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月曜ジャズ通信 ヴォーカル総集編vol.5

富澤えいち音楽ライター/ジャズ評論家

<総集編>では、月曜ジャズ通信で連載している「今週のヴォーカル」だけを取り出して、アナタのジャズを広げられる出逢いが詰まったヒントになるようお送りします。

♪ラインナップ

アニタ・オデイ

アン・バートン

ビリー・エクスタイン

ジョニー・ハートマン

ジョン・ヘンドリックス(ランバート、ヘンドリックス&ロス)

執筆後記〜ナット・キング・コール、オスカー・ピーターソン

ヴォーカル総集編vol.5
ヴォーカル総集編vol.5

※<月曜ジャズ通信>アップ以降にリンク切れなどで読み込めなくなった動画は差し替えるようにしています。

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●アニタ・オデイ

“白人女性ジャズ・ヴォーカルの最高峰”と推す声が最も多いと言っても過言ではないのがアニタ・オデイです。もちろん、ボクもその意見に賛成です。

1919年米イリノイ州シカゴで生まれたアニタは、母親が育児に関心がないなど恵まれたとは言いにくい環境に育ちました。7歳のときに扁桃腺を腫らして摘出手術を受ける際に、誤って口蓋垂(のどちんこ)を切除され、以来、歌うときに音を伸ばしたりヴィブラートをかけたりすることができなくなってしまったそうです。

歌を覚えたのは中学に進学したころに通っていた教会。しかしこのころ、彼女の人生は歌ではなく別のことで大きく変わっていきます。14歳のときに参加した24時間耐久徒歩コンテスト“ウォークソン”にハマってしまったのです。彼女はプロとして約2年間、このコンテストを渡り歩きながら生活していたというから驚きです。もちろん、未成年の彼女は保護司に補導され、強制送還されるという結末を迎えるのですが……。

20歳を迎える1939年に歌手としてデビュー。1941年には“美人で歌がうまい”という評判を聞きつけた“大スター”シーン・クルーパーに雇われ、トップへの階段を上り始めることになります。クルーパー楽団でヒットを連発した後、スタン・ケントン楽団に移ってもミリオン・セラーを放ち、1945年のダウンビート誌でベスト女性バンド・ヴォーカリストに選出されています。

ソロとして独立したアニタは、歌手活動の傍らに手を出したクラブ経営に失敗、そのストレスによるアルコール依存といった不調が重なり、1940年代後半は第一線から姿を消してしまいます。

そんな危機的状況を救ったのは、ジャズ界の大物プロデューサーとして世界に名を轟かせていたノーマン・グランツ。彼は自身のレーベルにアニタを迎え、再び精力的に活動を始めた彼女をサポートしました。こうしてアニタ・オデイは絶頂期と言われる1950年代を過ごすことになるのですが、なかでも1958年に出演したニューポート・ジャズ・フェスティヴァルのステージは映画にも収められ、ジャズ史の1ページを飾るとともに、アニタの絶頂期を不滅のものにしたと言われています。

ところが、こうした好調な歌手活動の一方で、彼女は麻薬に手を出し、マリファナで2回、ヘロインで1回の収監処分を受けただけでなく、1966年には過剰摂取で生死の境をさまようまでになり、その状況から逃れようと酒に頼ってアルコール依存になるといった、悪循環に陥ってしまいます。

1970年代にようやく復調し、1975年には『アニタ・オデイ1975』が注目を浴びて、日本でのアニタ人気に火がつきます。アメリカでも1985年にカーネギー・ホールでデビュー50周年記念コンサートが開催されるなど現役シンガーとして支持され、2006年に87歳でその激動の生涯を閉じました。

♪Anita O'day performing at Newport Jazz Festival

アニタ・オデイの名声を不動のものにした、1958年の第5回ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルのステージです。「スウィート・ジョージア・ブラウン」と「二人でお茶を」の2曲、圧倒的なステージングですね。ジャズ・ヴォーカルで“フェイクする”というお手本のようなパフォーマンスと言えるのではないでしょうか。

♪Gene KRUPA & Anita O'DAY " Let Me Off Uptown "

彼女をスターダムに押し上げたジーン・クルーパー楽団での1942年当時の映像です。ドラムを叩いているのがジーン・クルーパー、後半でソロをとっているのがスウィングを代表するトランペット奏者と言われるロイ・エルドリッジ。途中で男女2人が披露する踊りはジャズのルーツとされるミンストレル・ショーを彷彿とさせるもので、いろいろな意味で興味深い内容となっています。

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●アン・バートン

アメリカの音楽産業の中心が東のブロードウェイから西のハリウッドに移り、ヨーロッパ系白色人種のアイドル性を重視したシンガーがポピュラー音楽シーンの最前線で活躍し、公民権運動の盛り上がりによってアフリカ系黒色人種がよりアフリカらしさを追求するようになった1960年代。

そのヨーロッパ系とアフリカ系のどちらからも薄れてきたと思われた、ジャズにとってきわめて重要な要素である“ブルー”を感じさせるシンガーが、アメリカ以外の場所から出現しました。

彼女の名前はアン・バートン。

1933年に暗雲漂う第二次世界大戦下のオランダ・アムステルダムで生まれた彼女は、ナチスのユダヤ人迫害から逃れるようにして幼少期を過ごすことになります。1945年春のドイツ降伏以降も恵まれた家庭環境とは言えず、母親とうまくやっていけなかったために、福祉家の施設に引き取られて育ちました。

やがて彼女は歌手をめざすようになり、オランダを出て、アン・バートンという芸名で主にヨーロッパの連合軍キャンプを回ります。

歌手活動12周年を迎えたとき、アン・バートンはアルバムを作ることを計画します。1967年9月24日の夕方、アムステルダムのHet Bavohuisという小さな劇場で録音を始めました。これが、当時34歳のアン・バートンのファースト・アルバム『ブルー・バートン』です。

1960年代といえば、世界的なポピュラー音楽の潮流はロックに傾き、ジャズへの注目度はめっきり低下してきた時代でしたが、彼女は感情をあらわにして歌うロック系の歌唱に追従せず、歌詞を慎重に扱い、自分の繊細な声を活かした歌唱を磨き上げることに専念します。

こうした努力が『ブルー・バートン』に結びつき、高い評価を受けた彼女の名前は、オランダのみならず世界に広まっていきました。

♪Ann Burton ; Someone to watch over me

『ブルー・バートン』収録の「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー」です。

♪Ann Burton「Got to get you into my life」

アン・バートンが出演したテレビ・ショーで「Got to get you into my life」を歌っている映像です。

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●ビリー・エクスタイン

アフリカ系アメリカン・シンガーの最高峰とされるビリー・エクスタイン(1914〜1993)は、米ペンシルヴァニア州ピッツバーグ生まれ。

父方の祖父はプロイセン生まれのヨーロッパ系という混血の家系で、ワシントンD.C.にある全米屈指の“名門黒人大学”であるハワード大学卒業という経歴から推測しても、暮らしに不自由しない家庭環境だったようです。

大学を出た1933年にアマチュアのタレント発掘コンテストに出場し合格。エンタテインメント業界へと足を踏み入れます。

1939年から43年までヴォーカル兼トランぺッターとしてアール・ハインズ楽団に在籍して脚光を浴びると、独立して自己楽団を結成。ディジー・ガレスピー、デクスター・ゴードン、マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー、チャーリー・パーカー、ファッツ・ナヴァロといったビバップ期を代表するスター・プレイヤーを擁したオールスター楽団だったことから考えても、当時のビリー・エクスタインがファンのみならずミュージシャンからも高い評価を得ていたことがうかがえます。

1947年にはソロ・シンガーとして活動するようになり、1950年代になるとさらに多くのヒットを放って、その名声を確かなものにしました。

♪Billy Eckstine- Prisoner of Love

1946年のライヴ・ショーの映像です。テナー・サックスにジーン・アモンズやフランク・ウェス、ドラムにアート・ブレイキーといった有名どころの顔が見えるようです。

♪LINDA RONDSTADT & BILLY ECKSTINE duet GOD BLESS THE CHILD

1970年に放送されたテレビ番組。リンダ・ロンシュタットはソロ・シンガーとしてデビューしたばかり。包み込むようなソフトな歌声のエクスタインはデュエットの達人でもあり、彼の表現力豊かな歌い方を特色づけるパフォーマンスのひとつにも挙げられています。

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●ジョニー・ハートマン

1963年に制作、リリースされた『ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン』というアルバムによって、ジャズ史にその名を残すことになったと言っても過言ではないのが、ジョニー・ハートマン(1923〜1983)。

日本版Wikipediaなどには米ルイジアナ州ホーマ生まれとありますが、アメリカの資料では米イリノイ州シカゴ生まれとなっているものが多いようです。

幼少期から歌がうまかったようで、奨学生としてシカゴ・ミュージック・カレッジに入学する前に、教会の合唱隊や高校のグリー・クラブで活躍、陸軍の慰問団などでも歌っていたようです。

第二次世界大戦に従軍した後、“ジャズ・ピアノの父”と呼ばれるアール・ハインズが主宰したコンテストで認められ、彼の楽団で歌うことになります。

1947年にはビバップの創始者のひとりであるディジー・ガレスピーの楽団に移り、当時の先進的なサウンドにも対応できるヴォーカリストとして注目を浴びるようになりました。

1949年にガレスピー楽団を退くと、ピアノのエロル・ガーナーのトリオと一緒に活動を始めましたが、これは2カ月ほどで解消。

1950年代はソロ・シンガーとして活動し、アルバムもリリースしましたが、注目には至りませんでした。

アール・ハインズ楽団の先輩であるビリー・エクスタインや、クルーナーとして全国的な人気を博していたビング・クロスビー、フランク・シナトラに勝るとも劣らない実力がありながら冷や飯を食わざるを得なかったのは、チャンスに恵まれなかったことはもちろんですが、1950年当時の公民権運動の盛り上がりによってアフリカン・アメリカンのポジションが変化したことが影響していると言われています。

つまり、シナトラばりの美声で歌うアフリカ系歌手は安く見られてしまったということになるでしょうか。そういえば、ナット・キング・コールも1956年に“ジャズ回帰”と呼ばれたピアノ・トリオによる『アフター・ミッドナイト』を発表しているので、ポピュラー音楽における潮目が変わりつつあったのかもしれません。

ハートマンの状況が一変したのは1963年。きっかけは、冒頭で紹介したコルトレーンとのコラボレーション作品『ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン』の制作でした。

ハートマンとコルトレーンはガレスピー楽団時代からの知り合い。

1960年代に入って自己クァルテットを結成し、独自のスピリチュアルでインプロヴィゼーショナルなジャズを展開していたコルトレーンですが、さらなる表現力の追求と、アルバムの売上げをアップすることで活動の自由度を広げる意図をもって、ヴォーカル・アルバムを制作しようとしました。そこで白羽の矢が立ったのが、旧知のジョニー・ハートマン。

テクニックも表現力も文句なし。とはいえ、最も重要なのはスケジュールも押さえやすく、ギャラも高くなさそうなこと……だったのではないかと推測します。

かくして出来上がったアルバムは、コルトレーンの目論見どおりヒットしただけでなく、20世紀を代表する男性ジャズ・ヴォーカル・アルバムとして歴史に残るものになりました。

♪john coltrane & johnny hartman / "my one and only love"

5分弱の曲の2分以上をコルトレーンが吹くというところに、このアルバムの異様さが表われているのではないでしょうか。だからこそ、ジャズ・ヴォーカルとスピリチュアル・ジャズが融合したこの名作が生まれたわけなのですが。

♪Johnny Hartman sings Lush Life

亡くなる年に出演したテレビ番組の映像のようです。往年の声の張りはありませんが、豊かな表現力は健在ですね。

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●ジョン・ヘンドリックス

インストゥルメンタル、すなわち楽器のみの演奏曲として発達したジャズに、歌詞を後付けする“ヴォーカリーズ”という手法をもち込んで、カヴァーという概念を革新したのがジョン・ヘンドリックス(1921〜)です。

米オハイオ州ニューアーク生まれ。14人兄弟だった彼の家族は、米メソジスト監督教会の牧師だった父親に連れられて各地を転々としたのち、オハイオ州のトレドに定住しました。

7歳で人前で歌うようになり、10歳のころにはトレドの有名人になっていたとか。同郷のピアノの巨人、アート・テイタムのラジオ番組にレギュラー出演していたそうです。

第二次世界大戦中は兵役につき、終戦後は復員兵援護法を利用してトレド大学へ進みますが、給付金が終了して法律家への道が断たれてしまいます。そんなころ、ツアーでトレドを訪れたときに知り合いになっていたチャーリー・パーカーに呼ばれてニューヨーク行きを決意し、本格的な歌手としてのキャリアをスタートさせます。

1957年には、デイヴ・ランバートとアーニー・ロスとで“ランバート、ヘンドリックス&ロス”というヴォーカリーズのトリオを結成。このユニットの成功が、ジャズにおけるヴォーカリーズを確立し、それを成し遂げたジョン・ヘンドリックスの名声を不動のものにしたと言ってもいいでしょう。

1960年代後半には再びソロ活動を始め、1968年に拠点を英ロンドンに移してヨーロッパ方面へも名声を広めますが、5年後にはカリフォルニアへ戻り、以降は歌手としての活動のほかに教育にも力を注ぎました。

旧知だったマンハッタン・トランスファーとのコラボレーション・アルバム『ヴォーカリーズ』(1985年)はグラミー賞7部門を受賞しています。

2013年には91歳にして来日を果たし、その健在ぶりを日本のファンに示してくれました。

♪Lambert Hendricks and Ross airegin

ランバート、ヘンドリックス&ロスが歌う「エアジン」です。ソロ・パートで延々と超絶的なスキャットを披露しているので要注目。このリズム感とセンスがあったからこそ、ジャズのクオリティを損なわない歌詞を付けてヴォーカリーズを成立させることができたのですね。

♪Jon Hendricks & The Manhattan Transfer

1991年のスペイン・ヴィトリア・ジャズ・フェスティヴァルでの、ジョン・ヘンドリックスとマンハッタン・トランスファーの共演ステージです。同じく「エアジン」を歌っています。

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執筆後記

富澤えいち『頑張らないジャズの聴き方』
富澤えいち『頑張らないジャズの聴き方』

最近、資料を調べていたら、「ナット・キング・コールとオスカー・ピーターソンとのあいだに密約が交わされていた」という情報をゲットしました。

ナット・キング・コールといえば、ジャズ出身で20世紀を代表するアメリカのポップ・シンガー。一方のオスカー・ピーターソンは、カナダ生まれながら“超手数王”として世界を席巻したジャズ・ピアニスト。

その2人が“不可侵条約”を締結していたらしいのです。

いきさつは不明ですが、人気者だった2人が出逢ったとき、お互いの立場を尊重して、ナット・キング・コールはピアノを、オスカー・ピーターソンは歌を、それぞれ封印したというのです。2人とも歌もピアノも達者なミュージシャンだからこそのエピソードと言えるかもしれません。

この“不可侵条約”はキッチリと一方が亡くなるまで守られました。先に亡くなったのはナット・キング・コールで、1965年2月15日。

そしてその年、オスカー・ピーターソンはナット・キング・コールを追悼するアルバムで、封印していた歌を披露しています。

天国のナット・キング・コールに聴かせるように……。

♪Nat King Cole with The Oscar Peterson Trio- Sweet Lorraine

ナット・キング・コールとオスカー・ピーターソンが共演している映像です。アメリカのテレビ番組のようですが、後ろの壁に不思議なカタカナで書かれたミュージシャンの名前が貼ってあるのが気になります(笑)。

♪Sweet Lorraine- Oscar Peterson Trio- With respect to nat

1965年にオスカー・ピーターソンの歌で録音されたアルバム『ウィズ・リスペクト・トゥ・ナット』の1曲。ちょっと声は細いですが、ナット・キング・コールにそっくりではないでしょうか。

♪TEA FOR TWO (1957) by Nat King Cole- two different

ナット・キング・コールのピアノの腕前も決してオスカー・ピーターソンに引けを取らないことが、この映像からもわかるでしょう。

富澤えいちのジャズブログ⇒http://jazz.e10330.com/

音楽ライター/ジャズ評論家

東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。2004年『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)、2012年『頑張らないジャズの聴き方』(ヤマハミュージックメディア)、を上梓。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。2022年文庫版『ジャズの聴き方を見つける本』(ヤマハミュージックHD)。

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