【戦国こぼれ話】高知城三の丸に桐の紋章の瓦が使われていた。その謎について考えてみよう

高知城追手門。三の丸の石垣から桐の紋章が刻まれた瓦が発見された。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 平成12年(2000)、高知城三の丸の発掘調査が行われた際、長宗我部時代の石垣から桐の紋章が刻まれた瓦が発見された。先日、瓦に桐の紋章が用いられた理由について、研究者が諸説を提示していると報道された。桐の紋章は天皇家をはじめ、足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉らが用いた高貴な紋章だった。その理由を少し考えてみよう。

■高知城とは

 高知城は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に山内一豊が築いたことにはじまる。一豊は高知平野の中央に位置する大高坂山を選び、築城を開始した。実は、天正13年(1585)の段階で、すでに大高坂山には長宗我部氏が城を築いていた。

 工事は慶長8年(1603)に本丸と二の丸が完成し、慶長16年(1611)に三の丸が竣工した。当初、鏡川と江ノ口川を外堀として利用していたので、河中山城と称していたが、のちに2代藩主の忠義が高智山城と改名し、さらに高知城と改めた。

 高知城は標高約40mの大高坂山の山頂を塀や石垣で囲み、南に本丸、北に二の丸、北東に三の丸を配置した。しかし、享保12年(1727)の大火により、高知城の建築物は大半が焼失。再建は、宝暦3年(1753)までかかった。

 4重6階の天守は、一豊の前任地だった掛川城(静岡県掛川市)を模したといわれ、南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけている。

 現存する天守、本丸御殿、黒鉄門、詰門、廊下門、西多聞櫓、東多聞櫓、追手門など15の建築物は、国の重要文化財に指定されている。全国でも、天守と本丸御殿の両方が残っているのは高知城だけで、現在は高知公園として整備されている。

■豊臣秀吉と桐紋

 次に、豊臣秀吉と桐紋について考えてみよう。一説によると、秀吉が長宗我部氏、山内氏に桐紋を与えたといわれているからだ。

 天正13年(1585)に秀吉が関白に就任すると、後陽成天皇は豊臣姓とともに「五七桐」の家紋を与えた。五七と呼ぶのは、「五七桐」の家紋の上部の花の数が左から五、七、五に並んでいるからである。

 「五七桐」の家紋を下賜されたことにより、秀吉の権威は大いに高まったが、決して満足しなかった。秀吉は新たに「太閤桐」なる家紋を作り上げたのである。

 秀吉はなぜ、新たに「太閤桐」なる家紋を作り上げたのだろうか。天皇や主君たる戦国大名が自らの家紋を配下の者に与えることは、決して珍しいことではなかった。秀吉も「沢瀉(おもだか)」の家紋を与えていた。

 しかし、「五七桐」の家をそのまま与えてしまうと、軽々しくなってしまう。多くの人がそれらの家紋を使えば、相対的に価値が下がってしまうのである。秀吉は、そのことを恐れた。

 そこで、秀吉は桐という最高の家紋を生かしながら、自ら新たにデザイン化したものを作り上げ、配下の武将たちに与えることにした。これならば、使う人の数が増え、軽々しくなるという問題が解消される。

 秀吉は「太閤桐」を新たに作成することによって、自身が使用している「五三桐」や「五七桐」の家紋の価値の相対的な低下を防ごうとしたのである。ここで一つ、桐紋にまつわるエピソードを挙げておこう。

 天正19年(1591)6月7日、秀吉は桐紋や菊紋を無断で使うことを禁じる旨を奈良中に触れた(『多聞院日記』)。この事実は、秀吉が桐紋などの使用にかなり神経質になっていたことを示している。

 秀吉は、桐紋を非常に好んでいた。京都市伏見区にある醍醐寺の唐門には、三方院の門扉に秀吉の面影がしっかりと残っている。門扉の中央二枚には秀吉の「五七桐」があり、左右には菊の紋が施されている。この門は、「勅使門」と称されており、朝廷から派遣された使者のみが通る門だったのである。

 近年、秀吉は四天王寺(大阪市天王寺区)に対して、仏像などを安置する厨子を寄進したことが明らかになった。その厨子には金箔もふんだんに使われ、豊臣家の家紋である桐花が描かれていた。

■なぜ桐紋を

 長宗我部氏の家紋は、「七つ酢漿草(かたばみ)」である。山内氏の家紋としては、「丸三葉柏紋」「白一黒一紋」「立波紋」「鉈紋」が知られている。ほかには、県立高知城歴史博物館渡部淳館長が指摘するように、秀吉が山内氏に桐紋(「花桐紋」)を下賜したといわれている。

 秀吉が山内氏に桐紋を授けたということは、史料で確認できないが、十分にあり得る話である。山内氏は秀吉の「五七桐」と重なることを避けるため、あえて「花桐紋」を作ったのではないだろうか。とても、無断で瓦に桐紋を使用したとは思えない。今後、さらに調査・研究が進むことを期待したい。