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「日本はオードリー・タンを大臣にする社会だろうか」 台湾から唐鳳本の著者が伝えたかったこと

田中美帆台湾ルポライター
台湾の店頭。『思考』は現在入荷待ち(協力:台湾淳久堂書店明曜店、撮影筆者)

重版出来のオードリー本

 オードリー旋風が止まらない。台湾のデジタル大臣、オードリー・タン(唐鳳)である。昨年から世界的に猛威を振るう新型コロナウイルス。その迅速かつ周到な対応が奏功し、台湾は日本だけでなく世界各国から注目を浴びることとなった。ここで一躍“時の人”として話題となったのが、オードリーである。

 日本では3冊のオードリー関連書籍が発売され、4月にも新たに1冊加わるという。2020年9月30日にオードリー初の伝記として出版された『Au オードリー・タン天才IT相7つの顔』(文藝春秋)は、発売半年を待たずして6刷を重ね、今年2月18日に発売された評伝『オードリー・タンの思考』(ブックマン社)は発売前から予約注文が相次ぎ、Amazonで発売した初日に完売、6日目には重版決定という驚異的な動きを見せている。

 今回、台湾で暮らす著者のおふたりが、日本の読者に向けて伝えたかったのはなんだったのか——執筆経緯、取材の様子、さらにオードリーと出会って起きた変化についてお話を伺った。

誤解から始まった企画

 『Au オードリー・タン天才IT相7つの顔』を鄭仲嵐さんと一緒に共同執筆したアイリス・チュウ(丘美珍)さんは、台湾メディアを中心に活躍するコラムニストだ。

 「最初は、台湾の新型コロナ対策におけるオードリーの伝記を書いてほしい、という依頼でした。ただ、実際のところ台湾はオードリーがいたから防疫に成功した、というわけではなく、多くの人が力を発揮して、台湾全体として対応にあたったというのが実情です。ですから、その切り口で1冊書くのは難しい、とお答えせざるを得ませんでした」

 このスタートは、日本での台湾コロナ対応の関連報道がオードリー一色だったことも影響している。その誤解を払拭するかのように、本書の巻末には50ページからなる「特別付録 台湾新型コロナウイルスとの戦い」と題して、台湾政府の動きの全容が記される。なお、同書は11月30日に台湾で中国語版が発売されているが、こちらにはこの特別付録は収録されていない。

 文藝春秋の編集者からアイリスさんに依頼メールが届いたのは2020年4月9日。1通目は日本語だったという。

 「でも、実はわたし、日本語がわからないんです。去年の3月、多言語のウェブメディアで、日本語で発表した記事があり、それを担当の編集さんがご覧になっていた。それで日本語で原稿が書けると誤解されていたようです」

 改めて英語で依頼文を送ってもらい、同書の企画が進み始めた。ところがここでもう一つ難関が待ち構えていた。

 「通常、台湾の書籍の文字数は中国語で6万字が目安とされています。これは日本語に換算すると7万字強にあたります。ところが、今回は、オードリーの周囲の人たちへの取材も含めて13万字という字数で書いてほしいと言われ、半年で書くのは無理だと思いました。それで、共同執筆者を立てたいと申し出ました」

 アイリスさんと同じくオードリーへの取材経験があり、日本で記者として活躍する鄭仲嵐さんに声をかけ、執筆は2人体制となった。そして議論を重ね、5月半ばには章立てが決まった。そして毎週、アイリスさんが担当部分の中国語原稿を書き、それを鄭さんが翻訳し、鄭さんの執筆分も含め、全体の原稿を整えていく作業が重ねられた。

今の台湾だからこそ生きるオードリー

 同書は全7章で構成され、35歳で台湾の内閣に大臣として入閣したオードリーに始まる。冒頭で彼女の現状を改めて踏まえた上で、幼少期から時系列にその成長を追う流れだ。各章では、デジタル人材、同性婚、ひまわり学生運動、民主主義制度など、今の台湾社会を語るときに欠かせないキーワードを軸に、オードリーに訪れた転機とそこで出会った人物との関係も含め、詳細に記されている。台湾には「時勢造英雄」、日本語にすると「時代がカリスマを生む」という言葉があり、オードリーはまさにそれに当たる、とアイリスさんは言う。

 「台湾は1987年の戒厳令解除後、デジタル社会と民主化がほぼ同時期に起こってきました。そういう時代のもとでオードリーは育った。確かに彼女は聡明で、能力も非常に優れた天才ではありますが、台湾という環境がなければ、今の彼女もなかった。生まれた時代が違えば、彼女がデジタル大臣という現在の立場になるのは不可能だったと思います」

 アイリスさんがオードリーの人生を通じて伝えたかったことのひとつが「親子は互いへの理解が必要」ということだった。アイリスさん自身、3人の子を持つ親である。

 「想像してみてください。学校に行ってもその子に教えられる教師がいない、という天才を子どもに持った時、親として何ができるかを」

 オードリーの小学校時代、合計9つの学校に通ったことはよく知られる話だ。それをオードリーの苦難ともとらえられるが、同時に「親にとっては本当に大きな試練だったと思うんです」とアイリスさんは言う。さらに天才には天才の抱える闇がある——本書にも「天才の抱える闇」という項目が設けられたのは、そんな考えからだった。

 「オードリーは確かに優秀な人ですが、だからといって『見て! こんなにすごい人なんですよ!』などと書くつもりはありませんでした」

 偶然だろうか。『オードリー・タンの思考』の著者、近藤弥生子さんもまた、別日の取材で同様のことを口にしていた。

オードリーの事務所がある台北市内の施設。取材は基本的にここで行われる。建物内には国連の勧めるSDGs(持続可能な開発目標)が掲げられ、台湾における取り組みの発信基地でもある。(撮影筆者)
オードリーの事務所がある台北市内の施設。取材は基本的にここで行われる。建物内には国連の勧めるSDGs(持続可能な開発目標)が掲げられ、台湾における取り組みの発信基地でもある。(撮影筆者)

求められた台湾に暮らす生活者の目線

 「オードリーさんを紹介するメディアは日本にも台湾にもたくさんあって、取材し尽くされているといってもいいほど。そして、その多くが『すごい』と彼女を称賛するものです。でも、あまりにもそれだけだと『ふうん』と遠い話で終わっちゃいますよね」

 近藤さんがブックマン社から依頼された内容は、最初から「評伝」である。本人の人生を辿る伝記と他者目線で対象を描く評伝では、人の描き方が根本的に異なる。

 「伝記というアプローチは、これからもたくさん出てくるでしょうし、変な話、その方が亡くなったあとでも書ける。私はオードリーさんと今、同じ時代を生きている、そのことを大事にしたいと考えていました」

 近藤さんのオードリー取材は、同書の企画が始まる半年以上前、2019年10月のこと。12月半ばにYahoo!ニュース特集で発表した「「国民が参加するからこそ、政治は前に進める」――38歳の台湾「デジタル大臣」オードリー・タンに聞く」は大きな反響を呼んだ。SNS上には数多くのコメントが投稿された。

 「『オードリーはすごい』『日本にも来てほしい』という内容が多かったですが、『オードリーが来たとして、日本社会は彼女を大臣にするだろうか』と疑問でした。やはり、台湾という社会のあり方がオードリーをここまで活かしている。大事なのは、社会のあり方なのではないか、と思いました」

 その思いを今度は「インタビューで垣間見たオードリー・タンの素顔」として記事を書いた。すると記事を読んだ方から「私も彼女の0.01%ぐらいかもしれないけど、いろんな人の力になれる小唐鳳でありたいと思います」というコメントが寄せられた。それから大きなヒントを得た近藤さんは「一人一人の心に小さなオードリー・タンを宿す」という考えにたどり着き、書籍のコンセプトにしたいと本人に伝えた。そしてオードリーに「“ソーシャルイノベーション”がテーマ」になるんですね、と指摘されて方向性が決まった。

 副題にもある「IQよりも大切なこと」とは、台湾社会で重視されるEQ(心の知能指数)のことをも意味する。こうした台湾社会特有の考え方に「学ぶことがある」と考えていた近藤さんだったが、コロナ以前に日本の編集部にこうした企画を提案しても、あまりピンときてもらえなかったという。潮目が変わったのが、例の新型コロナに対する台湾の対応だった。

 「これまで日本メディアで取り上げられる台湾は、中国や香港も含めた文脈のなかにあるものでした。そのなかには台湾で暮らしている人間からすると『ちょっと違うな』といったものも含まれていることがある。そういう中でオードリーさんが登場して、政治や経済といったジャーナリスト目線ではなく、私のような生活者の目線が必要になったのではないかと受け止めています」

ソーシャルイノベーションの一歩を踏み出すために

 『オードリー・タンの思考』は全4章。前半では、「台湾の希望」とされるオードリーの現状と生い立ちを踏まえ、2012年末から現在までにオードリーがかかわった施策や大臣としてのミッションを紹介する。そして、4章で「小唐鳳(小さなオードリー・タン)を心に宿そう」と題してオードリーの実践する具体的な行動とその一歩の踏み出し方が案内される。

 たとえば、SNSで単にほかの人の投稿にいいね!を押し、シェアするだけのある種、受動的な姿勢を卒業し、もっと主体的な行動を起こすこと。自分のSNSにおける行動が、そのどちらかを考えるだけでも違う。何気ない行為のようでいて、目の前の社会との関わり方に変化を起こす一歩であることがわかる。

 その他の例は同書をご覧いただくとして、テーマである「ソーシャルイノベーション」は、こうした一歩から始まるのだとわかる。「ソーシャルイノベーション」と聞いただけでは、壮大な社会変革を思いがちだが、外界との関わり方を見直し、一歩を踏み出せるよう、背中を押す提案が多い。

 こうした構成にしたのは、読み手の対象を「大学でこれからの人生を考える若い人たち」に定めたことと関係する。

 「たとえば大学卒業を前に、進路に迷って本屋さんに行く。それはきっと自発的に自分が変わりたいと思って、何かを探しに行く行動だろうと思います。そんな時に、親ができることなんてほとんどありませんが、この本を何かのヒントにしてほしいと思いながら書き進めました。そんなこともあって、オードリーさんを天才天才と言いたくなかったんです」

取材を通じて著者たちが得た変化

 天才と崇めて遠い存在としてオードリーをとらえるのではなく、社会の1人としてとらえ直す——その姿勢は、台湾で同時代を生きる2人の著者に共通していた。さらに、2人ともオードリーへの取材を通じて、自身にも大きな影響があったと話す。

 「睡眠時間を意識するようになりました。それに、世界をよい方向に変える力が自分にも備わっているのだと信じられるようになったことです」(アイリスさん)

 「オードリーさんから『考え方が主役』と聞き、ソーシャルイノベーション的な解決の仕方で物事をどうソリューションすればいいか考えるようになったことです」(近藤さん)

 オードリー旋風は、まだしばらく続くことだろう。

台湾ルポライター

1973年愛媛県生まれ。大学卒業後、出版社で編集者として勤務。2013年に退職して台湾に語学留学へ。1年で帰国する予定が、翌年うっかり台湾人と国際結婚。上阪徹のブックライター塾3期修了。2017年からYahoo!ニュースエキスパートオーサー。雑誌『& Premium』でコラム「台湾ブックナビ」を連載。2021年台湾師範大学台湾史研究所(修士課程)修了。

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