Yahoo!ニュース

【「麒麟がくる」コラム】謎多き明智光秀の誕生年。いったいどの誕生年が正しいのか!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
生後5日目の赤ちゃん。光秀はいつ生まれたのだろうか?(写真:アフロ)

■謎多き明智光秀の誕生年

 大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀を演じるのは、若々しくイケメンの長谷川博己さん。ところで、光秀の生年については複数の説があり、いまだに定説はない。光秀の生年については、いったいどのような説があるのだろうか。

■系図に見る光秀の生年

 最初に系図の記載から確認しよう。『明智系図』(『鈴木叢書』所収)には、享禄元年(1528)3月10日に美濃の多羅城(岐阜県大垣市)で誕生したと書かれている。『明智氏一族宮城家相伝系図書』には、享禄元年8月17日に美濃の多羅城で誕生したと書かれている。ともに享禄元年説を採用しているので、光秀は天正10年(1582)6月に55歳で亡くなったことになる。

 ただし、この系図の記載はあてにならない。というのも、以上の2つの系図は、そもそも光秀の父の名前が一致しないなど問題が多い。ともに享禄元年説を採用しているのは、単なる偶然の一致かもしれないが、誕生した日付が異なっているのも不審である。『明智系図』と『明智氏一族宮城家相伝系図書』の記載は、そのまま信じるわけにはいかないだろう。

■『明智軍記』の説

 光秀が享禄元年に誕生したという説を唱える史料としては、『明智軍記』がある。『明智軍記』は元禄6年(1693)から同15年の間に成立したとされ、作者は不詳である。光秀が亡くなってから、おおむね100年以上を経過して成立している。光秀を中心に取り上げた軍記物語はほかになく、そういう意味では貴重な史料といえるのかもしれない。

 しかし、『明智軍記』が執筆に用いた史料には、かなり質の悪い史料も含まれている。同書には光秀の前半生に関わるユニークな話が数多く書かれているが、多くは一次史料で裏付けることができず、記述内容に誤りが多い。歴史史料として使うことは不可能である。したがって、『明智軍記』の光秀が享禄元年に誕生したという説は、そのまま鵜呑みにはできない。

 なお、すでに半世紀以上も前、古典的名著『明智光秀』の著者として知られる高柳光壽(みつとし)氏は、『明智軍記』を信頼できない悪書(「誤謬充満の悪書」と記す)と指摘したことを申し添えておく。

■『当代記』の説

 江戸時代初期に書かれた『当代記』は、光秀の没年齢を67歳であると記している。かなりの高齢だ。光秀が亡くなった天正10年(1582)から逆算すれば、永正13年(1516)に光秀が誕生したことになる。『当代記』は著者が不明(松平忠明とも?)で、寛永年間(1624~44)頃に成立したと推測されている。

 『当代記』には当時の政治情勢や大名の動向などが詳しく書かれており、新しい時代ほど記述内容は信頼度が高いと評価されている。しかし、残念なことに信長の時代については、史料的な価値が劣る儒学者の小瀬甫庵(ほあん)の『信長記』に拠っている記事が多く、記事内容の信頼度が低い。比較のうえでは、先の系図類よりも『当代記』が良質であるが、正しいという保証はない。

 小瀬甫庵の『信長記』は、慶長16・17年(1611・12)年頃に成立した。同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。『信長記』は、信頼度が高いとされる太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書かかれたものである。

 ところが、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施した。それゆえ、『信長記』は小説のようにおもしろく、江戸時代には太田牛一の『信長公記』よりも広く読まれた。現在、『信長記』は創作性が高く、歴史史料としては使えないと評価されている。そのような理由から、光秀が永正13年に誕生したという説も信用しかねるところだ。

■『綿考輯録』の説

 『綿考輯録』(めんこうしゅうろく)には、光秀が57歳で没したと書かれている。逆算すると、誕生年は大永6年(1526)になろう。『綿考輯録』には若き頃の光秀の姿が詳しく描かれているが、信頼できる史料なのだろうか。

 『綿考輯録』は安永年間(1772~81)に完成した、細川藤孝(幽斎)、忠興、忠利、光尚の4代の記録である。編者は、小野武次郎。熊本藩・細川家の正史だ。『綿考輯録』の評価は、忠利、光尚の代は記述内容の信憑性が高いが、藤孝(幽斎)や子の忠興くらいの時代の記述内容は、問題が少なくないと指摘されている。

 それは、なぜだろうか。その理由は、『綿考輯録』を編纂するに際して多くの量の文献を参照しているが、中にはかなり質の低い史料が含まれているからである。

 たとえば、同書が『明智軍記』を用いているは、その好例である。『総見記』などの信頼度の低い史料も多々使用している。『総見記』は遠山信春の著作で、貞享2年(1685)頃に成立した。史料性の低い甫庵の『信長記』を下敷きにして、増補・考証したものなので非常に誤りが多く、史料的な価値はかなり低い。今では顧みられない史料である。

 『綿考輯録』の参考書目を見ると、多くの史料類や編纂物が挙がっているが、玉石混交なのは明らかである。加えて、『綿考輯録』は細川家の先祖の顕彰を目的としているので、編纂時にバイアスがかかっているのは明らかだ。同書が細川家の正史だから正しいという保証はなく、光秀の生年に関する記述についても慎重になるべきだろう。

■幅がある光秀の生年

 光秀の誕生年については、「二次史料に拠る限り」という留保付きで、おおむね永正13年(1516)から享禄元年(1528)の間とくらいしか言えない。生年すらわからないのは、光秀の出自と深くかかわる問題で、決して名族の出自でないことをうかがわせる。

【主要参考文献】

高柳光壽『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)

渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書、2019年)

渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫、2019年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事