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40歳の寺内健という存在の大きさ 飛込界を支え続けてきたレジェンドが残したもの

田坂友暁スポーツライター・エディター
(写真:ロイター/アフロ)

 寺内健というひとりの選手に、東京アクアティクスセンターにいる全員が敬意を表し、スタンディングオベーションが送られた。

 1980年8月7日生まれ。兵庫県出身。幼少期に馬淵崇英コーチからその才能を見い出され飛込の世界へ。瞬く間に技術を吸収していき、中学2年生時には日本選手権を最年少で制するまでに成長。高校1年生でアトランタ五輪に初出場すると、決勝進出を果たし10位という結果を残す。これが、生きる“レジェンド”寺内健の五輪キャリアのスタートだった。

 その後もメキメキと実力を伸ばした寺内は、2000年シドニー五輪の高飛込で飛込日本最高位の5位入賞を果たすと同時に、3m飛板飛込でも8位入賞を飾る。

 翌年、日本の福岡で開催されたFINA世界選手権の3m飛板飛込で日本初となる銅メダルを獲得。さらに2004年のアテネ五輪では、2大会連続で8位入賞と健闘する。

 そして4度目の五輪となった、北京五輪。年齢も28歳となり、その演技に陰りが見え始めたのも事実で、3m飛板飛込で11位という結果となった。

 度重なるケガや故障もあり、2009年に引退。第一線から退き、水着メーカーで選手たちをサポートする日々。

 だが、寺内の心はまだアスリートとしての時間を欲していた。『まだまだ自分はできるはずだ』と。

 そして2010年に「もう一度、世界と戦いたい」現役復帰。体操競技に近く、身体能力だけではなく、空中での回転感覚も必要な飛込競技において、1年のブランクは大きいと考えられていた。頭から水に入る恐怖心はもとより、飛び板独特の跳ね返りをコントロールするハードル(助走)技術も、日進月歩を続けている。1年も経てば、その技術は過去のものとなる世界で、本当に寺内は戦えるのかという懐疑的な見方があった。

 しかし、そんなものを一気に吹き飛ばすのが、寺内の良さである。2011年に行われた飛込の国際大会派遣選手選考会で、3m飛板飛込で2位に入ったのである。このとき、寺内を3.50ポイント差で優勝したのが、後にペアを組むことになる坂井丞である。

 残念ながら2012年ロンドン五輪への出場は叶わなかったが、現役続行を決意した寺内は、同年の日本選手権の3m飛板飛込で4年ぶりの優勝を飾る。

 坂井とは、リオデジャネイロ五輪を見据えて2015年にペアを結成。国内の大会においては3m飛板飛込では常に数ポイント差という接戦を幾度となく繰り広げ、お互いにまさに切磋琢磨して技術向上を図ってきた。そのふたりがペアを組むことで、一気に世界でのメダル獲得という夢が近づいたのである。

写真:YUTAKA/アフロスポーツ

 2大会ぶり、5度目の五輪となったリオデジャネイロ五輪。本番では強風にあおられたことで得点と順位を一気に下げ、予選20位と準決勝進出は叶わなかった。

 不運ではあったが、それに対して一切の言い訳をしないのも寺内だ。事実を淡々と受け入れ、悔しさはにじませながらも次に発した言葉が「できるなら東京五輪も目指したい」であった。

東京五輪最後の挑戦を迎えた先に

 血のにじむような努力を続けた。10歳以上下の選手たちと、ハードなトレーニングを繰り返す。体調を見て休みを挟むこともあるが、基本的には若手と同じように練習をこなす。合宿中には血尿が出てしまうこともあった。それでも、寺内は辞めなかった。五輪という舞台で、世界を相手に戦い続けたい。その一心でトレーニングをし続けた。

 その結果、2019年のFINA世界選手権(韓国・光州)の3mシンクロで坂井とともに東京五輪内定第一号を獲得。早々に6度目の五輪出場を決めると、同年行われたアジア選手権の3m飛板飛込で優勝し、個人でも東京五輪の出場権を獲得したのである。

 東京五輪本番。3mシンクロでは実戦は2年ぶりという状況ではあったが、常々寺内が「丞とはお互いにベストパフォーマンスをすればシンクロする」と言っていた通り、大きなミスなく393.93という高得点で5位入賞を果たした。

写真:青木紘二/アフロスポーツ

「まだまだ世界の選手と戦えると実感できた」

 そのコメント通り、4日後に行われた男子3m飛板飛込の予選で、寺内の代名詞ともなった『ミスのない美しい飛込』の真骨頂を見せる。ハードルのミスもない、空中の演技もつま先までしっかりと伸びている。入水も乱れることなくノースプラッシュ。430.20を獲得し、10位で翌日の準決勝に駒を進める。

 そして準決勝でも寺内の美しさは健在。得点は相対的に下がったものの、順位は予選よりも上げて7位で決勝に進出。28歳で出場した北京五輪以来となる決勝の舞台に心が躍った。

 その決勝の3本目と5本目。得意のはずの捻り技で得点を落としてしまった。空中で横方向に捻らなければならないこの種目は、ほかの縦に回転する演技よりも体幹の力を多く使う。決勝は、準決勝と同日に行われることもあり、40歳の寺内には体力的に厳しかったのかもしれない。

 しかし、そんなことは当然口にするはずもないし、演技でもそれを感じさせないのが、寺内だ。捻り技以外の205B(後ろ踏み切り後ろ宙返り2回転半エビ型)、305B(前踏み切り後ろ宙返り2回転半エビ型)、405B(後ろ踏み切り前宙返り2回転半エビ型)では大きなミスもなく、60点台を獲得。そして東京五輪最後の演技となった、107B(前宙返り3回転半エビ型)では74.40の高得点をマークした。

 寺内の演技がすべて終了したとき、まだ競技中にもかかわらず、自然と拍手が沸き起こった。会場中の関係者が立ち上がってのスタンディングオベーション。涙ぐむような仕草を見せながら、寺内は少しはにかみながらその声援に応えた。

「疲れも残っていて、身体も動かない。不安もありました。でも、途中で考えても仕方ないと気持ちを切り替えた途端、疲れがふきとんだようなパフォーマンスができました。きっと、五輪の舞台がそうさせてくれたのだと思います」

 寺内の演技構成は、決して時代に即したものではなかった。今の飛込競技は高い難易率を求める傾向が強い。それは、3m飛板飛込という競技ができる技の限界が近づいて来たということでもあるのかもしれない。

「よくそんな難易率で戦えているな」と、世界のライバルに声をかけられたこともある。もしかしたら皮肉だったかもしれないが、寺内は褒め言葉として受け取った。

 そういう選手なのだ。誰よりも真面目で、誰よりも真剣で、誰よりも努力家。それをおくびにも出さない、不言実行者。修行僧のようにも思えるが、ただ抜くところは抜く。しっかりとメリハリをつけてきたからこそ、これほど長く現役生活を続け、世界と戦い続けることができたのである。

 寺内が残した功績は、ここでは書き切れないほどである。彼が歩んできた道は、北島康介のように華やかではなかったかもしれないが、北島康介と同じように多くのものを後輩たちに残し続けてきた。

写真:YUTAKA/アフロスポーツ

 後輩たちは、その背中を見続けてきた。荒井祭里、板橋美波。そして、玉井陸斗。そのレガシーは確実に受け継がれていくことだろう。

写真:YUTAKA/アフロスポーツ

 レジェンドの挑戦は、ひとまず幕を下ろした。次、寺内が向かう先は、どこなのだろうか。寺内がこれからどんな道程を歩もうと、何を目指そうと、心から彼の歩む道を応援し、支え、伝えていきたいと願う。

 競技は違うが、同年代の同じ水泳選手であったひとりの人間として。

スポーツライター・エディター

1980年、兵庫県生まれ。バタフライの選手として全国大会で数々の入賞、優勝を経験し、現役最高成績は日本ランキング4位、世界ランキング47位。この経験を生かして『月刊SWIM』編集部に所属し、多くの特集や連載記事、大会リポート、インタビュー記事、ハウツーDVDの作成などを手がける。2013年からフリーランスのエディター・ライターとして活動を開始。水泳の知識とアスリート経験を生かして、水泳を中心に健康や栄養などの身体をテーマに、幅広く取材・執筆を行っている。

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