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「移民が増えるから英語教育を頑張ろう」という歪んだ主張

寺沢拓敬言語社会学者

だいぶ日が空いてしまいましたが、大修館『英語教育』2019年3月号に掲載したコラム「英語教育時評」の草稿を以下に掲載します。

以下の草稿と実際に掲載された内容は大きく異なります。

草稿を提出したところ、編集部より、朝鮮学校無償化除外の部分を削除してほしいという強い「お願い」を頂いたので、完成版にはその部分はありません。

また、草稿では「推進派の一部に、迫りくる移民社会化を小学校英語導入の根拠にあげる者」とあえてぼかして書いていたのですが、その存在を疑うようなコメントを編集部からもらったので、せっかくなので出典を追加しました。(金森先生、せっかくぼかして書いていたのに、結果的に名指ししてしまいすみません)

同コラムの原文をお持ちの方は、以下の草稿と比較対照してみたらおもしろいかもしれません(おもしろくなかったらすみません)

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改正入管法、英語教育、異文化理解

寺沢拓敬(関西学院大学准教授)

2018年12月8日、改正入管法が成立した。今まで外国人就労は高度専門職者など特定の業種のみに限定されていたが、法改正により非専門職を含む多様な職業に拡大される。

国会審議は荒れに荒れた。その理由のひとつは、外国人の劣悪な就労環境がいっそう深刻化するのではという懸念である。というのも、低賃金で短期間だけ単純労働に従事する「手軽に使える労働力」を受け入れたいという政府の本音が見え隠れするからだ。現在ですら外国人技能実習生制度という抜け穴を悪用した外国人労働者の酷使が問題になっており、法改正でさらに非人道的な労働が拡大することが予想されている。

小学校英語論義と外国人

外国人労働者や移民の話で思い出すのは、外国語活動の必修化前(2000年代)の小学校英語論争である。推進派の一部に、迫りくる移民社会化を小学校英語導入の根拠にあげる者がいた。曰く、「日本はこれから少子高齢化で大量の移民を受け入れる必要がある。その頃の大人、つまり現在の子どもたちに、外国人への寛容性を育まなくては!」と。

たとえば、金森強氏は、『中央公論』(2006年 10月号)「子どもの可能性を広げる多言語学習」の中で次のように主張していた。(注、タイトルからはわかりづらいが、ここでの「多言語学習」は、小学校英語が念頭に置かれている)

ある統計予測によれば、日本に来る移民の数は現在の一〇倍以上になるという。将来の日本社会が多様なバックグラウンドを持った人々の人権をしっかり守ることができるかどうかは、現在の子どもたちへの教育にかかっている。…日本語以外の様々な言語や文化の存在に気づくだけでも、子どもたちの世界観は大きく変わる

荒唐無稽な主張に感じる人もいるかもしれないが、当時はむしろ肯定的に受け止められていたと思う。必修化前は、総合学習における国際理解教育の枠内で英語活動が展開されていた時期であり、異文化理解の観点からのカリキュラムづくりが真剣に模索されていたからだ。また、似たような主張は文科省もしている(2014年9月「今後の英語教育の改善・充実方策について 報告」)

ダブルスタンダード

「来る移民社会のために、外国人に対して寛容な心をもった子どもを育てたい!」。一見美しいスローガンだが、よく考えるといくつも疑問が浮かぶ。

いま目の前にある外国人問題はそのままでよいのか。現在の大人が動かしている社会は何もしなくてよいのか。

2000年代、公式的には日本に「移民」は存在しなかったが、既に多数の外国人がいた(たとえば、オールドカマー、ニューカマー、インドシナ難民、日系人)。そして、少なくともその一部において、深刻な人権侵害が問題になっていた。

その最たる例が、2010年の朝鮮学校の無償化除外問題である。「教育を受ける権利」は憲法上および国際条約上保障されている基本的人権の一つだ。しかし、その権利を、外交上および世論感情という基本的人権とは無関係な理由で制限した問題である。

その反人権性=差別性はさておき、今でも私が覚えているのは、この問題に対して国際理解を訴えていた英語教育研究者のほとんどが沈黙していたことである。賛成でも反対でもなく沈黙。在日朝鮮人をはじめとした日本国内の文化的マイノリティの問題は、小学校英語の異文化理解教育の対象外であると暗に宣言しているように思えてならなかった。

うわべだけの多文化主義

日本近現代史の著名な研究者であるテッサ・モリス=スズキは、日本の異文化受容のあり方をコスメティックマルチカルチュラリズム(うわべだけの多文化主義)と厳しく批判した。要するに、異文化接触に伴う表面的で、だからこそ協調的な部分にだけ目を向け、当然あるはずの対立・葛藤から目を逸らす態度である。たしかに、異文化理解を謳ったアクティビティの多くは、世界の人々の生活・習慣を表層的に伝えるだけで、共生していれば避けて通れない諸問題はとりあげない。

「来るべき移民社会のために寛容な子どもを育てたい」。うわべだけみれば美しい言葉だが、すでに進行する移民社会日本がはらむ重大な問題点に目を背けているだけではないだろうか。または、在日外国人の存在は英語教育推進のための体のいい口実に過ぎないのか。

英語教育における異文化理解は、単なるうわべだけのものか、それとも負の問題にも目を向けた言葉の正確な意味での異文化理解なのか。その答えは、今後、関係者が外国人問題にどう発言していくか見守っていくことで明らかになるだろう。

言語社会学者

関西学院大学社会学部准教授。博士(学術)。言語(とくに英語)に関する人々の行動・態度や教育制度について、統計や史料を駆使して研究している。著書に、『小学校英語のジレンマ』(岩波新書、2020年)、『「日本人」と英語の社会学』(研究社、2015年)、『「なんで英語やるの?」の戦後史』(研究社、2014年)などがある。

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