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【戦国こぼれ話】徳川十六神将の1人で、槍の名手だった渡辺守綱とはどんな武将だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
渡辺守綱は槍の名手として知られ、数々の戦で大活躍した。(提供:KIMASA/イメージマート)

 豊田市郷土館(愛知県豊田市)において「特別展 渡邉半蔵家 ―徳川を支えた忠義の槍―」が催されている(4月11日まで)。とりわけ注目されるのが、槍の名手だった渡辺守綱である。守綱とは、どんな人物なのだろうか。

■渡辺守綱とは

 渡辺守綱が尾張国碧海郡浦部(愛知県岡崎市)で誕生したのは、徳川家康と同じ天文11年(1542)である。父は三河松平氏の家臣・渡辺高綱で、最初は半蔵と号したが、のちに忠右衛門と改めた。

 渡辺家の祖は、平安時代に活躍した嵯峨源氏の流れを汲む渡辺綱である。綱といえば、大江山の鬼退治で有名な武将だ。渡辺氏は、綱の孫の松浦久の孫・渡辺安の流れを汲む。

 守綱は槍の名手として知られ、数々の戦で大活躍した。そして、家康から重用され、徳川十六神将(江戸幕府の創業に功のあった武将)の一人に数えられた。

 徳川十六神将とは、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政(以上、徳川四天王)、米津常春、高木清秀、内藤正成、大久保忠世、大久保忠佐、蜂屋貞次(または植村家存<家政>)、鳥居元忠、鳥居忠広、渡辺守綱、平岩親吉、服部正成、松平康忠(または松平家忠)の面々である。

■守綱の活躍

 弘治3年(1557)以降、守綱は家康に従って大いに軍功を挙げた。初陣は、永禄元年(1558)の石瀬(愛知県大府市と同東浦町の境)の戦いである。守綱は今川氏に属した家康とともに、織田信長の軍勢と戦った。

 守綱が勇名を轟かせたのは、永禄5年(1562)の八幡(愛知県豊川市)の戦いである。織田方に転じた家康は、今川勢と戦った。しかし、家康の家臣・酒井忠次が今川方の板倉弾正と交戦し敗北。無残にも敗走した。

 その際、守綱は1人で踏み止まり、追撃する今川勢を得意の槍で撃退。自軍の撤退に貢献した。以来、守綱は「槍半蔵」と称されたのである。

■家康に反抗した守綱

 守綱は家康の股肱の臣だったが、一方で熱心な一向宗(浄土真宗)の門徒でもあった。永禄6年(1563)に三河一向一揆が勃発すると、守綱は一揆勢に加わり、家康に反旗を翻した。

 しかし、戦いは家康勢の勝利に終わり、一揆勢は敗北した。その後、守綱は家康に投降し、帰参を許されたのである。以降、守綱は家康のために、各地に出陣した。

 元亀元年(1570)の姉川の戦い(織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の戦い)で、守綱は旗本一番槍を挙げた。

 元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦い(織田・徳川連合軍と武田軍の戦い)、天正3年(1575)の長篠の戦い(織田・徳川連合軍と武田軍の戦い)、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い(織田・徳川連合軍と羽柴軍の戦い)では先鋒を務めるなどし、守綱は大いに軍功を挙げたのである。 

■その後の守綱

 天正18年(1590)に小田原北条氏が滅亡すると、家康は関東に入部し、江戸に本拠を定めた。その際、守綱は武蔵国比企郡内に3000石の知行を与えられた。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、守綱は足軽100人を預けられ、東軍の勝利に貢献した。同年には1000石が加増され、計4000石の知行となった。

 慶長13年(1608)、家康の9男・義直が尾張藩主になると、守綱は付家老として支えた。そして、これまでの武蔵の4000石に加えて、尾張国岩作(愛知県長久手市)に5000石、三河国寺部(同豊田市)に5000石をそれぞれ加増され、寺部城を居城としたのである。

 慶長19年・20年(1614・15)の大坂冬の陣・夏の陣では、義直を補佐すべく出陣し、義直の初陣を飾った。

 守綱が亡くなったのは、元和6年(1620)のことである。最初、興善寺(名古屋市中区)に葬られたが、のちに守綱寺(愛知県豊田市)に改葬された。

 家康の家臣といえば、つい徳川四天王などが思い浮かぶが、ぜひこの機会に渡辺守綱も知ってほしいものだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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