里山資本主義の実践には、高いコストを覚悟すべし

日本の里山の原点と言われる、奈良県明日香村の集落

『里山資本主義』が、ますます流行りだしたようだ。本もじわじわと売れ続けて、すでに30万部を超えたとか。最近では政治家や行政関係者まで口にし始めた。

私は以前、『里山資本主義を』取り上げて、総論は賛成ながら各論に異議あり、と書いたことがある。総論部分(里山地域で行う部分的な自給自足生活を現代社会のサブシステムとして活かし、災害等リスクに弱くて不安を増幅するマネー資本主義を補う保険として“安心”を構築する……)は賛成だが、各論……事例として上げられるバイオマス発電やらCLTを始めとする木造建築物、そして田舎暮らしの生活などの各論は、現実を見ていない代物だと指摘したのだ。発電に外国から輸入した木材を使う事例が「里山の資本を活かす」とは到底思えないから。

そこで今度は、総論部分について考えてみた。

と言っても、否定的に見るのではない。ただ「里山」をサブシステムにするには何が必要か、という点を考えてみたのである。

実は、私も以前、里山フォーラムという会議で、里山の意義に関して「サブシステムとしての存在」を指摘したことがある。ただし、その前提として言ったのは、里山(こちらでは田舎暮らし、の意味合いが強かった)は都会の経済に物量ともに敵わず、里山の産物だけは経済的に成り立たないことであった。

しかし、都会生活のストレスなどのリスクを回避したり傷から回復する「オルタナティブな空間」として里山環境が求められることはあり得る。そして都会ではスピード化や効率の重視、障壁の多さなどから新規のアイデアを出したりチャレンジしづらい環境だが、里山をインキュベーション(孵卵)装置として見ると存在価値があるのではないか、と意見を述べたのである。

後者を言い換えると、テーゼ(都会)とぶつかるアンチテーゼ(里山)がないと、そこからジンテーゼ(新たな視点、生活・事業等のアイデア)は生まれないのではないか、という意味だ。

だが、ここで問題となるのは、里山の資源は都会や大生産地のような質や量を備えていないことだ。

ロット(量)が少なくアイテム(種類)が多い、しかも洗練されていず原石のような里山の商品は、売買の対象になりにくい。それゆえ、今の自由主義経済では、脱落する。それが里山の地盤沈下をもたらした。

それでも維持したいと思うなら、誰かがどこかで不利益分のコストを負担しなければならない。いくら万一に備えたバックアップ、あるいはインキュベーション装置として里山が必要だと唱えても、非効率のために生じるコスト負担がなければ維持は難しい。

里山の雑木を薪にして炊事に使おうというのも、 薪は買えば高いし自分で調達しようにもその場所(山)を確保して、伐採したり薪割りする労力がかかる。燃焼後の掃除など手間もかかる。それはなかなか面倒なコストだ。

事実、高価な薪ストーブを設置したものの、ほとんど使わず、隣に置かれた灯油ストーブを愛用している例がいっぱいある。米や野菜の自給も甘くない。片手間に真似で耕作してもうまく育たないし、病害虫や獣害にあって全滅することもしばしば。ひん曲がって生長した農作物は、不味いことが多い。肥料や耕作道具の購入などを考えると、結局、購入するより高くつく。

そして田舎暮らしそのものが、そんなに甘くない。田舎に移り住んだものの、人間関係やら社会のインフラの問題、さらに仕事や収入面で悩んだり落胆している人が少なくない。田舎の生活は、意外と高くつくのだ。

里山資本をもう少し大きく、林業という産業で見てみよう。国産材が外材に押されがちなのは、国産材はロットが揃いにくく、効率的な販売網も確立できていないからである。だから消費者の手元に届くまでには高くなる。(素材としての価格は、国産材と外材に差はなくなっている。)国産材を使おう、という木づかい運動も、割高なコスト負担を消費者に求めることになる。

木質バイオマス発電も、本気で導入するには熱利用も含めて莫大なインフラが必要だ。そのためのコストがかかる。現在でも再生可能エネルギーはFIT(固定価格販売制度)によって割高な電気料金にしようとしているのは、コスト負担を求められているためだ。

それでも、里山はサブシステム=保険である、と思うなら、必ずしも返って来ない保険の掛け金を払わねばならない。

生命保険や損害保険は、死んだり損害を受けたときに備えて掛けるものだが、いざという時が訪れるまで払い続ける掛け金は、結構な負担だ。収入に余裕がなければ払い続けられない。

このように見ていくと、里山資本主義を実践するには、結構大きな掛け金を払い続ける覚悟がいるわけだ。リスクに備えるためコストを支払い続けられて、初めて「里山資本主義」の世界は築ける。

さて賛同者は、その覚悟と余裕はあるだろうか。