【戦国こぼれ話】今も昔も健康は非常に大切。戦国大名はどうやって健康を維持したのか?

長寿を保った毛利元就。健康のため、医者の助言に耳を傾けていたようである。(提供:アフロ)

■重要だった健康

 安倍前総理が健康上の問題で辞意を表明し、菅総理が誕生したのは周知のことである。総理は激務であるがゆえ、健康に問題があると務まらない。それは、戦国大名も同じだった。

 戦国大名が健康でなければならないことは、当然のことであった。健康を保たなければ、戦乱の時代を生き抜くことができない。そして、何よりも後継者となる子孫を残すこともできなかった。健康に不安のある者は、場合によって廃嫡されることもあったという。非常に厳しい時代だった。

 したがって、必然的に戦国大名は、健康を意識せざるを得なかったのである。では、戦国大名は、どうやって健康を維持したのだろうか。ここでは、徳川家康と毛利元就・輝元を例に取り上げておこう。

■徳川家康と健康

 徳川家康は駿河今川氏のもとで、幼少期を人質として過ごした時期がある。そのような事情もあって、質素倹約を旨とする生活が身についたようである。家康の健康法は、粗食にあったといわれている。若い頃から麦飯、魚、野菜を食し、贅沢を避けていた。

 愛知県の名物に八丁味噌があるが、家康はこれを焼き味噌にしてご飯をかきこんだという逸話が残っている。大豆には貴重なタンパク質が含まれており、三河武士たちのエネルギー源になったのだ。

■薬マニアだった家康

 家康は薬マニアでもあった。薬学書の『本草綱目(ほんぞうこうもく)』や『和剤局方(わざいきょくほう)』を読むなど、和漢の薬に詳しかった。自ら薬の調合を行い、八味地黄丸(はちみじおうがん)という漢方薬を処方して日常的に服用していた。家康が調合のときに使った小刀、青磁鉢、乳棒は、今も残っている。

 慶長15年(1610)と同17年、松前藩の松前慶広(よしひろ)はオットセイを家康に贈った。家康はオットセイを精力剤とすべく、自ら調合したという。家康の薬に関する知識は浩瀚なもので、当時の医者でさえも驚いたといわれている。

 もちろん、家康は健康法だけではなく、歴史書の『吾妻鑑』を講読するなど、非常に勉強熱心でもあった。武道の鍛錬も怠ることがなかったという。こうした質素倹約と刻苦勉励とが、家康が天下を取った大きな秘密だったのだ。

■毛利氏と医者

 家康は自身の鍛錬や薬の知識により健康を保ちえたが、現実には医師の力も必要であった。

 毛利氏の場合で言えば、文禄元年(1592)9月、曲直瀬(まなせ)道三が朝鮮出兵中の毛利輝元の診療を行ったことが知られている。道三は、医師として著名な人物であった。さかのぼる永禄9年(1566)、毛利元就は出雲月山富田城(島根県安来市)の尼子義久を攻めていた最中に病を得た。

 このときに道三は元就を診療し、『雲陣夜話(うんじんやわ)』を記したことで知られる。『雲陣夜話』は、医術の基礎と治療法を説いた医学書である。

 その翌年には、「曲直瀬道三意見書」が元就に献上された。内容は、毛利家の繁栄、武運長久を願ったもので、そのための心得を説いた意見書である。その内容は医学的なものではなく、むしろ生活習慣や心構えを述べており、長寿が生活と密接していることをあらわしている。

 道三と毛利氏の関係は深く、朝鮮半島で輝元が道三の治療を受けたのもうなずける。天正2年(1574)、道三は『啓迪集(けいてきしゅう)』8巻を著し、同年に正親町(おおぎまち)天皇の診療を行った際、同書を献上した。天皇からも厚い信頼を得ていたのである。

■健康には気を付けよう

 全体的に長生きした戦国武将は伊勢宗瑞(北条早雲)など数多いが、それぞれ独自の健康法を持っていたといわれている。つまり、健康には常に気を遣っていたのだ。

 現代社会も心身ともに健康でないと、充実した人生を送ることができない。しかし、現代は戦国時代とは違って、格段に医学が進歩しているので、不調があったら取りあえず医者に診てもらうことだ。