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日本人メジャーリーガーの初記録【投手編】マッシー村上の初勝利は51年も昔。野茂英雄の初完投も20年前

宇根夏樹ベースボール・ライター
マッシー村上(村上雅則)MAY 1, 2000(写真:川窪隆一/アフロスポーツ)

今から51年前の9月29日にマッシー村上(村上雅則)が挙げた初勝利は、先発登板ではなかったものの、ワンポイントリリーフや1イニングを投げただけで、幸運な巡り合わせによって転がり込んだものではなかった。村上は他にも、日本人メジャーリーガーの初記録を数多く持っている。そのことは、前に書いた「打撃・走塁編」でもよくわかるが、今回の「投手編」ではなおさらだ。

登板■1964年9月1日/マッシー村上/サンフランシスコ・ジャイアンツ

ニューヨーク・メッツに4点をリードされた8回裏からマウンドに上がり、三振、ヒット、三振、内野ゴロでイニングを終わらせた。昇格前にはカリフォルニア・リーグ(A)で49試合に登板して106.0イニングを投げ、11勝7敗、防御率1.78、奪三振率13.50、与四球率2.89、K/BB4.68。これらの数値のうち、防御率と奪三振率とK/BBは、カリフォルニア・リーグで100イニング以上を投げた42投手のベストだった。

先発■1965年8月15日/マッシー村上/サンフランシスコ・ジャイアンツ

ジャイアンツが催した「マサノリ・ムラカミ・デー」に先発。最初の2イニングは無失点に抑えたが、3回表に1死一、三塁として、ディック・アレンに三塁打を打たれたところで降板した。メジャーリーグ通算54登板のうち、先発はこの試合だけだった。

勝利■1964年9月29日/マッシー村上/サンフランシスコ・ジャイアンツ

2番手として、4対4の9回表から3イニングをヒット1本に抑え、11回裏のサヨナラ勝ちで白星を手にした。メジャーデビューから7登板目。相手はヒューストン・コルト.45's(現ヒューストン・アストロズ)だった。この試合に出場した選手のうち、ジャイアンツからはウィリー・メイズ、ウィリー・マッコビー、オーランド・セペダ、コルト.45'sからはジョー・モーガンが殿堂入りしている。

敗戦■1965年5月22日/マッシー村上/サンフランシスコ・ジャイアンツ

マウンドに上がった7回裏に、ヒューストン・アストロズのジョー・ゲインズにいきなり本塁打を浴びて同点とされ、8回裏、1死一塁の場面で降板。引き継いだフランク・リンジーがタイムリーヒットを打たれ、チームはそのまま敗れたため、村上に黒星がついた。リンジーがこの年に記録した防御率1.43は、ナ・リーグで救援50イニング以上を投げた34投手のなかでベストだった。ゲインズは1969年に阪神タイガースでプレーした。

セーブ■1964年9月22日/マッシー村上/サンフランシスコ・ジャイアンツ

7対1とリードした9回裏、無死一、二塁から登板し、ヒューストン・アストロズの打者3人を討ち取った。セーブが公式記録となった1969年以降では、長谷川滋利が最初。メジャーリーグ2年目の1998年6月4日に、アナハイム・エンジェルス(現ロサンゼルス・エンジェルス)の3番手として8回裏、無死一、二塁から投げ、シアトル・マリナーズの打者6人をアウトに仕留めた。なお、村上の場合、現行のルールではセーブに該当しないが、1969~1973年のルールに当てはめている。

セーブ失敗■1964年9月18日/マッシー村上/サンフランシスコ・ジャイアンツ

8回表、ピッツバーグ・パイレーツに1点差まで追い上げられ、なおも1死二、三塁の場面でマウンドへ。最初の打者は内野フライに仕留めたが、ボークで同点とされた直後にタイムリーヒットを浴び、逆転を許した。試合はそのまま3対4で終わり、村上の前に投げたボブ・ショウが敗戦投手となった。セーブ失敗が記録として登場した1988年以降では、セーブと同じく長谷川滋利が最初。1997年4月22日にアナハイム・エンジェルス(現ロサンゼルス・エンジェルス)の2番手として投げ、トロント・ブルージェイズのアレックス・ゴンザレスに同点ソロ本塁打を打たれた。長谷川はこの試合を含め、メジャーデビューから6登板して防御率9.49、被本塁打4本。結局、この年の被本塁打は14本に達したが、防御率は3点台まで持ち直した。

ホールド■1965年7月28日/マッシー村上/サンフランシスコ・ジャイアンツ

6回表、2死一、二塁から登板して内野ゴロを打たせ、次の回に2四球で2死一、二塁としたところで降板した。続いて投げたフランク・リンジーが二塁打を打たれて1点差に詰め寄られたものの、追いつかれはしなかった。ホールドが記録として登場したのは1999年。それ以降では、長谷川滋利が1999年5月1日にアナハイム・エンジェルス(現ロサンゼルス・エンジェルス)の2番手として、1イニングを抑えたのが最初だ。

完投■1995年6月24日/野茂英雄/ロサンゼルス・ドジャース

メジャーデビューから11登板目のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦において、初の完投を完封で飾った。被安打2、与四球3、奪三振13。この直前には4登板続けて8イニング以上を投げており、初完投は時間の問題だった。続くコロラド・ロッキーズ戦も完封。こちらは被安打6、与四球1で、奪三振は同じ13だった。野茂が再び連続完封を演じることはなかったが、1996年と1998年には2試合続けて完投を記録した。

奪三振■1964年9月1日/マッシー村上/サンフランシスコ・ジャイアンツ

デビュー戦で、最初に対戦したチャーリー・スミスを見逃し三振に仕留めた。スミスとの対戦は翌年にも2度あり、いずれも三振を奪った。村上が3奪三振を記録した打者は4人。全打席とも奪三振はスミスだけだが、残る3人にはフランク・ロビンソンが含まれている。ロビンソンとは1965年に4度対戦し、奪三振3、被本塁打1本。その翌年、ロビンソンは三冠王を獲得した。

与四球■1964年9月9日/マッシー村上/サンフランシスコ・ジャイアンツ

メジャーリーグ2登板目。2イニング目に入り、2者を討ち取った後にロサンゼルス・ドジャースのウィリー・デービスを歩かせた。だが、次打者から三振を奪い、失点には至らなかった。デービスは1977年に中日ドラゴンズ、1978年にクラウンライター・ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)でプレーした。初の敬遠与四球は、1695年5月25日のミルウォーキー・ブルワーズ(現アトランタ・ブレーブス)戦。本塁打、ヒット、二塁打で無死二、三塁としたところで、8番打者との勝負を避け、投手のウェイド・ブレイシングゲームと対戦した。結果は三振。ただし、そこから二塁打、内野ゴロ、暴投で4点を失った。

与死球■1965年5月9日/マッシー村上/サンフランシスコ・ジャイアンツ

同点の8回表、1死一、三塁の場面で、ゲイロード・ペリーに代わってマウンドへ。これが、シーズン初登板。最初に対戦したジョン・ローズボロ(ロサンゼルス・ドジャース)にぶつけ、次のジム・ラフィーバーから三振を奪ったところで、ホアン・マリシャルと交代した。この年の8月22日には、捕手のローズボロが投手へ返球する際、打席にいたマリシャルの顔面すれすれに投げ、そこから乱闘が起き、マリシャルがローズボロの頭をバットで殴打している。ラフィーバーは1973~76年にロッテ・オリオンズ(現・千葉ロッテ・マリーンズ)でプレーした。

被本塁打■1964年10月4日/マッシー村上/サンフランシスコ・ジャイアンツ

シーズン最後の162試合目に本塁打を浴びたが、それまでの8登板は被本塁打ゼロだった。相手はシカゴ・カブスのジミー・スチュワート。通算777試合に出場し、本塁打は8本だった。スチュワートに本塁打を許す3イニング前には、ディック・バーテルに犠牲フライを打たれ、初の失点と自責点がついた。

日本人メジャーリーガーの初記録【打撃・走塁編】日本人選手の初ヒットは、今からちょうど半世紀前

ベースボール・ライター

うねなつき/Natsuki Une。1968年生まれ。三重県出身。MLB(メジャーリーグ・ベースボール)専門誌『スラッガー』元編集長。現在はフリーランスのライター。著書『MLB人類学――名言・迷言・妄言集』(彩流社)。

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