英語教育と格差、文化資本

『新英語教育』10月号の特集「格差を乗り越える」で、「文化資本と英語教育機会」という記事(巻頭論文)を書きました。

論文といっても3ページほどの短いものですが、文化面に起因する英語教育格差(つまり親の収入による格差ではないもの)をコンパクトにまとめています。

しばらくたったのでこちらに下書きを転載します。

文化資本と英語教育機会

格差社会論の隆盛に伴い、家庭の経済状況が子どもの学習環境を大きく左右するという事実は学界だけでなく一般にも広く認知されるようになった。この点は、英語教育格差も同様だ。英会話教室に足繁く通ったり「子ども留学」をしたりする裕福な家庭の子どもがいる一方で、貧困家庭の子どもは学校の授業に精一杯でそのようなことは望むべくもない――このような不公平な状況に思いを馳せるのは本誌の読者なら容易いだろう。この例のように、英語教育格差と聞いてまずイメージするのは、一般的に経済格差である。

他方、教育社会学では、家庭の文化資本も子どもの教育機会を大きく左右することが長らく知られている (ブルデュー 1990; 苅谷 2001)。しかもその影響力は、条件次第では、経済資本による格差を上回ることさえある。

英語教育・学習においても文化資本の影響は甚大である。筆者のこれまでの研究によると、家庭の文化資本は基本的に子どもの英語学習の有り様を大きく左右することがわかっている。本稿では、具体的事例に即してその内実を紹介したい。

親の学歴が高いほど英語力を得やすい

まず、「文化資本が多いほど、英語ができるようになりやすいか?」というシンプルな(だからこそ重大な)問いを検討する。ただ、文化資本の量・質を厳密に測定するのはかなり困難であるという点に注意されたい。本稿では、文化資本の有用な代理指標と伝統的に考えられている親の教育レベル(学歴)に注目する。

寺沢 (2015) は、2002・2003・2006・2010年に行われた大規模社会調査を分析し、親が大卒・短大卒以上だと、子どもは成人後に英語力を獲得する確率が高いことを明らかにした。その差は、1975-89年生まれの世代で約3倍である。つまり、親が高学歴だと、そうでない人よりも、3倍英語ができることを意味する。なお、それより上の世代になると格差はさらに広がり、戦前生まれ世代でおよそ7倍である。一方、家庭の経済力に起因する格差はこれほどではなく、1975-89年生まれ世代で2倍弱である。

この格差の少なくとも一部は、進学格差を反映したものである。つまり、親が高学歴であるほど子どもの進学率は高くなる傾向があり、教育年数が増える。その結果、英語学習量も増えるので、それだけ英語力を獲得する可能性が高まるのである。ただし、筆者の分析によれば、仮に進学格差の影響を除去したとしても、それでも依然として高学歴家庭→英語力という影響は消えないことがわかっている。高学歴家庭は、英語学習に大きな意義を見出しやすいということを示唆している。

保護者が英語を習わせる目的の差

上記は、文化資本があるほど英語を学習するようになりやすいという話だが、文化資本の影響はそれだけにとどまらない。以下に見ていく通り、英語学習に対する価値観も左右する。

たとえば、保護者がどのような考えで子どもに英語を習わせているか、そこにも文化資本の影響が見て取れる。この点を、ベネッセ教育総合研究所が2006年に行った「第1回 小学校英語に関する基本調査」を用いて検討する。この調査では、小学生の子どもを持つ保護者を対象に、子どもの学校外英語学習が尋ねられている(例えば、英会話教室や学習塾の英語コース、通信教育や市販の英語教材、家庭教師など)。ここでは、子どもに英語を学校外で習わせていると答えた保護者(計886名、回答者全体の約19%)が、どんな目的で習わせているか、そしてその目的はどう文化資本と関係しているか見てみよう。設問は「あなたが、お子様に英語の学習をさせている理由は何ですか」で、9個の選択肢+「その他」を選択してもらう形式(複数回答可)である。

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英語を習わせる目的として特に一般的だと思われる「英語を話せるようになってほしいから」は、保護者の学歴にかかわらず、多くの人が選択している(大卒以上:65%、短大卒:64%、高卒以下:59%)。同じく一般的な目的である「英語を好きになってほしいから」にも学歴差は見られない(大卒以上:66%、短大卒:65%、高卒以下:61%)。これらは文化資本にあまり左右されない英語教育観と思われる。

一方、大きな差が見られるのが「外国や異文化に対する興味をもってほしいから」である。大卒者は61%が選択したのに対し、短大卒で47%、高卒以下で33%と大きく下がる。世界市民・コスモポリタン的な教育観は、社会階層の比較的上層に特徴的なものだとしばしば言われており (Block 2014: pp. 133-5)、この結果もそれを支持しているだろう。

また、文化資本(学歴)だけでなく経済資本との対比にも、興味深い結果が見られるので紹介したい。この調査は残念ながら家庭の経済レベルを尋ねていないので、次善の策として、学校外の教育費(英語学習以外も含む)に関する回答を家庭の経済的余裕の代理指標と見なす。その上で、学歴および教育費によって、英語を習わせる目的がどう左右されるかを検討した。紙幅の都合から、ここでは対応分析という手法を使って図示した結果のみを示す。

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図の見方をごく簡単に述べる。回答傾向に特徴が少ないと原点付近に、特異な傾向があると周辺部に配置される。また、回答傾向が似たものは近くに、異なるものは遠くに配置される。この点を踏まえて図を眺めると、外国や異文化への興味に代表されるコスモポリン的英語学習目的は、やはり大卒以上の学歴に近い。一方、「中学校での英語学習に役立つから」といった実用的な学習目的はその対極にあり、高卒以下に近接している。文化資本を多く持つ人ほど、実利面よりも、実用性を越えた美的・教養的価値を重視すると言われている (ブルデュー 1990)。この結果も、文化資本によって、保護者が英語教育に込める期待が異なる可能性を示している。

ただし、同じく実用的な目的である「受験に役立つ」「仕事に役立つ」は、図の上側、とくに「教育費2万円以上」よりさらに上に位置していて、文化資本よりは経済資本の多寡に左右されることがわかる。一見、似たような英語教育機会格差でも、実は異なるメカニズムが働いているのである。

私立小児童の方が国際的!?

以上は保護者の態度に関するものだったが、当の子どもの態度はどうか。以下、私立小と公立小の児童それぞれの状況を調査した「全国学力・学習状況調査」(2013年、国立教育政策研究所)の結果を参照しながら論じたい。周知の通り、私立小に子どもを通わせられる家庭は一般的に文化資本が豊富である(でなければ小学校受験をパスするのは難しい)。したがって、私立小児童と公立小児童の比較から、文化資本による影響が考察できる。

コスモポリタン的態度に関する2つの設問について、私立・公立間で比較したものが以下の表である。

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(1) の国際親善・外国への興味に関しては約9%、(2) の国際的活動への積極性については約19%、私立小児童の方が高い。

この態度は英語学習を前提にしたものではないが、コスモポリタン的態度一般にこれだけ差があることを考えれば、英語学習の取り組み方にも違いが出てくるだろう。たとえば、ごく幼い頃から家の中に外国語や外国の事物が溢れている文化資本の豊富な家庭で育てば、自然とコスモポリタン的な態度が育まれる。その結果、英語学習に関しても異文化理解の意義を見出しやすくなるだろう。

もちろん、上記の差をすべて文化資本の差に帰することはできない。たとえば、私立小に通わせられるだけの経済力(=経済資本)がある家庭なら頻繁に海外旅行をしていて、その結果、外国への関心が喚起されるのかもしれない。また、親に外国人の友人がいたり、学校に外国人教員・宣教師などが多い、つまり社会関係資本が多い環境であれば、やはりコスモポリタン的な価値観が育つだろう。しかし、資本のタイプがいずれにせよ、私立小児童のような「恵まれた」家庭に育った子どもは、コスモポリタン的な態度を得やすいことは事実と言えそうだ。

文化資本の格差に対して教師ができること

これらの結果は、現場の教師にいかなる示唆を与えるだろうか。実は、現場の個々の教員が、既存の教育格差を直接解決するのはほぼ不可能である。文化資本の格差にせよ経済資本・社会関係資本の格差にせよ、社会構造に深く根ざしたものであり、格差解消には社会の抜本的な変革――その究極の形が革命である――が必要である。とりわけ文化資本は、子どものそれまでの人生=歴史を通じて身体に深く刻み込まれたものである。したがって、たとえば「文化資本が高まる授業をして格差を乗り越えよう!」のような「対症療法」にはあまり意味がない。

反面、文化資本の格差を理解することで、教師が日々の教育行為を相対化できるようになる、少なくともそのヒントになるということは言えると思う。

本誌の読者には、コスモポリタン的・地球市民的な英語学習観に共感を示す人が多いだろう。反対に、即物的・実利的な学習観――たとえば「入試」「TOEICで高得点」「金持ちになる」という動機を学習者が述べた時、面白くなく感じる人が多いのではないだろうか。こうした「邪道」な英語観を越えて、「正統」な英語観を身につけるために学習者を善導したいというのが「良識派」英語教師の人情だろう。気持ちはわかるが、文化資本の格差に関する議論を踏まえるならば、一度立ち止まって考える必要がある。

なぜなら、実はこの正統/邪道に対する感覚に確固たる根拠があるわけではなく、むしろ文化資本の格差を反映している面があるからである (ブルデュー 1990)。ここで押さえておくべき点は、学校教員は皆、定義上、高学歴者である点である(教員免許取得には高等教育学歴が必要)。したがって、文化資本を豊富に持った教師は、そもそも教養主義的・コスモポリタン的な観点から語学を眼差すように訓練されており、実利的・即物的な学習観と対立しやすい。教員が自分寄りの学習観に「教養的」「コスモポリタン」、異なる学習観に「無教養」「非国際的」といったレッテルを貼った場合、教員自身が「文化資本の多い階層の出身者=教養的=好ましい vs. 文化資本の少ない階層の出身者=無教養=好ましくない」という構図の再生産に加担していることになる。そもそも学校こそが階層の再生産装置であることは、教育社会学では常識の範疇に属する(大前他 2015)。

本稿では、教育格差のなかでも比較的イメージしにくい文化資本の格差について、英語教育の文脈に即して論じた。限られた紙幅ではあったが、その複雑さを伝えることができたら幸いである。文化的行動、教養主義、そしてコスモポリタン的態度が社会階層の上層の子どもたちにより広く開かれているという事実、そしてこれらの価値観が、学校教育制度においては正統で好ましいものと見なされているという事実。こうした事実は、文化資本を相対的に多く持った私たち教師が当然視する学習観・教育観を激しく揺さぶる可能性を秘めたものである。

謝辞:二次分析に当たり、東京大学社会科学研究所附属社会調査・SSJデータアーカイブから「第1回小学校英語に関する基本調査 (保護者調査),2006」 (ベネッセコーポレーション) の個票データの提供を受けました。感謝します。

文献

Block, D. 2014. Social class in applied linguistics. Oxon, UK: Routledge.

大前敦巳・石黒万里子・知念渉 2015 「文化的再生産をめぐる経験的研究の展開」『教育社会学研究』97号

苅谷剛彦 2001. 『階層化日本と教育危機』有信堂高文社.

寺沢拓敬 2015『「日本人と英語」の社会学』研究社.

ブルデュー, P. 1990. 『ディスタンクシオンI-II』藤原書店.