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【「麒麟がくる」コラム】明智光秀の快進撃。丹波赤井氏・丹後一色氏を討伐し、織田信長に激賞される

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
八上城を落とした明智光秀は、さらに丹波と丹後を平定し、織田信長から激賞された。(提供:アフロ)

■明智光秀の快進撃

 天正7年(1579)6月、明智光秀は丹波八上城(兵庫県篠山市)を落城させると、その勢いでもって丹波の赤井氏、丹後の一色氏を討滅した。光秀の活躍ぶりは織田信長から激賞されたのであるが、その経過を確認することにしよう。

■丹波宇津氏を討伐

 明智光秀は長期にわたる八上城の攻略を終え、波多野氏を滅亡に追い込んだが、丹波には黒井城(兵庫県丹波市)の赤井忠家、宇津城(京都市右京区)の宇津頼重が依然として抵抗を続けていた。彼らを倒さない限り、真の丹波平定にならなかった。

 なかでも頼重は、禁裏御料所(天皇家の直轄領)の山国荘(京都市右京区)をたびたび違乱しており、止めるように命じても応じず、手を焼く存在だった。頼重の討伐は、たびたびの違乱に悩まされていた朝廷の強い意向があったに違いない。

 天正7年(1579)7月、光秀は頼重を討つべく、再び丹波に出兵した。ところが、光秀を恐れた頼重は、宇津城を放り出して逃走した。あっけない勝利だった。

 それでも光秀は進軍を続け、丹波鬼が城(京都府福知山市)を攻めて近在に放火し、付城を築いたという(『信長公記』)。これにより、ほぼ丹波平定が成った。

 鬼が城の城主は不明であるが、赤井氏の関係者であると考えられている。これにより宇津氏の勢力は、山国荘に違乱することがなくなった。

 同年7月24日、光秀は朝廷から軍功を称えられ、馬、鎧、香袋を与えられたのである(『御湯殿上日記』)。光秀の面目躍如たるところである。

■丹後一色氏、丹波赤井氏を討伐

 その後、光秀は細川藤孝とともに、丹後の一色義道・義定父子の討伐に向かい、降参に追い込んだ(『細川家記』)。さらに光秀は丹波に戻り、赤井忠家の討伐に向かった。

 忠家の叔父・直正は前年3月に亡くなっており、赤井氏の威勢は衰退傾向にあった。「丹波の赤鬼」と恐れられた直正が亡くなったことは、光秀の戦いに有利に作用した。

 同年8月9日、光秀は赤井氏の居城・黒井城を攻撃した(『信長公記』)。黒井城から将兵が出陣し、光秀軍に果敢にも戦いを挑んだが、最終的に降参して開城した。忠家は逃亡し、遠江国二俣(静岡県浜松市)に逃れたという。

 丹波・丹後平定後、信長は光秀に感状を送り、その功を激賞した。同年10月24日、光秀は安土(滋賀県近江八幡市)で信長と面会し、丹波・丹後を平定したことを報告した(『信長公記』)。これにより、光秀は丹波一国の支配を任される。

 光秀の活躍ぶりについて引き合いに出されるのが、信長の天正8年(1580)8月の佐久間信盛・信栄父子への折檻状である(『信長公記』)。ここでは第一に、光秀の丹波平定の軍功が高く評価されている。光秀の丹波・丹後平定は、それほどの偉業だった。

 折檻状の目的は佐久間信盛・信栄父子の怠慢を断罪するものなので、光秀や秀吉の軍功を強調するのは当たり前だったのかもしれない。それはほかの大名の奮起を促し、信賞必罰という方針をいっそう明確にするためだったと考えられる。

 この時点における光秀は、我が世の春を謳歌していたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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