【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦で連れ去られた人々がいた。戦国時代の人身売買は珍しくなかったという話
最近の報道によると、『細川家文書』の中から関ヶ原合戦で連れ去られた人々のリストが発見されたという。ところで、戦国時代では人々が捕らえられ、売買されることは珍しくなかった。その一端を紹介することにしよう。
■武田氏が連れ去った女性、老人、子供
戦国時代の人身売買について、甲斐国の戦国大名・武田氏の事例を見ることにしよう。
甲斐国の武田氏や小山田氏をはじめ、当時の生活や世相を記録した史料として、『妙法寺記』(『勝山記』とも)という史料がある。そこには、数多くの人の略奪の記録が残されている。
天文5年(1536)、相模国青根郷(相模原市緑区)に武田氏の軍勢が攻め込み、「足弱」を100人ばかり連れ去ったという。この前年、武田信虎は今川氏輝、北条氏綱の連合軍と甲斐・駿河の国境付近で戦い(万沢口合戦)、敗北を喫していた。武田氏は両者に対して、大きな恨みを抱いていた。
「足弱」には、どんな意味があるのだろうか。辞書的に言えば、「足が弱い人」「歩行能力が弱い人」という意味がある。転じて、女性、老人、子供を意味するようになった(足軽を意味することもある)。
つまり、武田氏の軍勢は戦争のどさくさに紛れ、戦利品として「足弱」を強奪して国へ戻ったということになろう。時代を問わず、女性、老人、子供は常に弱者であった。
■売買された人々
天文15年(1546)には飢饉があり、餓死する者が非常に多かったという。そうした状況下、武田氏の軍勢は男女を生け捕りにして、ことごとく甲斐国へと連れ去った。
生け捕られた人々は、親類が応じることがあれば2貫文、3貫文、5貫文、10貫文といった金額で買い戻されていった。現在の貨幣価値に換算すると、1貫文=約10万円になる。したがって、約20万円から100万円で買い戻されたことになろう。身分あるいは性別や年齢で値段が決まったのであろうか。
『妙法寺記』を一覧すると、武田氏の軍勢が行くところでは、多くの敵方の首が取られたことが記述されているが、同時に多くの「足弱」が生け捕りにされたことも記されている。「足弱」は売買されるとともに、農業などの貴重な労働力になったのであろう。
このように、戦場において人あるいは物資を強奪することを「乱取り」という。戦場で分捕ったものは、自分の所有物になった。ある意味で戦争に参加するのは、「乱取り」が目的とも思えるほどである。その模様は、『甲陽軍鑑』にも生き生きと描かれている。
■『甲陽軍鑑』に見る「乱取り」
『甲陽軍鑑』とは、いかなる書物なのだろうか。『甲陽軍鑑』は江戸時代初期に集成された軍書であり、武田氏を研究するうえで重要な史料の一つである。ただし、後世に成った編纂物であるので、利用には注意が必要である。
この『甲陽軍鑑』は、まさしく乱取りの事例の宝庫であるといえる。以下、いくつかの例を挙げることにしよう。武田信玄は数多くの戦いを各地で繰り広げたが、もっともよく知られているのは、越後の上杉謙信と死闘を演じた川中島の戦いであろう。川中島は、現在の長野市に所在する。
天文22年(1553)、初めて2人が刃を交えて以来、計5回にわたって雌雄を決している(4回説もあり)。2人の死闘は、小説、映画、テレビドラマでも取り上げられ、広く知られるようになった。ここでは2人の名勝負ではなく、「乱取り」を見ることにする。
川中島の戦いに際して、甲斐国から信濃国へ侵攻した武田軍は、そのままの勢いで越後国関山(新潟県妙高市)で火を放った。武田軍の侵攻により、人々は散り散りに逃げ出したという。
その後、武田氏の軍勢は、謙信の居城・春日山城(新潟県上越市)へ迫った。武田軍は越後に入ると、次々と人々を「乱取り」し、自分の奴隷として召し抱えたという。その大半は女性や子供であり、戦国の戦争には乱取り(=人や物の略奪)が目当てだった者もいたという。
『甲陽軍鑑』には、将兵が戦場で男女や子供のほか、馬や刀・脇差を奪い取ることによって、経済的に豊かになったと記されている。それは、将兵にとっての「賞与」のようなものだった。
女性に限って言えば、家事労働に従事させたりしたのだろう。場合によっては、捕らえた人々を売却して金銭に替えることも可能だったと推測される。将兵が戦争に行くことは生活がかかっており、運が良ければ略奪による「うまみ」があったのだ。
これは戦国時代における人身売買の一端であるが、その終焉まで同じ状況が各地で続いたのである。