはいえず、キリスト教的な倫理観に基づく見解と考えてよい。単に秀吉が女性好きだったとするのには、問題があるだろう。

■秀吉の訓戒状

 ところで、天正19年(1591)12月、秀吉は養子となった秀次に訓戒状を与えた。その中で有名な一節は「女性は屋敷に置き、それは5人でも10人でも構わない」と記されており、さらに「外で乱れた女狂いになってはいけない」と秀次に申し渡しているのだ(「本願寺文書」など)。

 誠に興味深い一節であるが、これは単に一般的な意味での見解を示していると解せられる。それなりの身分になれば、「遊び方もわきまえよ」ということになろう。この書状もまた、秀吉が女性好きだったことを示す史料として取り上げられることが多いが、はたしていかがなものだろうか。