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【戦国こぼれ話】好きな武将を豊臣秀吉に変更!秀吉の人間性は最悪だった!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉のイラスト。大出世を遂げた裏の顔とはいかなるものだったのか?(提供:アフロ)

■菅官房長官は秀吉を好きな武将に

 自民党総裁選は、いよいよ本日(9月14日)が投開票日。大いに注目されている。ところで、菅義偉官房長官は、最初にナンバー2の豊臣秀長を好きな武将として挙げていた。しかし、ここに来て自民党総裁(=内閣総理大臣)を意識したからか、豊臣秀吉に好きな武将を変更した。

 秀吉といえば、時代劇などで明るくひょうきんな知恵者として描かれることが多い。しかし、フロイスの『日本史』には、秀吉の人間性について驚愕すべき評価をしている。秀吉の人間性とはいかに?

■意地悪で嫌われ者の秀吉

 秀吉は百姓の出身ながらも、鋭く問題点を見抜き、改革を行う姿勢は主の織田信長から高い評価を得た。それだけではない。命じられたことに従い、東奔西走し信長に尽くした。そうでなければ、並み居る諸大名たちと肩を並べることはできなかったであろう。しかし、刻苦勉励で改革提案型の秀吉には、裏の顔があった。

 その醜悪な姿を活写しているのが、フロイス『日本史』16章である。フロイスは秀吉が「抜け目なき策略家」であったと指摘したうえで、次のように述べている。

彼(秀吉)は自らの権力、領地、財産が増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えて行った。家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者とてはいないほどであった。

 この記述は、秀吉が信長の死後に天下人となり、天正13年(1585)に関白に就任して以後の内容である。秀吉はキリスト教に理解を示さなかったので、その点で厳しい評価となっている点は認めざるを得ない。この前段においてフロイスは、秀吉を「悪魔の手先」と評価をしている。フロイスにとって、秀吉は神を恐れない悪魔だったのである。

■秀吉は野心家で不義で横暴

 このあとフロイスは、秀吉が人の意見を聞き入れず、常に独断専行であり、誰も彼に意見しなかったことを挙げている。さらに、秀吉が恩知らずであって、最大の功績者を追放したり、不名誉に扱ったり、恥辱で報いた事実を述べている。そして、次のように、秀吉の性質を結んでいる。

彼(秀吉)は尋常ならぬ野心家であり、その(野望)が諸悪の根源となって、彼をして、残酷で嫉妬深く、不誠実な人物、また欺瞞者、虚言者、横着者たらしめたのである。彼は日々数々の不義、横暴をほしいままにし、万人を驚愕せしめた。彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。

 現代社会においても、こうした人物は少なからずいることであろう。本能寺の変を一つの契機として、秀吉の人格は以前からすっかり変わり果ててしまった。とにかく、ここではあらゆる罵詈雑言が並び立てられている。フロイスは、秀吉のそうした抜け目ない醜悪な性格を鋭く見抜いていたのである。

 以上の記述を信じるならば、秀吉はとんでもなく酷い人間性だったといえる。あまり、トップに立ってほしくない人物である。

■秀吉の本当の人間性とは

 秀吉の性格を克明に記した一次史料はなく、多くは後世に成った編纂物が大半である。フロイスの『日本史』は、秀吉が天正15年に伴天連追放令を発したので、厳しい評価を下した節があるかもしれない。一方、秀吉の書状を読んでみると、自己顕示欲に満ちて、相手を恫喝しているようなものが散見する。

 総合的に考えると、秀吉の人格は決して良いとは言えなかったようだ。しかし、どなたが自民党総裁(=内閣総理大臣)になっても、思いやりある政治をしてほしいものである。決して秀吉のようには、なっていただきたくないものだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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