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ラストマッチと東京五輪で見せた「ベストプレー」の泥臭い1点。男子バレー福澤達哉と清水邦広が歩んだ日々

田中夕子スポーツライター、フリーライター
共に歩み続けた福澤(写真右)と清水(写真左)。2人は唯一無二の存在だ(筆者撮影)

忖度ナシの後輩に感謝「最後までアスリートとして扱ってくれた」

 笑いあり、涙あり。そしてまた笑いあり。

 まるで福澤達哉のバレーボール人生そのもの、というべき引退試合だった。

 6月末にネーションズリーグの開催されたイタリアから帰国後、「娘たちと走るぐらいで特別なことはしていなかった」と福澤が言うように、バレーボールの練習は今週に入ってからわずか数回。

 それでも「引退を発表してから唯一の心残りだった」というパナソニックのユニフォーム姿を着て、慣れ親しんだパナソニックアリーナで、観客の方々を前にプレーするという念願叶った喜びか。それともここまでバレーボール選手として積み重ねてきたものはそう簡単に消えるわけではない、というトップアスリートの誇りか。

 青、白と2チームに分かれた引退試合。福澤自身は「これほどまでにできなくなるか、と驚いた」と笑うが、パナソニックでも日本代表でも、さらにはブラジルやパリのクラブでも見せてきた前衛レフトからのスピードを生かしたスパイクや、後衛からのバックアタックは健在。リベロの永野健がレシーブを上げ、セッターの深津英臣から福澤へ。長年磨いて来た抜群のコンビネーションを随所で展開。約700名の観客から、福澤のスパイクが1本決まるたびに大きな拍手が送られた。

 3セットマッチで時折メンバーを交代しながらの紅白戦ならぬ“青白”戦だったが、ただのお遊びとしての引退試合ではなく、10月に開幕するVリーグに向け、パナソニックの選手たちにとってはこれも大事なアピールの場。永野や深津が「最後は福澤に決めさせよう」とボールを繋ぐ中、試合を決めたのは福澤と違う白チームに入ったセッター、新貴裕のサービスエース。

 数日前に膝のクリーニング手術をしたばかりで、出場はリリーフサーバーでのワンポイントにとどまった清水邦広は「福澤にだけいい思いをさせないぞ、と思って打ってきた。たぶん新の引退試合には福澤が乱入するはず」と笑わせたが、それ以上に嬉しそうだったのが福澤自身だった。

「ありがたかったです。そもそも後輩たちにとっては、引退した時点でただのОBであり、練習も冷やかしのようなものであったにも関わらず、温かく迎えてくれて、最後まで選手として、アスリートとして扱ってくれた。最後に忖度したチャンスボールが来て、それを決めてうわーっという感じで終わるよりもよっぽど良かったし、前例にないことをやっていこう、と彼らが示してくれました」

終始笑いに包まれ、福澤への愛情が溢れたパナソニックでのラストマッチ(筆者撮影)
終始笑いに包まれ、福澤への愛情が溢れたパナソニックでのラストマッチ(筆者撮影)

時を動かした東京五輪の特別な1点

 中大4年生だった2008年、福澤は北京五輪に出場した。

「五輪に出れば人生は変わる」。その言葉を信じて鍛錬を重ね、日本男子バレー界にとってもまさに悲願でもある五輪出場を叶えたが、結果は予選ラウンドで1勝もできないまま敗退。

「あの日から、時計は止まったままでした」

 まさにその言葉をたどるように、福澤のバレーボール人生はオリンピックを目指し、あの時叶えられなかった「1勝」を必ず自らの手で成し遂げるための戦いでもあった。

 しかし12年のロンドン、16年のリオデジャネイロ五輪は出場を逃がし、集大成と位置付けて臨んだ東京五輪も最終選考で外れた。

「やるべきことはやったので、悔しさはあっても後悔はない」と先だって行われた引退会見でも晴れやかな表情を見せた。だが、実際はそう簡単ではなかった。

「オリンピックをテレビで見て、清水頑張れ、みんな頑張れ、と思いながらも、何で俺はここにいないんや、と思うし嫉妬もある。自分だったらこうするな、とか、自分だったらこうしていただろうという感情は消えませんでした」

 長い年月をかけ、集大成と臨んだ目標が叶えられなかった。納得しようとしても簡単に割り切れるものではない。すべて受け入れたつもりでいても、割り切れるはずがない。

 だが、そんな2人にとって特別な“1点”があった。

 東京五輪の初戦、日本対ベネズエラ。日本が2セットを先行した第3セット終盤。2枚替えで投入された清水が、交代直後に放った、決して美しくはない、福澤曰く「泥臭い」スパイク。

 実は大会中も膝に何度も注射しなければコートに立つことすらできないほど痛みもあり、決して万全な状況ではなかった。だが、オリンピックで点を取る。そして勝利する。清水のすべてがこもったその1点はまさに、福澤にとっては叶えられなかった目標を託し、清水にとっては共にこの場へ立てなかった思いも背負った、特別な1点で、「オリンピックの中でいろんなシーンがあったけれど、僕の中のベストプレーはあの1本だった」と福澤は振り返る。

「自分の分も頼むぞ、と言うことはなかったし、このメンバーに残り、五輪を勝ち取ったのは彼の実力。だから清水には自分自身のためにやってほしいと思っていましたが、でもあの1本でいろんな思いが伝わって来たし、自分の思いも伝わっているんだな、と。何も言わなくても、僕たちの気持ちをコートに持っていってくれた。あの泥臭い1点が、止まっていた時間を動かしてくれました」

北京世代、福澤の思いも背負い、清水は自身二度目となる五輪、東京五輪を戦い抜いた
北京世代、福澤の思いも背負い、清水は自身二度目となる五輪、東京五輪を戦い抜いた写真:森田直樹/アフロスポーツ

「いつか」に向けて歩む「これから」

 すべてを懸けて臨む場所、と挑み続けてきた。

 だが、最後に描いた場所に立つことはできず、夢半ば、自身も言うように「何でこの場所に自分がいないんだ」と思いながらも噛みしめ、受け入れ、福澤はこれから新たな道へと歩み出す。

 これまでいくつもの「たら」「れば」と向かい合ってきたのか。計り知れない苦しさや悔しさを、どれほど乗り越えてきたのか。

 最後に願った夢は叶わずとも、その努力の日々を見てきたからこそ、最後に福澤が臨んだパナソニックのユニフォームで戦い、跳び、打つ。「ヘロヘロだった」と笑いながらも、楽しそうで、とはいえ真剣で。それは紛れもなく、皆が見たかった福澤の姿でもあった。

 本来ならばこの引退試合にも、チームの垣根を超え、他チームの選手も参加した「Vリーグ最強ドリームチーム」がつくられるはずだったが、緊急事態宣言の発動により幻に。しかし試合を終えた後、コートではセレモニーが行われ、福澤の挨拶に続き、北京五輪で共に戦った荻野正二・サントリーサンバーズアンバサダーや植田辰哉元監督、山本隆弘さんや、共に日本代表で戦ってきた柳田将洋、栗山雅史(共にサントリーサンバーズ)から花束が贈られた。

 最後は清水が、学生時代からの日々を振り返り、時折涙で言葉を詰まらせながらも「親友以上、家族以上の存在で大好き」と2人でウェディングケーキに入刀するオチに、福澤も「思ってたんと違う」と笑わせたが、涙ではなく笑顔で送り出す。その姿を見ながら涙がこぼれないように、と白澤健児や永野が下でもなく前でもなく上を見る。重ねてきた時間がどれほど濃く、尊いものだったか。言葉にせずとも、十分伝わってきた。

 2か月後に幕を開けるVリーグ。ユニフォーム姿の福澤はもうコートにはいない。

 だがこれまで共に戦ってきた盟友たちや、忖度せず挑んでくる選手たちは新たな開幕に向け鍛錬を重ね、福澤も新たな道へと歩み出す。

 先のことはわからない。だからこそ、その時進みたい道へ行けるよう、1つでも多く選択肢を増やす。もしかしたら何年か、いや何十年か先に、指導者として歩む道があったとしたら。

「もしも僕が10年後に監督としてバレー界に戻ってきたら、清水が『契約して』って(笑)」

 その横で清水が笑う。

「45歳でしょ。余裕だな」

 いつか来るその日まで。これで終わり、ではなく、これからもまた、と笑いながら想像する未来はきっと、悪くない。

笑顔と涙で現役生活に別れを告げ、福澤は新たな道へ歩み出す(筆者撮影)
笑顔と涙で現役生活に別れを告げ、福澤は新たな道へ歩み出す(筆者撮影)

スポーツライター、フリーライター

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、月刊トレーニングジャーナル編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に「高校バレーは頭脳が9割」(日本文化出版)。共著に「海と、がれきと、ボールと、絆」(講談社)、「青春サプリ」(ポプラ社)。「SAORI」(日本文化出版)、「夢を泳ぐ」(徳間書店)、「絆があれば何度でもやり直せる」(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した「当たり前の積み重ねが本物になる」(カンゼン)などで構成を担当。

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