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初マラソンでMGC出場資格を獲得した鈴木亜由子。東京五輪メダル候補に躍り出た“迷うから強い選手”

寺田辰朗陸上競技ライター
北海道マラソンから2週間後。インタビュー中の鈴木<筆者撮影>

 東京五輪まで2年弱。世界陸上で15年5000m9位、17年10000m10位の鈴木亜由子(JP日本郵政グループ)がついに、マラソンデビューを果たした。

 8月25日の北海道マラソン。鈴木は33kmで先行していた谷本観月(天満屋)を逆転すると、残り10kmを独走して優勝した。2時間28分32秒と、前半がスローの夏マラソンとしては好タイムで、来年9月開催のMGC出場権を獲得。35kmまでの5kmで最速スプリットタイムを刻むなど特徴であるスピードを見せたが、暑さへの強さも同時にアピールした。

 マラソンへの適性を多くの関係者が指摘していたが、鈴木自身はなかなか一歩を踏み出せなかった。迷った末に出場した鈴木だが、初マラソンのレース中にそれほど迷うシーンはなかったという。これまでの取材で得られた材料とも照らし合わせ、鈴木亜由子というマラソンランナーの特徴を探った。

トラック・駅伝との違い

 初マラソンの最優先事項は、勝負ではなかった。鈴木は「MGCへの出場権獲得。そこはぶらさずに走ります」と明言して出場していた。11km過ぎと早い段階で谷本がペースメーカーの前に飛び出したが、鈴木は追いかけない。この大会は勝たなくても、6位以内であれば2時間30分以内のタイムを出せば出場権を得ることができる。自身の設定タイムで走ることを優先した。

 加藤岬(九電工)や前田彩里(ダイハツ)が集団からリードを奪うシーンもあったが、「風もちょっと向かっていましたから」と、ペースメーカーがつく25kmまでは予定のペースを守った。中間点(21.0975km)は1時間14分44秒で通過していたので、そのままペースダウンしなければ2時間30分を切ることはできる。

北海道マラソンでは33km手前でトップに立ち、それ以降を独走した<写真:K.Yoshiro>
北海道マラソンでは33km手前でトップに立ち、それ以降を独走した<写真:K.Yoshiro>

 鈴木が前田らを引き離し始めたのは、26km付近だった。

「谷本さんがものすごく調子が良くて逃げ切られてしまったら、それは仕方がないこと。でも(25km過ぎで)折り返してからは追い風でしたし、(1km毎)3秒から5秒ぐらいずつ縮めていけば、まあ大丈夫かなと思っていました」

 設定タイムを守りながらも、「走るからには勝ちたい」と、勝負への意欲ももっていた。

 しかし谷本を抜いた33km付近では、これまで感じたことのない脚の状態だったという。

「残り10kmで前腿(もも)やふくらはぎに張りが出てきて、トラックや駅伝では感じられない脚の痛みがあったんです。『あ、まずい』と思いながら走っていました。今度マラソンをするときは、ここを強化して行きたいなと思いました」

 単独2位に進出した30kmまでの5kmは、17分21秒とその前の5kmより43秒もペースアップ。痛みが出始めた次の5kmは17分12秒と最速スプリットタイムを刻んだ。2015年北京世界陸上からリオ五輪、昨年のロンドン世界陸上と3シーズン連続でトラック種目の日本代表となったスピードは、マラソンでも威力を発揮した。

 JP日本郵政グループの高橋昌彦監督はかつて、小出義雄氏の下で有森裕子や高橋尚子といった五輪メダリストの指導に携わった経験がある。鈴木のほか関根花観(リオ五輪10000m代表。初マラソンの2018年3月名古屋ウィメンズで2時間23分07秒)、鍋島莉奈(2017年ロンドン世界陸上、2018年アジア大会5000m代表)を日本代表に育てている。

 その高橋監督が大会前に「鈴木はマラソン練習で距離を踏んでも、スピードがそれほど落ちない」と話していた。鈴木自身「距離走の翌日の1000mはもっと動かないと思っていましたが、案外動いたので、マラソンに必要なスピードは大丈夫なのかな」と感じていた。

 北海道の前半はスローな展開だったが、勝負どころで鈴木のスピードは確かに活かされていた。脚に痛みが出なければ、5km16分台中盤のスプリットも出せたかもしれない。五輪や世界陸上など夏場の、勝負優先のマラソンでは大きな武器となる部分だ。

迷う鈴木と大胆な鈴木

 鈴木亜由子は“迷う人”だ。本人も「本当に優柔不断なんです」と、何度もこぼしている。本記事の取材中にも、何度も返事に迷っていた。例えば、トラックや駅伝での実績がマラソンに役立っていたか。取材する側としては普通の質問である。

「これまでの経験ですか……うーん」

 先行する選手を1km毎に3~5秒ずつ縮めていくと具体的にイメージできたのは、駅伝の経験が役立ったのではないか?

「確かにそうですね。駅伝でそういう経験はしていましたし、それは活きていたかも。一番離れた時で50秒差くらいですか……それはあるかもしれません」

インタビュー中に熟考する鈴木<筆者撮影>
インタビュー中に熟考する鈴木<筆者撮影>

 学生時代から、鈴木が迷っているシーンは何度も見られた。日本インカレ5000mに2年、3年と2連勝していた選手。実業団で走り続けるのが普通だが、名古屋大ということで別の進路を選択する可能性もあった。大学後半になると進路も質問され始めたが、「まだ決められないんです」と答え続けた。

 そのときは、高校・大学と強豪校で競技をした経験がなく、既存チームでやっていける自信が持てなかったことも迷った一因だった。中学で全国チャンピオンに2年連続輝いたが、高校では足の甲を手術するほどのケガをして低迷したことも、判断を慎重にさせた。

 JP日本郵政グループが陸上部を創部するタイミングと重なったことが、鈴木には幸いした。鈴木の他にも、入部者候補に国立大選手もいた。監督になる高橋は、以前は愛知県に拠点を置いていたチームの指導者だった。中学時代も手術をした後も、鈴木の走りに注目していたので強化プランを適確に示すことができた。

 高橋監督が、鈴木が入社を決めたいきさつを、次のように話してくれたことがあった。

「会って話をして思ったよりも早く連絡をくれました。私が『興味があったら採用条件(待遇)も話すよ』と言ってあったのですが、『私、入ります。待遇は気にしません』と即決に近かった。合宿や遠征に持っていく荷物も多いですし、練習メニューもなかなか決められないタイプ。でもここぞというときは、大胆に決断していきますね。走りにもそれが現れます」

 鈴木が大胆に決断するケースには、3つのパターンがあるように感じられる。

じっくりと時間をかけて決断する

 1つ目のパターンは決断するまでに、じっくりと考え時間をかける場合だ。初マラソンがそうだったように、自身が一歩を踏み出すまでに、とことん考え抜かないと気が済まない。

 実はトラックでも、なかなか10000mを走らなかった。大学4年時にユニバーシアードに優勝したが、タイムは32分54秒17とレベル的には高くない。入社1年目(2014年)は故障でシーズン前半は試合に出られず、5000mこそ15分14秒96で走り、大幅に自己記録を更新したが、10000mは秋に1本走ったものの失敗した。入社2年目は5000mで世界陸上9位になっても、10000mへは慎重だった。自信を持ち始めたのは、その年秋の全日本実業団陸上に31分48秒18で優勝してからだった。

 マラソンも高橋尚子さんや増田明美さんら、歴代の名選手から適性を指摘されていたが、自身がマラソンの距離を走りきれる根拠はないと感じていた。

「マラソンへの意識が、まったくなかったわけではないと思うんです。頭の片隅にぼやっとはありましたが、本当にもう、忘れるくらい。入社した頃も5000mで日本のトップになることしか考えていませんでした。マラソンは視界に入っていませんでしたね。それが5000mで(2015年の)世界陸上に出て、決勝進出が目標だったのに9位になって、次は10000mに挑戦して、世界で戦っていくなかで片隅にあったマラソンが、少しずつ存在感を増してきた感じです」

 リオ五輪が終わって4年後を目指すとき、マラソンはかなり視界に入ってきていた。だが、暑さのなかなら10000mでも、メダルの可能性はゼロではない。未経験のマラソンよりも、明確なイメージを持つことができた。

 昨年のロンドン世界陸上は10000mで10位。またしても入賞にあと一歩届かなかった。それでも東京五輪はマラソンで、とはすぐには決められなかった。

 最終的に決断をしたのは今年の4月。ケガで米国での合宿から帰国した時だった。

「(年に2~3回は甲や足底に)痛みが出てマラソン練習ができるか不安で、覚悟を決められませんでした。しかし4月に何カ所か痛みが出て帰国した時に、トラックシーズンに向けて無理をしてマラソンを走れなくなったら嫌だな、という気持ちになったんです。今年まず1本マラソンをしっかり走って、今後のことを決めよう、と」

 ケガに悩まされ続けて来た鈴木が、マラソン出場を決断するきっかけがケガだった。これは神の配剤だろうか。

“自分で決める”ことで迷わない

 鈴木が大胆になる2つめのパターンは、自分が決めたケースだ。今回の北海道マラソン出場がそうだった。

 6月の日本選手権10000mで2位に入ったが、8月のアジア大会は回避し、同時期開催の北海道マラソン出場を決めた。準備期間が短いことを懸念した高橋監督は、秋以降の国内外のマラソンも良いのではないかと提案した。

 だがそのときの鈴木に、迷いはなかった。

「とにかく一発目でMGCの出場権を得たい。暑いのも好きですし、そう考えたら北海道で2時間30分は出せるとイメージできました。9月や10月になるとチーム(駅伝)のことも考えないといけないし、マラソン練習期間が長くなるのが良いことなのか、私にはわかりません。北海道が一番取りやすいんじゃないかと」

 日本選手権まで、マラソン練習はしていない。徐々にジョッグを長く行うことも、ほとんどできなかった。強いて言えば、マラソンを走るイメージをしていただけだ。

「監督はしっかり段階を踏んでいくスケジュールを、紙に書き出して示してくれましたが、仮に長くやって結果が良くなかったら、監督のせいにしちゃうかもしれません(笑)」

 2カ月でマラソンに臨む練習メニューは、3カ月で行うよりも詰め込む流れが生じるのは避けられない。高橋監督が日本選手権直後に示したスケジュールは、鈴木が想像する以上にハードなメニューだった。鈴木は「こんなに走るんですか?」というリアクションをしたが、すぐに覚悟を決めた。

 実際には、7月は1047km、一番走った1週間を30日に換算すると1084kmだった。マラソン練習は、控えめに立案すれば別だが(そういうスタイルの指導者もいる)、立案したものを完遂できることはほとんどない。脚の張りや小さな痛み、疲れなどを考慮して強度や量を調整しながら進めていく。

 高橋監督は小出氏のもとで有森裕子や高橋尚子の指導に携わったときのメニューにこだわらず、何よりも目の前の選手をしっかりと見る。「関根の名古屋が久しぶりのマラソン練習でしたから」と謙遜気味に話すが、そのブランクも表面的なメニューよりも、トレーニングの本質をより深く考えることにつながった。

 鈴木のマラソン練習は主に高橋監督が、「この変更なら、この後はこういう流れにすれば問題ないから」とリードした。鈴木も「経験が豊富な監督なので安心できた」と言う。

 それでも一度、2人の間で「食い違いがあった」と鈴木は言う。わずか1日のメニューだが、納得できなかった鈴木が自身の意見を主張した。

「私なりに意見を言いました、最後は私の気持ちを尊重してくれた。そこはすごい指導者だと思います。選手は納得して練習しますし、しっかり次につなげようと練習を大事にします。わだかまりを持って進めていたら、今回の結果にならなかったかもしれません」

 鈴木は指導者と話し合い、納得して練習を進めるタイプだが、選手によっては全面的に指導者を信じ、トレーニングについて自身ではほとんど考えないタイプもいる。それで五輪&世界陸上のメダリストまで上り詰めた選手もいた。どちらのタイプが結果を出せるかは、ケースバイケースで断定することはできない。

 ただ言えるのは、鈴木は自分でも考え、納得しないと練習に全力で取り組めない性格だった。そこは個人のキャラクターであり、簡単に変えることはできない部分である。

8月15日に合宿先の米国ボルダーから帰国した鈴木(左)<筆者撮影>
8月15日に合宿先の米国ボルダーから帰国した鈴木(左)<筆者撮影>

 監督が不在(ヨーロッパ遠征の鍋島に帯同)だったときに、練習を始めてから雨がものすごくひどくなったことがあった。雷も鳴り始めて、コーチが練習を続行できるか否かを聞いてきたが、鈴木は「絶対に走り切る!」と心の中で叫び、走り続けた。

 自身が納得してやると決めたら、とことんやり抜くことができる選手なのだ。

MGC、そして東京五輪への覚悟

 鈴木が大胆になる3つめのパターンは、テンションが上がったときだろう。

 鈴木は2010年にカナダ・モンクトンで行われた世界ジュニア(現U20世界陸上)で、5000m5位に入っている。そこから国際試合では、直前のケガで苦戦したリオ五輪などもあるが、100%に近い力を発揮してきた。

「モンクトンは初めての海外試合で、何もかも初めてのことでしたが、精一杯の走りができました。あのときの高揚感が、今につながっているのかな、と思います」

 当時名古屋大の1年生。3年後の2013年には、ロシアで行われたユニバーシアード10000mで優勝した。ユニバーシアードがこれまでで、「一番スカッとした」フィニッシュだったという。当時の力を出し切り、金メダルという結果も付いてきた。

 2年後の2015年、北京世界陸上5000mで9位となったときも、入賞に0.29秒届かず悔しさも垣間見えたが、やり切った爽快感も表情に出ていた。国際大会に燃えるタイプであるのは間違いない。

 国内大会でもスイッチが入ると走りが変わる。駅伝では前の走者がタスキを持ってくると、テンションが上がってゴボウ抜きを見せる。10000mで優勝した2016年の日本選手権は、地元愛知県での開催で、スタンドからの大声援に背中を押された。

 初マラソンでも応援の力を実感した。

「マラソンは『誰の応援でもうれしいよ』という話を聞いていたんですが、本当に元気になるんだなあ、と実感できました。知り合いだったらめっちゃうれしいし、知り合いじゃなくてもうれしかった。ゴールまでずっと背中を押してもらいました」

 だが、完璧なスイッチの入り方だったかというと、少し入り方が浅かった。

 北海道マラソンのフィニッシュ直後には「マラソンは達成感が違う」とコメントしたが、後で落ち着いて考えると、競技的にはそれほどハイレベルのことをやったわけではなかった。「トラックで途中棄権はないと思っていますが、マラソンではその可能性もあったので、あのとき言った達成感は、走り切れた安堵感だったのかもしれません」

北海道マラソンの表彰風景<写真:JP日本郵政グループ>
北海道マラソンの表彰風景<写真:JP日本郵政グループ>

 フィニッシュ時のスカッとした感じも、ユニバーシアードのときほどなかった。

 実は2年前に地元の日本選手権で優勝した際も、後輩の関根に引っ張ってもらった距離が予定よりも長く、フィニッシュ後は反省の気持ちも大きかったという。

「北海道に関して言えば、今回がスタートだと思っているんです。スカッとしたわけではないし、スカッとしてしまったらそこで半ば完結してしまいます」

 少し意外だったと本人も認めるが、初マラソンを走っている最中に迷ったシーンはなかった。すべてが想定の範囲内で走ることができたからだろう。それなりの準備ができていた裏返しでもあり、悪いことではないが、やはり鈴木にとってMGC出場権獲得はハードルが低かった。テンションをそこまで上げなくても達成できた。

 今後、MGCの前にマラソンを1レース走る可能性もあるが、最終決定はしばらく先になる。「1年後のMGCに、どうベストの状態に持っていくか、という選択をしていきます」。

 仮にMGCの前に1本走るとしたら、マラソンの経験値を上げることが目的になる。そのためにハイペースに挑戦することもあるかもしれないが、「記録を求めて、その次(MGC)がなくなった、というのは一番避けたい」という。MGCまでマラソンを走らない可能性もある。

 じっくりと考える(迷う)時期がしばらく続くが、鈴木にとっては必要な期間だ。

 そして来年9月のMGC、そこで代表に入れば2020年の東京五輪と、けた違いに厳しい戦いが続く。北海道よりも良い状態に仕上げるため、準備期間の練習で迷う日も多くなるだろう。レース中に、予想外に早い段階でスパートする有力選手が現れたり、自身でスパートするタイミングの見極めが必要になったりするシーンに、嫌でも直面する。

 だが、そうしたケースで迷ったときにこそ、鈴木のスイッチが入り、覚悟が固まる。記事の前半に5km毎のスプリットが16分台中盤に上がる力があると書いたが、テンションが上がれば15分台に上がることも期待できると思っている。

インタビュー中の鈴木<筆者撮影>
インタビュー中の鈴木<筆者撮影>

 実は2016年シーズンに入ったばかりの頃、鈴木は「五輪が目標だと、自分が口にして良いのかわからない」と話している。リオ五輪の5カ月前。前年の世界陸上で9位に入っていたにもかかわらず、である。

 五輪に対しては、「すごい人たちが精一杯の努力をして出る大会」という思いを、小さい頃から持ち続けていた。自分のような選手が目標と話していいか、迷っていた。

 それから2年。鈴木の東京五輪への思いは定まっている。

「マラソンが頭の片隅から目の前に出てきたのは、世界と勝負をするための種目という気持ちが強くなってきたからです。リオ五輪は行きましたけど、ちゃんとその場に立った実感がありませんでした。東京はしっかり準備をして立ちたいですし、その舞台に立てば、地元開催というところも背中を押してくれるでしょう。そして『やり切った』と、2年後には思いたい」

 鈴木の五輪に対する迷いはもう、とっくになくなっている。

陸上競技ライター

陸上競技専門のフリーライター。陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の“深い”情報を紹介することをライフワークとする。一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことが多い。地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。座右の銘は「この一球は絶対無二の一球なり」。同じ取材機会は二度とない、と自身を戒めるが、ユーモアを忘れないことが取材の集中力につながるとも考えている。

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