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海外の“リアル”も力に。男子バレー渡辺俊介が北海道で貫く「自分の生きる道」

田中夕子スポーツライター、フリーライター
ヴォレアス北海道に入団した渡辺俊介。新天地で活躍を誓う VOREAS,INC.

海外組のリアル

 激動の2020年が、間もなく終わろうとしている。

 それぞれの立場で振り返れば、いいことよりもむしろ苦しかったことや、厳しかったこと、我慢を強いられたこと。浮かぶのは、決してほほえましい記憶ばかりではないかもしれない。

 プロバレーボール選手、渡辺俊介もまさにそんな1人だ。

「緊急事態宣言が出て、自粛期間の頃は本当につらかった。俺は何をやっているんだろう、と思ったし、とにかく情けなかったです」

 昨年の今頃はドイツにいた。同じ国内でも、クリスマスマーケットでにぎわうフランクフルトやデュッセルドルフからは遠く離れたエルトマンという小さな田舎町。それでも、念願叶って海外、ヨーロッパでプレーできる喜びは大きく、ここからチャンスをつかむのは自分自身。そう思っていた。

 だが、現実は甘くない。12チーム中12位と最下位に沈んだエルトマンで日本人リベロが成績を残そうが、上位クラブや他国のクラブからは声もかからない。それどころかクラブは昨年末に経営悪化で一度倒産に追い込まれ、ドイツに渡ってまだ数か月も過ごしていないうちに、あやうく路頭に迷うところだった。

 あれから1年が過ぎ、今、渡辺は生まれ育った北海道にいる。

 11月26日の入団発表から1週間が経った12月6日、男子バレーV2リーグ、ヴォレアス北海道の選手として、渡辺はコートに立った。久しぶりのユニフォームに胸を躍らせ、再びバレーボールができる喜びを噛みしめる。

「海外、ドイツに行ったことは全く後悔していません。むしろオファーが絶えないトップ選手と違って、同じ海外組でも僕は“リアル”だったと思う。実際、このまま引退かな、無職かな、と思ったこともありましたから」

生活はシェアハウス。収入は「学生のアルバイト以下」

 1988年北海道江別市出身。小学生からバレーボールを始め、中学で全国大会出場を果たし高校は地元の北海道を離れ埼玉・深谷高に進学した。当時のポジションはスパイカーで、共にVリーグの東レアローズへ進んだ瀬戸口竜矢と共に攻守の軸として活躍、エースの八子大輔(JTサンダーズ広島)を擁した深谷高は05、06年の春高を連覇した。

 当時からコート内外でのリーダーシップに長け、スパイカーというよりもむしろポジション“キャプテン”。決して人数は多くない深谷高で、どれほど優勝候補とまつりあげられようと基本に徹し、どの試合でもひたすら一生懸命ボールをつなぎ、味方を鼓舞し、自らを奮い立たせる声。順天堂大に進んでリベロに転向してからも渡辺の存在は不可欠で、唯一無二のものだった。

 卒業後、東レアローズに入団してからは出場機会が得られず悩んだシーズンもあったが、16/17シーズンには主将を務めリーグ制覇。同年日本代表候補にも選出されるなど、着実にキャリアアップを遂げる中、ごく自然に「海外でプレーしてみたい」という目標が芽生えた。

 社員として属したまま海外へ渡ることはできないため、19年6月に東レを退社。日本人選手の海外移籍を仲介する代理人に移籍交渉を委ねた。

 国内でプレーする道を絶ち、海外へ渡ることを決め、代理人にもたどり着き、多くの人の縁や支えのもと、複数のクラブと交渉まではたどり着く。甘いと言われることを承知のうえで言えば、さほど苦労せずともプレーする場所は決まるのではないか、と思っていた。だが、半分以上決まりかけた話が急になくなったり、「欲しい」と言ってくれていたはずのクラブと連絡が取れなくなることも日常茶飯事。とはいえ家族を養わなければならないのだから、移籍先を探しながら働かなければならない。女子V1リーグのデンソーや埼玉上尾、日本代表の合宿時の練習パートナーとしてアルバイトをつなぐ中、ようやくドイツのエルトマンから声がかかったのは欧州リーグが開幕した、10月に入ってからだった。

 家族は日本に残し、いわば身一つで渡ったドイツ。育った江別や、暮らした三島と比べ物にならないほどの田舎町で、休日に外を歩いても1時間もすれば暇を持て余す。海外を拠点とするプロ選手と言えば聞こえはいいが、収入は日本にいた時と比べるだけで情けなくなるような、渡辺曰く「今までが100だとしたら20ぐらいで、学生のアルバイト以下」しか得られない。

 家はチームメイトとのシェアハウスで、クラブの専用体育館もないため練習は小学校の体育館。決して恵まれた環境とは言えないが、結果を出せば次につながる。「結果がすべて」の世界で、ドイツ国内のトップクラブと対戦する際は日本で体感できない高さ、スピード、パワーに直面するたび「もっとうまくなりたい」と負けん気に磨きがかかる。経済面の充実こそなかったが、求め、望んでやってきた場所で過ごす毎日は刺激的で充実していた。

 新型コロナウイルスが、世界に蔓延するまでは。

ドイツ、エルトマンでプレーした頃。東レアローズのチームメイトだったニコラ・ジョルジェフと再会。経済的に厳しい環境ではあったが、ドイツでの日々は充実していた(写真/本人提供)
ドイツ、エルトマンでプレーした頃。東レアローズのチームメイトだったニコラ・ジョルジェフと再会。経済的に厳しい環境ではあったが、ドイツでの日々は充実していた(写真/本人提供)

故郷北海道で訪れた転機

 リーグ戦を2試合残した3月、ドイツがロックダウン。出国できなくなる前に、と慌てて帰国を余儀なくされた。その時点で、新型コロナウイルスによる世界的な経済的不況も相まって、渡辺が所属したエルトマンを含むトップカテゴリー3クラブが経営不振による活動停止を決定していた。

 来季プレーする場も決まらないまま、帰国後は妻の実家で過ごす日々。5月に産まれた第3子も含めた家族と過ごす日々は幸せだったが、バレーボール選手としてのフィルターを通すとまた見え方が違う。国内外で移籍先を探すも結果は芳しくなく、バレーボールもできず、収入も得られない。

「トレーニングをしても、待てど待てどオファーはない。世の中の状況もどんどん悪くなるし、これからどうするのか、常に選択を迫られているような感じ。正直、終わったな、と思いました」

 最後の頼みの綱が、生まれ故郷の北海道だった。サフィルヴァ北海道の辻井淳一氏が小学校時代のクラブで監督を務めていた縁もあり、一緒に練習できるなら、と家族と離れ単身、北海道へ。大きな転機が訪れたのは10月、サフィルヴァ北海道とヴォレアス北海道の練習試合に帯同したこと。同時期にリベロの補強を考えていたヴォレアス北海道から、所属先もなくフリーの渡辺に声がかかり、11月26日に正式契約が発表された。

ヴォレアス北海道への入団会見。生まれ育った地元、北海道のクラブで新たなスタートを切った VOREAS,INC.
ヴォレアス北海道への入団会見。生まれ育った地元、北海道のクラブで新たなスタートを切った VOREAS,INC.

「北海道にこんなクラブができるなんて想像もしなかった」

 ヴォレアス北海道でのデビュー戦は12月6日の大同特殊鋼レッドスター戦。前節、アウェイゲームでは0-3で敗れた相手だと聞き、試合の映像を何度も見返し「0-3でやられたなら、今度は3-0でやり返せばいい、と思って臨んだ」という試合で、渡辺はサーブレシーブ成功率87.5%と好成績を残し、ストレート勝ちでチームもリベンジを果たした。

 勝利した喜び、再びユニフォームを着てコートに立てる喜びはもちろんだが、今は新たな楽しさもある。常に「攻め」の姿勢でチャレンジを続けるヴォレアス北海道というクラブ自体に、魅力を感じていると渡辺は言う。

「今までVリーグで長くやってきて、最近はホームゲームに力を入れましょうと言っても、駅にポスターやのぼりもなくて、体育館に来なければ何の試合をしているのかわからない。そのチームのファンとか、限られた人、知っている人しか“ホームゲームがある”と知らないことをすごくもったいないな、と感じていました。でもヴォレアスはホームゲームに対する本気度が違う。会場の雰囲気が海外と似ていて、選手からしたらものすごくモチベーションが上がるんです。選手だけでなく演出面もプロが揃っているのでものすごく細かいところまで考えられて、手が込んでいるし、同じホームゲームでも冠パートナーさんがいて、そのたび冠が違うから当然演出も違う。何度来ても、見る人たちは面白いと思うし、そもそもバレーボールという小さな枠ではなく、北海道を舞台にしたイベントなんです。僕が小学生の頃、北海道にこんなクラブができるなんて想像もできなかった。だから、自分が今そこにいて、この場所で何ができるか。すごくワクワクしているんです」

 重ねた経験や選手としての実績を評価し、路頭に迷いかけた自分に「必要だ」と求めてくれたクラブで果たす役割。まずはV2リーグで優勝し、V1とのチャレンジマッチに勝利して、昇格を果たすことは目標ではなく、責務だと思っている。

「どの試合も1試合1試合、大事に戦って、勝つことは大事。なおかつ視野は常に高く、V1のトップをつかむんだ、という意識を持ち続けることが大事だと思うし、僕自身も結果にこだわりたい。出せる数字では、常に周りを圧倒したいと思っています」

 その最初の機会が、11日に開幕する天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会。クラブと契約した時点で天皇杯の選手登録がかなわず、渡辺は出場することができない。楽しみだった古巣の東レとの対戦も、東レの出場辞退によりかなわず終わるが、V1のチームと戦える貴重な場。自らは天皇杯には出られなくとも、渡辺が見据えるこれからのビジョンも明確だ。

「プレーしている場を与えてもらった以上、一生懸命プレーで尽くす。それは子どもの頃から変わらないですよね。みんなに笑われようと、そんなの別にどうでもいい。俺は常に一生懸命喜んで、一生懸命追いかけて、一生懸命つなげるだけです。北海道に来て、新聞でも取り上げてもらえるようになって、『渡辺俊介(32)』って書いてあるのを見ると、あ、俺32歳なんだ、と思ってびっくりするんですよ(笑)。自分ではそんなに歳を重ねたとも思っていないから、これからも一生懸命プレーする。その姿で、子どもたちとか、高校生、大学生にも何かを伝えられたらいいな、と思います。先を見て、前に進むクラブの中で、自分も一緒に先へ進めるって幸せですよね。プロになってからは先が見えなくて、不安ばかりが強かったけれど、その経験にも見合う価値はあると思う。“こうなりたい”と強く思える、今が楽しみです」

 これからを見据える幸せを噛みしめて。渡辺俊介は新たなステージに立つ。ただひたすら一生懸命、カッコ悪くても、これが俺の生きる道だ、と言わんばかりの姿を見せつけて。

泥臭く、カッコ悪くても、常に“一生懸命”。自らのプレースタイルを貫く VOREAS,INC.
泥臭く、カッコ悪くても、常に“一生懸命”。自らのプレースタイルを貫く VOREAS,INC.

スポーツライター、フリーライター

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、月刊トレーニングジャーナル編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に「高校バレーは頭脳が9割」(日本文化出版)。共著に「海と、がれきと、ボールと、絆」(講談社)、「青春サプリ」(ポプラ社)。「SAORI」(日本文化出版)、「夢を泳ぐ」(徳間書店)、「絆があれば何度でもやり直せる」(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した「当たり前の積み重ねが本物になる」(カンゼン)などで構成を担当。

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