【「麒麟がくる」コラム】秀吉の中国大返しに謎はなく、事前に本能寺の変を知っていたはずがない
■劇的な中国大返し
「麒麟がくる」の最終回をご覧になって、感動の余韻がいまだ残っていることだろう。最終回で残念ながら取り上げられなかったのは、羽柴(豊臣)秀吉による中国大返しだ。今回は、中国大返しについて考えてみよう。
■中国大返しとは
天正10年(1582)6月2日未明、明智光秀が本能寺を急襲し、織田信長を死に追いやった。「信長死す」の一報は、翌6月3日には備中高松城(岡山市北区)に出陣中の羽柴(豊臣)秀吉のもとにも届いた。秀吉はただちに毛利氏と和睦を取りまとめ、上洛の準備を進めた。
そして、秀吉はわずか一昼夜で、備中高松城から姫路城(兵庫県姫路市)までの約82kmを一気に進軍したというのである。これが中国大返しと呼ばれるものである。これが事実ならば大変なスピードであり、秀吉の軍事的な才覚をうかがわせるのに十分である。
中国大返しは多くの二次史料に書かれており(ただし、日程は諸書によって異なる)、あまり信が置けないのであるが、実は秀吉自身の書状にも記されている。
天正10年(1582)10月18日付の羽柴(豊臣)秀吉書状写には、「6月7日に27里(約82キロメートル)のところを一昼夜かけて、(備中高松城から)播磨の姫路まで行軍した」と書かれているので、中国大返しは史実であると考えられてきた。
しかし、後述するとおり、当時の一次史料を読み解くと、この秀吉の書状には明らかに嘘が書かれている。秀吉はその後も中国大返しのことをたびたび書状に記したが、すべて嘘である。この辺りをもう少し考えてみよう。
■正しい中国大返しの日程
一次史料をもとにして、中国大返しの日程やルートを示すと、次のようになる。
(1)6月4日、備中高松城から野殿(岡山市北区)へ(「梅林寺文書」)。
(2)6月5日、沼城(岡山市北区)へ(「梅林寺文書」)。
(3)6月6日、姫路城へ(「松井家譜所収文書」)。
(4)6月9日、姫路城を出発(「荻野由之氏所蔵文書」など)。
この行程によると、秀吉が率いる軍勢は5日から6日にかけて、沼城から姫路城までの約60kmを行軍したことになる。むろん、これでも移動は大変なのだが、難しく考える必要はない。
秀吉が率いる軍勢は、約2~3万だったといわれている。これまでの研究では、約2~3万の軍勢があたかも団子のような塊になって移動したかのように考えてきたので、相当な無理があった。
当時の道幅は2~3間(約3.6~5.4m)ほどで、狭いうえに舗装もされていない。仮に2万の軍勢が2列になって、3m間隔で行軍すれば、先頭から最後尾まで約30kmになる計算だ。実際は足が弱い人もいただろうから、もっと距離が広がったに違いない。
そもそも団子の塊のようになって、秀吉の軍勢が一斉に沼城を出発し、そのまま全員が同時に姫路城にゴールするなどはあり得ないのだ。
筆者の考えを示すと、秀吉は馬に乗って、警護の精鋭部隊とともに先に姫路城に到着した。姫路城での滞在期間が長くなったのは、光秀の動きを知るための情報収集、後続から次々と到着した将兵を休ませるためだろう。軍勢が団子のように塊りになって、一気に行軍したと考えるのはまったく現実的ではない。
つまり、中国大返しは、さほど難しいことではないのだ。ましてや、船に乗ったとか、史料で裏付けられないことをわざわざ考える必要はない。
■秀吉は本能寺の変が起こることを知っていたのか
「秀吉は本能寺の変が起こることを知っていた」ということもよく言われているが、まったく根拠のない話である。「最後に秀吉がいちばん得をしたのだから、知っていたはず」、「秀吉が知らなければ、計画的な中国大返しはできないはず」などの見解は、結果から遡及して導き出されたものにすぎない。
冷静に考えてみると、電子メールや携帯電話がない戦国時代において、本能寺の変から中国大返し、山崎の戦いに至るまで、シナリオどおりにうまく事が運ぶのかという疑問が残る。ましてや信長の死後、秀吉が天下人になれる保証はまったくないのだ。秀吉が「本能寺の変が起こることを知っていた」というのは、単なる妄説にすぎない。
もっとも大きな疑問は、秀吉が「本能寺の変が起こることを知っていた」ならば、なぜすぐに信長に教えなかったのかということである。信長死後のさまざまなリスクを考えるならば、変が起こることを信長に知らせ、真っ先に光秀を討てば、秀吉はさらに多大な恩賞をもらえたに違いない。
したがって、中国大返しはややこしい説をわざわざ唱える必要がなく、常識的なレベルで考えればよいのであって、それがもっとも妥当なのである。