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“凡人”セッター 今村駿 「東京オリンピックに出るために海外へ」

田中夕子スポーツライター、フリーライター
夫人と長男、7月に産まれた次男と家族でイスラエルリーグへ挑戦。(写真/本人提供)

 まるで想像もしなかった人生を、今、歩んでいる。

「堺でもやれて3年ぐらいかな、って思っていたんです。でも少しずつ自分の視野や目標が変わって、2013年に東京オリンピックが決まった。自分の体が動くならば、やっぱりそこは目指したい、と思いますよね」

 今村駿。30歳。東京五輪へ向けて始動した、今季のバレーボール日本代表の中にその名はない。だが、今村の心と目指す先は、まっすぐひとつの方向を向いている。

「東京オリンピックに出たい。そのために、今やれることをやろう、って」

堺ブレイザーズから広がった「世界」

 09年にテスト入団で堺ブレイザーズに入団した。順天堂大学時代もレギュラーセッターとして活躍したわけではなく、当初はVリーグなど自分には届かない場所だと思っていた。

 だが、堺へ入団直後の10年1月、レギュラーセッターだった金井修也が左手を骨折し離脱、急遽今村に出番が訪れた。突然巡って来たチャンスに「とにかく1戦1戦、ただ必死だった」というルーキーをスタッフや他の選手がコート内外でサポートし、09/10Vプレミアリーグでは決勝進出を果たしたが、結果は準優勝。悔しさと同時に、頂点をかけて戦う、痺れるような場面でいつも通りのプレーをするために何が必要か。自分の至らなさを思い知る機会となった。

 子どもの頃から両親と同じ教職につくのが夢だった。だが、テスト入団から広がった世界はさらに大きな発展を見せ、2010年に日本代表に初選出され、同年の世界選手権や13年のワールドグランドチャンピオンズカップに出場。

 堺ブレイザーズで酒井新悟監督のもとで基礎を学び、初めての全日本では植田辰哉監督に世界と戦う厳しさを植え付けられ、わずか数か月ではあったが、13年にチームの指揮を執ったゲーリー・サトウ監督、長年に渡りノルウェー代表チームを率いるなど豊富な国際経験を持つ印東玄弥監督、いくつもの出会いは今村にとってはその都度新たな刺激となり、日本だけでなく新たな「世界」を知る1つのきっかけになった。

 同じ頃、もう1つの転機が訪れた。

 元日本代表で、06年、10年の世界選手権にも出場し、現役時代はRCカンヌやアゼリョル・バクーなど海外クラブでもプレーした経験を持つ亜季子さんと結婚。年々堺で出場機会も減り、「このままいても出られないなら他の道があるのではないか」と考え始めた今村に、ごく自然に、その選択肢の中に海外を入れてもいいのではないか。そう感じさせたのが亜季子夫人の存在だったと言う。

「海外に比べて日本が遅れているとか、劣っているとは思わないけれど、でもどこかで、『本気でステップアップするなら海外へ行かなければダメなんじゃないか』という思いもありました。もちろん簡単な場所ではないけれど、でも海外でプレーした経験を聞くと、すごく充実しているように感じられたし、魅力的だった。東京オリンピックを目指すために、僕自身の経験値を埋めるために、海外へ挑戦したい、と思うようになりました」

 とはいえ、どうすれば海外でプレーできるのか。入口も、方法もわからない。自身や妻の持つ人脈をたどるだけでなく、ヨーロッパを中心に人を介していくつかのチームとコンタクトを取り、映像を送る。国際大会で来日した、海外のクラブチームを率いる監督に「プレーを見てほしい」と直談判したこともあった。

「石川(祐希)くんや柳田(将洋)くんのように、全日本でも活躍する選手はいろいろ海外への行き方もあるだろうし、方法もあると思います。でも僕のような凡人は、まずそこを見つけるのが難しい(笑)。それでもなぜ海外でプレーできるようになったか、といえばすべては縁と運でした」

 スウェーデンリーグに所属するオルケルユンガとの契約が決まったのも、まさに人の縁。13年のワールドグランドチャンピオンズカップにも出場したセッターの橋本直子が2シーズンに渡ってスウェーデンリーグでプレーしていたこともあり、「『日本のセッターは使える』という認識がスウェーデンではもともと根付いていた」と今村が言うように、男女問わず、日本人がプレーしたことのある国やチームは「日本人選手」に対する評価基準を持っていた。

 日本にいた頃とは比較にならないほど、報酬は安い。むしろ日本でアルバイトをしたほうが稼げるのではないか、と思えるような金額しか得られず、貯金を切り崩す生活で、決して恵まれた待遇ではなかったが、ようやく臨んだ海外生活がスタート。初めて経験することばかりのスウェーデンリーグは日々、刺激で溢れていた。

自分が望んだスタートラインに立てる幸せ

 スウェーデンリーグはリーグ自体がプロではなく、所属選手のほとんどはバレーボールだけで生活しているわけではない。日本のように1つの企業でチームを持っているわけではないので、それぞれが異なる生活や仕事をしながらバレーボール選手として練習に励み、試合に出場する。

 同じバレーボール選手とはいえ、日本にいる時とは全く異なる生活。Vリーグでは土日の試合に向けて木曜か金曜には試合が行われる場所へ新幹線か飛行機、もしくはチームバスで余裕を持って移動ができたが、スウェーデンではほとんどが当日移動。レンタカーで借りた大きなワゴン車の数台に分かれ、荷物と人をギューギューに積んで試合が行われる体育館へ向かう。試合のスケジュールが急に変わることも珍しいことではなく、プレーオフや順位決定戦など試合が佳境を迎えれば迎えるほど、過酷なスケジュールをこなさなければならなかった。

 試合環境だけでなく、日々の練習内容や環境も日本とは大きく異なる。シーズン中になれば1日中バレーボール漬けの生活ができる日本とは異なり、スウェーデンでは専用の体育館がないため、練習時間は限られる。2時間程度の練習時の大半が6対6のゲーム形式であるためパスやコンビなど個別練習はない。調子の良し悪しや出来不出来に関わらず、定められた時間の中でどれだけベストのパフォーマンスを発揮してアピールできるか。毎日がその繰り返しだった。

 だがそんな厳しさはすべて、自ら望んで選んだこと。

「海外でプレーするうえで自分の中で一番望んでいたスキルアップも少しずつできている手応えもあるし、精神的にも逞しくなったかな、と思います。もう一年海外でやりたい、と自然に思うようになって、取ってくれるチームもあって、ついてきてくれる家族もいる。今年もまた、自分が望むスタートラインに立てるのは、すごく幸せなことですね」

 スウェーデンでのシーズンは3位で終え、ベスト6にも選出された。そして海外で迎える2年目となる今シーズンはイスラエルへ渡る。

「来年は全日本に選んでもらえるように結果を残したいし、アピールしたい。いや、残さなきゃいけないし、アピールしなきゃいけない。それぐらいの覚悟です」

 縁と運を手繰り寄せ、たどり着いた今が一番楽しい。新しいシーズンの幕開けは、もう間もなくだ。

スポーツライター、フリーライター

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、月刊トレーニングジャーナル編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に「高校バレーは頭脳が9割」(日本文化出版)。共著に「海と、がれきと、ボールと、絆」(講談社)、「青春サプリ」(ポプラ社)。「SAORI」(日本文化出版)、「夢を泳ぐ」(徳間書店)、「絆があれば何度でもやり直せる」(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した「当たり前の積み重ねが本物になる」(カンゼン)などで構成を担当。

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