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パレスチナ:パレスチナの民間人がガザ地区から出られない/出ない理由

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

 2023年10月13日、イスラエル軍は国連に対しガザ地区の北部から約110万人を同地区の南部に移動させると通告した。国連は、このような移動では人道的な悲劇の発生が不可避だと指摘したが、現在イスラエルの軍事行動を止めようとする者は世界中のどこにもいない。人道危機を回避するために、パレスチナの民間人を退避させる人道回廊の設置が唱えられているが、ガザのパレスチナ人の避難先として最有力視されているエジプトは、エジプトからガザ地区への援助物資の搬入に用いる人道回廊の設置を熱心に働きかけている一方、この回廊を通ってパレスチナ人が自国領に避難してくるのを受け入れるつもりは全くと言っていいほどない。また、ヨルダン川西岸地区と隣接するヨルダンも、ガザ地区への援助物資の提供やそのための回廊の設置に取り組んでいるが、パレスチナ人の避難民の受け入れについては「紛争を他国に転嫁する」と外交場裏で警告しており、こちらも進んで避難民を受け入れることはなさそうだ。一方、ガザ地区に住む民間人たちは、彼らの全員がハマースやパレスチナ・イスラーム聖戦運動(PIJ)の構成員や支持者ではないし、中には反イスラエル武装抵抗そのものにも反対の者がいるだろう。そんな彼らは、ハマースやPIJに愛想をつかしてさっさとガザ地区から避難してしまわないのだろうか?

逆プッシュ要因

 結論から言うと、パレスチナの民間人にはガザ地区から出られない理由と、彼らが自ら望んでそこから出ない理由とがある。出られない理由の最たるものは、ガザだけでなくパレスチナ自治区と信じられているところそのものが、イスラエルによって周囲から隔絶されており、(イスラエルに追放される以外の理由で)パレスチナ人が出入りするのが困難だ。しかも、隣接するエジプトやヨルダンも、パレスチナ人の出入りを常に歓迎しているわけではなく、むしろそれを嫌っているかのようにパレスチナとを結ぶ通過地点をしばしば閉鎖する。パレスチナ難民を受け入れているアラブ諸国のいくつかは、彼らを帰化させることもなく、たいした身分や権利を与えることなく滞在させている国もある。これは、パレスチナ人はあくまで祖国を解放して自らの国を樹立するまで一時的に滞在しているだけだし、彼らを帰化させたり定住させたりすることはイスラエルによる侵略と占領を認めることになるとの大義名分に基づく。実践面でも、パレスチナの隣接する諸国には彼らを受け入れたくない理由があった。パレスチナの解放運動諸派は、受け入れ先の諸国を拠点にイスラエルに対する無謀ともいえる武装闘争を仕掛けたし、武装ゲリラが受け入れ国で傍若無人に振る舞って顰蹙を買った。「黒い9月」や「ファタハランド」は、ヨルダンやレバノンがどれだけパレスチナ難民(特に解放運動の武装闘争部門)を引き受けたくないかを示すキーワードだ。たとえこのような問題がなくても、現下の状況ではいったん受け入れたパレスチナ人を祖国に帰還させられる可能性は絶無と言っていい。となると、受け入れ国は彼らを国内の政治や社会に取り込まなくてはならないが、そのようなことをすれば自国内の既得権益が大きく揺らぐことになる。レバノンやシリアは紛争や経済危機に苦しみ、ヨルダンも決して余裕がある状況ではない。パレスチナ周辺の諸国は、既存の難民の処遇で精いっぱいのところ、これ以上の受け入れはしたくないだろう。当然ながら、イスラエルが自らの領域内に避難民を滞在させることも考えにくいし、パレスチナ自治区にそんなことをする場所は本当に物理的にない。また、欧米諸国は中東諸国をはじめとする各国から「押し寄せる」「大量の」移民難民に苦慮しており、ここに新たに数十万、数百万のパレスチナ人を受け入れることはできないだろう。つまり、パレスチナ人には、彼らがパレスチナを出て行こうと望んでも、彼らが出て行かないように押し戻す要因が強く働いている。

逆プル要因

 パレスチナ人自身が、パレスチナから出て行きたくない、出て行くべきではないという要因も強く働いている。パレスチナの抵抗運動諸派が、住民に避難しないよう強制している可能性ももちろんあるが、パレスチナの民間人たちにとっては戦禍からの避難は恒常的な難民に貶められたきっかけとなった苦い経験だ。実は、ガザ地区に限っても現在220万人程度の同地区の人口のうち、164万人がパレスチナの別の場所から追い出された難民とその子孫だ。彼らの多くは、累次の(特に第一次)中東戦争で戦禍を逃れるための一時的避難として本来の住処を離れた人々だ。そんな彼らにとって、戦禍から逃れる避難によって過去そして現在の権利や財産を失うことは耐え難い不正だ。今回避難したとしても、戦闘が終息した後に元の住処に戻れる保証は全くないことから、仮に人道回廊や安全回廊ができてそれを経由して避難できる状態にあっても、避難呼びかけを単なる追い出し陰謀としか感じない者が出てくるだろう。

 また、近年、パレスチナの抵抗運動の論理や手法も重要な変化を遂げている。2001年の9.11事件の当時、パレスチナではイスラエル軍と抵抗運動諸派・一般のパレスチナ人が激しい衝突を繰り返していた。イスラエルは9.11事件を奇貨とし、パレスチナの抵抗運動(アラビア語ではムカーワマ。意味するところはレジスタンス)をイスラーム過激派によるテロ行為と同一視させる報道キャンペーンを行い、それに成功した。そうした環境の中でも武装抵抗路線を維持したのがイラン、シリア、レバノンのヒズブッラー、パレスチナではハマースやイスラーム聖戦運動(PIJ)であり、武装抵抗運動によって結びついた諸当事者は、自らを「抵抗枢軸」と称してイスラエルとそれを支持するアメリカに対抗している。武装抵抗運動をイスラーム過激派のテロ行為と同一視されることを嫌ったパレスチナ諸派は、スムードと呼ぶ運動の形態でイスラエルに抵抗しようとした。スムードとは、アラビア語で抵抗・反対を意味するが、攻撃してくる相手に同様の手段で立ち向かう形態のムカーワマに対し、スムードはどんなに暴行されようが攻撃側・抑圧者の言いなりにならず、耐える形の抵抗だ。現実のスムードは、土地や財産を奪おうとするイスラエルに対し、あくまで現在の土地にとどまり、財産を維持し続ける行動に象徴される。

 つまり、パレスチナ人民にはムカーワマとスムードという2種類の抵抗の形態があり、イスラエルに抵抗することを選択した人々はあくまで今の場所に居続けることこそが何よりの抵抗になるのだ。こうして、身の安全や別天地での経済・社会的機会を追求してパレスチナから出て行こうとする人々がいたとしても、彼らには自ら抵抗することや、抵抗を続ける同胞を見捨てて逃げ出したという負い目が生じることになる。仮に外界に脱出する人々がいても、「一家に一人」くらいは土地や権利を守る役を担ってパレスチナに留まる者が出てくる。これは、パレスチナから出て行こうとする者たちの足を引っ張る要因だと言える。

 一般的な移住のメカニズムで考えると、外部の世界に経済的機会や政治的な安全・自由があることは、人々をそちらに引き付ける「プル要因」、現在の居住地に経済的機会がなく、政治的な安全・自由がないような状態は、人々をその土地から押し出す「プッシュ要因」と呼ばれる。ところが、ここまで見てきたとおり、パレスチナには周辺諸国や国際社会が寄ってたかって彼らを外に出さないように仕向ける「逆プッシュ要因」と、パレスチナ人自身も土地や権利への防衛意識や、民族としての矜持に基づいて外部への移住や避難をためらわせる「逆プル要因」が働いていると言える。パレスチナ人民は、別に彼らが無能だったり、愚かだったり、頑迷だったり、狂信的だったりするから現在の居場所に執着しているのではない。今般のように激烈な攻撃にさらされる可能性がかなり高い状況でも、自らの意志で抵抗(今般の場合はスムード)を選ぶ者たちも少数ではないだろう。今のところ、イスラエル側はパレスチナ人の民間人はもちろんのこと、ガザに囚われている100人を下らないイスラエル人・外国人の人質の生命を顧みることなく同地区を殲滅する決意のようだ。そうしてパレスチナ人を追い出すことができたとしても、残された土地はこれまでのいろいろな経緯や住民たちの気持ちがしっかり根付き、まさに草木もイスラエルに背く土地になりそうなものだ。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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