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【戦国こぼれ話】大坂の陣でなぜ宣教師は大坂城に入城したのか?その驚くべき呆れた理由とは!

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
戦国時代にキリスト教は広まったが、徐々に弾圧されることになった。(写真:アフロ)

■無償の愛はない

 最近ではボランティア活動が盛んになってきており、喜ばしい側面もある。しかし、大学生の場合、ボランティア活動の経験が就職につながるのだから、致し方ない側面もあろう。決して無償の愛とは言えないのだ。

 慶長19年(1614)に大坂の陣が勃発すると、キリスト教の宣教師は敗色の濃い豊臣方の籠る大坂城に入城した。これは無償の愛なのか?なぜ、そのような行動をしたのだろうか。

■厳しかったキリシタンの事情

 16世紀末以降、キリスト教は禁止され、徐々に弾圧が厳しくなっていった。大坂の陣がはじまると、大坂城には各地のキリシタン牢人や信者が数多く入城したが、それは豊臣方に庇護を求めるという側面があった。

 すでに、大坂城には宣教師が入城していた。その理由は、彼らがキリシタン牢人や信者を見捨てることができなかったからだけではない。

 豊臣方が勝利した場合は、日本での布教が認められるとの約束が交わされていた。これがもっとも重要な理由だった。しかし、翌年になると、豊臣方は敗北。大坂城は落城した。

■敗北後の過酷な運命

 豊臣方の敗北後、宣教師やキリシタン牢人には、悲惨な運命が待ち構えていた。『日本切支丹宗門史』によると、合戦後の大坂城付近は多くの死体が放置され、河川を堰き止めるほどであったと伝わる。

 一説によると、死者の数は10万前後といわれているが、決して誇張した表現ではないであろう。河川を横切るには、死体の山の上を歩くしかなかった。

 それだけではない。宣教師の中には刀を突きつけられ、雑兵に財布や金品を奪われた者もあった。また、修道服を剥がされ丸裸にされ、仕方なく全裸のままで死体の山を8キロメートルほど歩いた者もいたほどだ。

■宣教師に強い覚悟はあったのか

 先述したとおり、宣教師が大坂城に入城した理由は、キリシタン牢人や信者を見捨てないためだった。信仰のためなら死をも辞さない、宣教師の強い覚悟をうかがえる。

 彼らは豊臣方の勝利に期待しており、再び布教が許されることを願ったと言われている。ただし、コーロス神父の残した記録によって、宣教師が大坂城に入城した理由は疑問視されている。

■大坂城に入城した本当の理由

 豊臣秀頼はキリシタンに好意的だったので、信者の多くは秀頼の勝利を願っていた。ところが、状況を冷静に検討した宣教師は、秀頼の敗北は神の摂理であると矛盾した見解を示していた。それはなぜか。

 宣教師は豊臣方が勝つと、最初は自由な布教活動を許可するかもしれないが、時間が経てば、現在よりもキリシタンを厳しく弾圧すると予想したからだ。これでは、豊臣方を支援する意味がまったくない。

■偶像崇拝への警戒

 豊臣秀吉の死後、子の秀頼は家康よりも下位に甘んじていたので、自力で天下人になることはほぼ不可能であった。そこで、秀頼と淀殿は秀吉が蓄えた金・銀を寺社に寄附し、神と仏にすべてを託したのである。

 秀頼が家康との戦いに勝つことは、単に秀頼の名誉だけでなく、神仏の名誉でもあった。それゆえ神仏への崇敬が盛んになるため、宣教師らは秀頼の考えや行動に大きな疑問を抱き警戒したのだ。

 秀吉は神として崇められ、新しい戦の神を祀った新八幡という名の神殿が建てられようとしていた。偶像崇拝は、キリスト教の信仰では認められていない。

 秀頼は宣教師らに対して秀吉への礼拝を強要したが、宣教師らが拒否することも熟知していた。以上の点から、宣教師たちは秀頼が将来的にキリスト教を弾圧すると予想したのである。期待は裏切られたのであった。

 宣教師らが大坂城に入城した理由についても、ロドリゲス神父が従来説を覆すような報告をしている。

■悲惨な結末

 宣教師は大坂の陣がはじまると、その場を去ろうとしたが、信者たちは宣教師の逃亡を許さなかった。宣教師が去ろうとしたのは、豊臣方が負けることを予想したからだろう。信者たちは、「神父たちが信徒のために命をかける勇気がないとは、今までの説教は何だったのか?」と迫ったのだ。

 信者から抗議を受けた宣教師たちは、半ば強制的に大坂城に入城させられた。そうこうしているうちに戦いがはじまり、城外に出ることができなくなったのである。

 大坂城に入った宣教師は2人だったが、そのうちの1人は秀頼と会談し、教会を建て信者を集めることを許可されたという。

■実は嫌々ながら入城していた

 以上の点から、宣教師らは秀頼に期待を寄せておらず、その勝利がキリスト教布教に繋がると考えていなかった。また、宣教師たちは信者のことを考えて入城したのではなく、信者から強要されて嫌々ながら入城したようだ。

 こうした事実から宣教師の考えが従来説(キリスト教布教のため、布教を許可する豊臣方に身を投じた)と違っていることがわかり、大坂の陣を考えるうえでも大変興味深い。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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