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【戦国こぼれ話】明智光秀は、いったいいつ生まれたのか。未だにはっきりしない誕生年の謎に迫る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀は有名な戦国大名だが、その生年については諸説ある。(提供:アフロ)

 岐阜県恵那市の「大正村浪漫亭」は、明知鉄道明智駅構内で明智光秀の「お誕生日会」を開いた。光秀の誕生年は諸説あるが、享禄元年(1528)3月10日生まれの説を採用したようだ。ほかにはどんな説があるのか、検討することにしよう。

■享禄元年説

 光秀の誕生年は、享禄元年誕生説が多い。『続群書類従』所収の『明智系図』には、光秀が享禄元年(1528)3月10日に美濃の多羅城(岐阜県大垣市)で誕生したとある。「大正村浪漫亭」が採用した説だ。

 ところが、『明智氏一族宮城家相伝系図書』には、光秀が享禄元年(1528)8月17日に誕生し、石津郡の多羅で誕生したと記す。父は進士信周、母は光秀の父・光綱の妹だったとという。誕生年は同じだが、月日が異なっている。

 享禄元年生誕説を唱える編纂物としては、『明智軍記』がある。すでに半世紀以上も前、『明智光秀』(吉川弘文館)の著者・高柳光壽氏が『明智軍記』を「誤謬充満の悪書」と指摘した編纂物である。

 『明智軍記』は誤りが多いので、歴史史料として用いるのには躊躇する。『明智軍記』は元禄6~15年(1693~1702)に成立したとされ、作者は不詳で。光秀が亡くなってから、100年以上が経過している。

 『明智軍記』が拠った史料には、『江源武鑑』のようなひどい代物がある。何よりユニークな話が多々書かれているが、それらは一次史料で裏付けられず、ほかの記述内容も誤りが非常に多い。

 結論を言うと、享禄元年(1528)説はたしかな史料に記載されていないので、決定とは言えないようである。

■永正13年説

 『当代記』は光秀の没年齢を67歳であると記しているので、永正13年(1516)の誕生となる。『当代記』は著者が不明(松平忠明?)で、寛永年間(1624~44)頃に成立したという。

 同書は当時の政治情勢などを詳しく記しており、時代が新しくなるほど史料の性質は良くなっていく。ところが、信長の時代については、史料的な価値が劣る儒学者の小瀬甫庵『信長記』に拠っている記事が多い。

 したがって、比較のうえでは先の系図類よりも『当代記』が良質な史料と指摘されているが、正しいという保証はない。

 小瀬甫庵『信長記』は、慶長16・17年(1611・12)年説頃に成立した。同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。

 そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。

 それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には『信長公記』よりも広く読まれた。ただし、『信長記』は創作性が高く、史料としての価値は劣ると評価されている。

 以上の点を踏まえると、永正13年(1516)も確実であるといえないようだ。

■『綿考輯録』に記す光秀の誕生年

 『綿考輯録』には光秀が57歳で没したと記されているので、誕生年は大永4年(1524)になろう。『綿考輯録』には若き頃の光秀の姿が詳しく描かれているが、信頼に足る史料なのだろうか。

 安永年間(1772~81)に完成した『綿考輯録』は、細川藤孝(幽斎)、忠興、忠利、光尚の4代の記録で、編者は小野武次郎である。熊本藩・細川家の正史と言っても過言ではない。

 これまでの研究によると、忠利、光尚の代は時代が下るので信憑性が高いかもしれないが、藤孝(幽斎)の時代になると問題になる箇所が少なくないと指摘されている。それは、なぜだろうか。

 その理由は、『綿考輯録』を編纂するに際しておびただしい量の文献を参照しているが、巷間に流布する軍記物語なども材料として用いられているからだ。

■根拠史料は玉石混交

 たとえば、先に取り上げた『明智軍記』や『総見記』などの信頼度の低い史料も多々含まれている。『綿考輯録』の参考書目を見ると、多くの史料類や編纂物が挙がっているが、玉石混交なのは明らかである。

 一方で、『総見記』は『織田軍記』などともいい、遠山信春の著作である。貞享2年(1685)頃に成立したという。甫庵の『信長記』をもとに、増補・考証したものである。

 史料性の低い甫庵の『信長記』を下敷きにしているので、非常に誤りが多く、史料的な価値はかなり低い。今では顧みられない史料である。

 加えて、『綿考輯録』は細川家の先祖の顕彰を目的としていることから、編纂時にバイアスがかかっているのは明らかである。この点は、大名の家譜類では避けられない現象であり、同書における光秀の記述については慎重になるべきだろう。細川家の正史だから、正しいという保証はないのである。

 したがって、大永4年(1524)説についても、決して正しいとは言えないようである。

■結論

 結論を言えば、光秀の誕生年については、おおむね永正13年(1516)から享禄元年(1528)の間とくらいしか言えない。しかも、「二次史料に拠る限り」という留保付きであり、正確を期すならば、光秀の誕生年をうかがい知る一次史料の出現を待つしかないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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