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笑顔と涙で終えた東京五輪 苦しみ抜いたアーティスティックスイミングの伝統は受け継がれる

田坂友暁スポーツライター・エディター
(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

2大会ぶりにメダルなしに終わったアーティスティックスイミング

 対照的だったのが、印象的だった。東京五輪でメダル獲得を期待されていたアーティスティックスイミング。しかし、デュエット、チームともにライバルと目されていたウクライナに負けて4位となり、メダルを逃す。

 その瞬間、日本代表チームを指揮する井村雅代ヘッドコーチは、笑顔で選手たちを迎え入れた。その井村ヘッドコーチに才能を見出され、2009年から世界を相手に戦い続けてきた乾友紀子も、涙はありながらも、どこか今の力を出し切ったという笑顔が見えた。

写真:ロイター/アフロ

 対して、その乾とデュエットでペアを組んでいた吉田萌は、表情が硬いまま涙をこらえきれなかった。チームでも同じだった。乾以外は五輪初出場の選手たちばかり。その選手たちが演技を終え、得点発表を待つ瞬間は歯を食いしばり、硬い表情であふれ出そうになる涙をこらえるのが精一杯という様子だった。そんななか、両隣の選手たちの背中にそっと手を当てる乾は、最後まで笑顔だった。

 そんな姿を見ていると、こちらのほうが涙が出そうになる。なぜ、乾も井村ヘッドコーチもこんなにもすがすがしい笑顔なのだろうか。涙をこらえながら冷静に考え直すと、ある答えが見えてくる。

 東京五輪という舞台までに自分たちがやるべきことをすべてやり尽くし、今の実力を余すところなく発揮できた。苦しみも辛さもすべて乗り越えて来その達成感なのではないだろうか、と。

五輪の厳しさを知るのは乾のみ

 東京五輪に至る道のりは、まさにイバラばかりだった。リオデジャネイロ五輪でデュエットでは2大会ぶり、チームでは実に3大会ぶりにメダルを奪還。その勢いで東京五輪まで突き進みたかったところだが、チームメンバーのうち4人が引退。乾とデュエットを組んでいた三井梨紗子もそのひとりだった。

写真:長田洋平/アフロスポーツ

 そのため、乾はデュエットのペアを組み直し、チームも約半数が入れ替わったために、あらたにルーティンを組み直す必要があった。そのなかで行われた2017年のFINA世界選手権(ハンガリー・ブダペスト)では、日本が獲得したメダルはフリーコンビネーションとチームのテクニカルルーティンの2種目のみ。その2年前、リオデジャネイロ五輪の前年に行われたロシア・カザンでのFINA世界選手権では、デュエットとチームのテクニカルルーティンと、チームのフリールーティン、そしてフリーコンビネーションの4つのメダルを獲得していた。

 結果的に、リオデジャネイロ五輪翌年からライバルであるウクライナにその立ち位置を逆転されていたのである。

 覇権を取り戻すべく、2019年のFINA世界選手権(韓国・光州)をひとつの目標に掲げてトレーニングを進めていく。

 そのなかで、リオデジャネイロ五輪のメダリストメンバーがさらに引退を決め、2019年には乾を含めて3人を残すのみとなった。

 結果、2019年の世界選手権では乾のソロ2種目(テクニカルルーティンとフリールーティン)で銅メダルを獲得したに留まり、五輪種目であるチーム、デュエットではウクライナの後塵を拝する結果となり、2017年よりもさらに差をつけられてしまった。

写真:YUTAKA/アフロスポーツ

 そして、東京五輪のメンバーが発表された際、そこにあったリオデジャネイロ五輪を戦ったメンバーは、乾のみとなったのである。

エースだからこその苦しさ

 途中、乾は苦しさを感じていた。五輪でメダルが獲れない悔しさと、奪還できたうれしさの両方を知り、メダルを獲得するためにはどれだけの努力をしなければならないのかも知っている。

 だから、乾は自身の成長を止めなかった。その私にもっと必死でついてこい。そう言いたかった。もっと努力しないと世界と戦えない。世界選手権と五輪は違う。五輪でメダルを獲るということは、世界選手権よりもはるかに厳しい戦いなんだということをほかのメンバーにも分かってほしかったのだ。それは、指導する井村ヘッドコーチもそれは同じ思いだった。

 もちろん、チームのメンバーたちも乾という世界でメダルをソロで獲れるほどの実力者に追いつこうと、必死に努力していた。研究し、自分にできることを精一杯取り組んでいた。

写真:YUTAKA/アフロスポーツ

 それでも、なぜ足りないのか。理由は明白である。乾も同じように成長しているから。

 乾と同じ練習、同じ努力度を積み重ねたとしても、同じように成長する乾に追いつくことはない。もし、乾に追いつきたいのであれば、乾以上の練習が必要だ。だから、乾はほかのメンバーたちに対して、もっと頑張ってほしいという思いがあった。私を追い抜いてやるくらいの気持ちを持ってほしかったことだろう。

 でも、それを口にすることはないはずだ。なぜなら、乾はチームのメンバーたちがどれだけ必死に努力をし、どれだけ必死に日々の練習をこなしているかを知っているから。精一杯、彼女たちも努力をしているのだ。それを乾は知っているから、決してそれを言うことはないだろう。

 井村ヘッドコーチも同じだった。乾の成長を止めるわけにはいかない。でも、そうするとチームメンバーとの差が埋まらないことも分かっている。でも、そうするしかない。乾と同じ苦しさを、井村ヘッドコーチも味わっていたのである。

『本当に、よく頑張ったね』

 アーティスティックスイミングは、常にメダルを獲り続けてきたからこそ、常にメダルを期待される。だから、五輪ごとに選手たちは、先輩たちが培ってきた伝統を崩してはならないというその重圧に苦しんできた。

 世界で戦ったことがないような選手たちにも、同じようにメダルを期待されるのだ。それができて当たり前だと言わんばかりに。

 それがチーム競技の常であることは分かるが、あまりにも厳しい世界である。そんななかで、乾以外の選手たちはそれぞれ苦しみ、悩みながらも努力し、懸命にメダルを獲るという目標に向けて練習を積み重ねてきた。

 それでも、今回の東京五輪では届かなかった。五輪で戦う意味、苦しさ、厳しさをはじめて知ったから、チームのメンバーたちは涙を流した。

 反対に、すべてを知っていたから、井村ヘッドコーチと乾は笑顔を見せたのだ。吉田の苦しさを知っていた。福村寿華、京極おきな、塚本真由、木島萌香、柳澤明希、安永真白、佐藤友花の悩みも辛さも知っていた。頑張ってきたことを知っている。だから、あの笑顔だったのだ。

写真:ロイター/アフロ

『本当に、良く頑張ったね』

 井村ヘッドコーチの笑顔は、選手たちにそう伝えていた。

『よくついてきてくれたね。ありがとう』

 乾の笑顔は、そう言っていた。

 この悔しさがあるから、強くなれる。かつての乾がそうしてきたように。将来、必ず東京五輪の経験があったから、と、メダルを首に提げて笑って言えるようになるのだから。

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【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

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スポーツライター・エディター

1980年、兵庫県生まれ。バタフライの選手として全国大会で数々の入賞、優勝を経験し、現役最高成績は日本ランキング4位、世界ランキング47位。この経験を生かして『月刊SWIM』編集部に所属し、多くの特集や連載記事、大会リポート、インタビュー記事、ハウツーDVDの作成などを手がける。2013年からフリーランスのエディター・ライターとして活動を開始。水泳の知識とアスリート経験を生かして、水泳を中心に健康や栄養などの身体をテーマに、幅広く取材・執筆を行っている。

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