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【高校野球】仙台二高硬式野球部から2年連続で東大へ 一橋大、地元東北大にも

高橋昌江フリーライター
夏まで高校野球に打ち込み、難関大に現役合格した仙台二の6人

 仙台第二高校(以下、仙台二)の硬式野球部から昨年に続いて東京大学現役合格者が誕生し、今春も2人が赤門をくぐった。昨年度の主将を務めた丹野翔太が文科三類に、控え外野手だった大江宣知が理科一類に合格した。また、投手だった津田亮太が一橋大学社会学部に、スキー部と兼部していた田中裕一郎と内野手だった高橋祐充が地元の東北大学工学部に進学。正遊撃手だった柏葉光汰は東北大学医学部で整形外科医を目指す。

昨年の記事はこちら→【高校野球】仙台二高硬式野球部から初の東大現役合格!学校としても現役合格最多の”チャレンジする学年”

■丹野は“勉強したいこと”を見つけるために東大へ

 東大の文科三類で合格をつかんだ丹野翔太は「7割くらいは厳しいかなと思っていたので、合格が分かった時は喜びよりもホッとした感じでした」と笑顔をのぞかせた。

 リベラルアーツ教育を重視する東大は文系3つ、理系3つの6科類に分かれて入学するが、すべての学生が最初の2年間を教養学部前期課程で学ぶ。専門分野に偏らず、さまざまな学問領域に触れ、後期課程の学部を決める。この「進学選択制度」は東大の特徴で、丹野は「私の場合は何を勉強したいのかを見つけるために東大に行く、というイメージ。1、2年生で手広く学び、学部を決める時の材料にしたいと思っています」と話す。文科一類は法学部、文科二類は経済学部、文科三類は文学部、教育学部、教養学部に進学する学生が中心となっているが、他の学部に進学することも可能なため、見聞を広め、時間をかけて将来を考えていくつもりだ。

■先輩の現役合格で東大進学がリアルに

 仙台二の硬式野球部は1900(明治33)年の開校と同時に創部された。長い歴史の中で東大に進んだOBはいたが、現役合格は2021年度の主将を務めた内野手の石井優成と外野手の酒井捷(すぐる)が初めてだった。1学年上の先輩が成し遂げた快挙は丹野の進路選択を刺激した。

「ぼんやりとですが、東大ってどんなものなんだろうというのはありました。それがリアルになったのは間違いなく、石井さんと捷さんが東大に現役で入ったことですね。手が届くところにあるのか、と初めて現実味が帯びました」

 とはいえ、志望校と定めたのは3年夏の宮城大会を終えてからだったという。夏休み中には東大のキャンパスを見学し、宮城教育大附属中でも先輩だった石井に案内してもらった。「よりリアルになりました」。石井にも酒井にも勉強に関する相談に乗ってもらい、「受験前にも励ましてもらいました」と感謝する。

 勉強では塾に通わず、学校の先生の指導を仰いだ。例えば、地理は金森信之介監督に、世界史は佐々木威芳部長(当時、今春異動)に添削してもらった。

「地理(の過去問題)は金森先生にマンツーマンで添削してもらい、私の生まれ年の2004年まで遡ってやってくれました。生まれ年までいってやろう、と思って(笑)。最後の方は毎日のようにやって。世界史も10年くらいと、ピンポイントで苦手なところをやりました。私の場合は学校の先生方、さまさまです」

 塾に通わなかった理由もちゃんとある。

「私は他の東大志望者と比べると野球で(受験勉強の)スタートが遅れているので、他の人と同じことをやっても間に合わないというか、勝てないなと思ったんです。塾に行くと課題とか、一方的に出されるものが多いじゃないですか。とにかく、時間がなかったので、分かっているところをもう1回やるというのはもったいない。自分の苦手なところ、やるべきことを自分のペースでやりたいと思いました」

仙台二から東大に進んだ丹野翔太
仙台二から東大に進んだ丹野翔太

■仙台一との定期戦が「高校で一番の思い出」

 野球との出合いはプロ野球チーム・楽天。丹野が生まれた2004年、プロ野球は再編問題に揺れ、新規参入したのが楽天だった。物心がついた頃には仙台でプロ野球は身近になっており、宮城教育大附属小時代は楽天のベースボールスクールに通った。宮城教育大附属中で野球部に入部し、「練習試合や大会は初めてだったので試合が楽しくて、楽しくて」と、仲間とともにチームでプレーする面白さに魅了された。

 高校は県内の進学校で迷ったが、オープンキャンパスで雰囲気のよさを感じ、仙台第一高校(以下、仙台一)との定期戦があることも決定打になった。毎年5月に開催される「仙台一高・仙台二高野球定期戦」は1900年から続く伝統行事。その舞台は楽天の本拠地で、「あの球場で必ず試合をすることができるというのは大きかった」という。1年時は新型コロナの影響で中止となり、8月に仙台一のグラウンドで代替試合が行われた。2、3年時は楽天生命パーク宮城(今年から楽天モバイルパーク宮城)で試合をすることができ、特に主将として臨んだ3年生の定期戦は二高生としての誇りを持ってプレー。「高校で一番の思い出」というゲームになった。

 3年夏は宮城大会初戦で敗れたが、「それぞれが自分の役割を持ち、自信や誇りを持ってやっていた。プレーの面ではいいチームだったと言えないかもしれませんが、みんながチームのためにという意識が強く、献身的にやってくれました」と胸を張れるチームだった。

「野球を最後までやりきっても現役で大学に受かることができる、ということを今の後輩たちにも、これから二高に入ってくる後輩たちにも伝えられたかなと思います。言い訳できないようにできたかな、と(笑)」

 昨年の石井、酒井の記事で「仙台二硬式野球部の道標となる2人」と書いたが、野球にも勉強にも打ち込んだ丹野の矜持もまた、後輩たちの指針となる。

■現役で東大理系初合格の大江「気持ちで負けたら終わり」

 「親の方が喜んでいました」。3年夏は背番号19で、外野を守った大江宣知は両親とともにパソコンで東大理科一類の合格を確認した。1学年上の石井が文科一類で酒井が文科二類。同級生の丹野が文科三類だけに、理系では初の東大現役合格となった。「(先輩)2人に続くことができたのでよかったです。理科が得意で化学が好き。3年生から理学部の化学に入りたいなと思っています」と楽しみな様子だ。

 そんな大江もまた、先輩2人の合格に「現実味が湧いた」と話す。

「高校に入った時はあまり具体的なものはなく、漠然と『東大に行ければいいな』くらいだったのですが、去年、石井さんと捷さんが受かって現実味が湧きました。身近な人の合格によって、自分でも行けるんじゃないかと思い始めて、東大を目指しはじめました」

 合格の要因は「ずっと志望校を変えなかったこと」と言った。最初は「漠然と」でも東大を意識。そこに先輩の現役合格が加わり、東大に対する解像度がはっきりとした。そして、「自分に自信を持って最後まで続けること」とも言う。

「自分に自信を持つことが大事かもしれないですね。気持ちで負けたら終わりなので。今年、理科が難化して、やばい問題が出たんですけど(笑)。傾向と違ういろいろと混ざった問題が出て、ここ数年で一番、難しかったんです。でも、そこで慌てたら終わりですね。そういう時にちゃんとやってきたんだからいけるだろう、と自分に自信を持つこと。メンタルは大事ですね」

 その「自信」は日々の取り組みでしか培うことはできない。野球も勉強も同じだ。

 大江が野球をはじめたきっかけは聖ドミニコ学院小の学童保育。「野球をやる機会もあって、楽しいなと感じて」。野球教室にも通い、チームに入ったのは仙台二中の野球部から。高校は「ずっと行きたいと思っていた」という仙台二を選んだわけだが、その理由は徒歩10分と「家から近いので」と笑う。父親が仙台一の出身で定期戦に連れて行ってもらった年もあり、その印象はあったという。3年間の部活を振り返り、「休まず参加できたのでよかったです」と笑った。常にニコニコしている大江。東大でも野球部に入部した。

仙台二から東大に進んだ大江宣知
仙台二から東大に進んだ大江宣知

■一橋大合格の津田は通学の往復20分が支えに

 投手だった津田亮太にとって思い出深い試合は3年時の「仙台一高・仙台二高野球定期戦」。6回に登板し、1イニングを抑えたことだ。

「一人、エラーで出塁したのですが、キャッチャーが盗塁を刺して、結局は3人で終わりました。楽天生命パーク(当時)は子どもの頃から何回も行った場所だったので、そこのマウンドに立つことができたというのと、全校生徒の応援の中で投げることができたのは貴重な経験でした」

 社会心理学に関心があり、この春、一橋大社会学部に進んだ。「社会科学に強いのが一橋大。世の中の人が集団で動いた時の心の働きによって、どういう行動が起こるのか、のようなことが面白いので選びました」と話す。高校入学時点では「将来的にやりたいことが決まっていなかった」というが、進路指導の中で興味がある分野は何か、考える機会があり、「人間に興味があるな」と気づいた。

 合格した時は喜びを噛み締め、「勉強をやってきてよかった」と、日々の“往復20分”がよみがえった。通学で利用していたのが仙台市地下鉄。自宅の最寄り駅である長町駅から南北線で仙台駅まで行き、東西線に乗り換えて学校最寄り駅の国際センター駅まで約10分。英語や古文の単語帳を読み込んだ。

「電車では絶対に勉強しようと決めていました。往復で20分ちょっとの時間を取れるので、そこで勉強していなかったら部活が終わってからもっと大変だっただろうなと思います」

 1日のおよそ20分。それが積み上がる毎日。されど20分である。朝も勉強をする日と自主練習する日と分け、勉強をする日は教室の机に向かった。

「電車に乗っていない、歩く時間に音楽やラジオを聞いて、それが休憩みたいな感じでした。家と長町駅、学校と国際センター駅とそれぞれ5分くらいですが。野球をやっている時は、そこが一番の楽しみだったかもしれないですね」

 一橋大を志望した理由がもう1つある。というよりも、これが一番の理由だ。

「東京に行きたかったんです。テレビ東京の番組を見ることができることと、TBSラジオを聴くことができること。その2つです」

 ――将来、“作る側”には? と尋ねた。

「それは結構、思っていますね。今、一番興味があるのはそこ(メディア)ですが、大学に行って、いろいろと見て決めようと思っています」

 世の中が急速に変化している時代。大学で学んでいるうちに世界は新しくなっているかもしれない。

仙台二から一橋大に進んだ津田亮太
仙台二から一橋大に進んだ津田亮太

■野球とスキーの“二刀流”田中は東北大工学部へ

 田中裕一郎は182センチの長身右腕。小学2年の時、2つ上の兄とともにサッカーから野球に転向したが、すでにはじめていたスポーツがあった。スキーだ。

「スキーは5歳くらいから。1つ下にいる妹と、3きょうだいでやっていました。最初は遊びでしたが、小学校中学年くらいからアルペンスキーの競技チームに入って、今までやってきました」

 野球シーズンは加茂ヤングスターズで白球を追い、冬は宮城蔵王スキークラブジュニアで滑走した。「野球は冬に試合がないというのがちょうどよくて。冬の土日は山を登ってスキーをやっていました」。宮城教育大附属中では野球部に所属し、スキーも継続。高校でも野球とスキーを続けたいと思った。仮入部で金森監督に伝える時はドキドキしたが、むしろ、チャレンジを推奨してくれた。

「ダメだと言われるかと思ったのですが、『全然、いいよ』という感じで、本当にびっくりしました。どちらかというと、スキー部の先生に『本当にできるの?』と心配されました。でも、私はできると思っていました。勉強の面で心配はありましたし、確かに時間はなかったのですが、空いた時間をきちんと使う習慣ができたし、先を読んで行動もできたので、3年間、特に何もなくできました」

 高校1年の時には予選を勝ち抜いて、冬季国体に出場した。「本当に嬉しかったです」と声を弾ませる。

「スキーをやっている人は仙台市内にあまりいませんし、私のように他のスポーツをやっている、という人もそんなにいません。高校のスキー部に所属しているスキー場に近い人たちは学校が終わった後も練習していますが、私は土日だけ。そういう状況の一発勝負で結果を出すことができました。中3と高3は受験でスキーができず、私は中学1、2年と、高校1、2年で上の学年と戦わないといけなかったので、全国に行けたというのは本当に嬉しかったです」

 仙台二高は父親の母校で、「伝統もあるし、いい学校だなと思った」と選んだ。大学もまた父の母校・東北大へ。「高校に入った時から東北大しか頭になかったです」。工学部で機械を学ぶ。

仙台二から東北大工学部に進んだ田中裕一郎
仙台二から東北大工学部に進んだ田中裕一郎

■高橋は模試の判定に一喜一憂せず、本番だけを見据えた

 高橋祐充は野球好きな家庭で育った。4つ上の兄が少年野球をはじめており、応援についていく機会は多くなかったものの「野球をやっているの、いいな」と思っていた。プロ野球を見ることも増え、野球選手がかっこよく映ってもいた。野球をプレーしている友達もいて、上杉スワローズに入団したのが小学4年の時だった。

 仙台二高に進んだのは「勉強のレベルが高い」ということもあったが、野球同様、兄の影響もあった。上杉中時代は「二高に入る」というエネルギーを持ち、勉強にも力が入った。「その時の頑張りがベースになったのかなと思います」。兄は東京の国立大に進んだが、同じ道は高校まで。「二高から東北大に行く人が多いので」と、大学は地元の東北大工学部を目指した。「学部は工学部と決めていて、中身を調べました。機械とか電気とかあるんですけど、建築、面白そうだなと」と、建築・社会環境工学科で学ぶ。「ずっと野球をやってきたので、大学ではいろんなことをやってみたいと思っています」と学生生活への期待に胸を膨らませる。

 3年夏の背番号は14で、控えの内野手だった。だが、その経験は受験で生かされた。

「自分に足りないものを考えて練習する癖や考え方が身についたかなと思います。何事にも目的を持ち、何を成長させようと思って練習するか。その習慣がついたかな」

 高校野球引退後の受験勉強で意識したことは細かく区切ること。そして、目の前の課題に集中すること。

「1日の目標を立てて、今日はここまでとか、今日はこれをできるようにしようとか。1日3教科とかはやらずに1日1教科の短期集中。明らかに苦手なところを潰していく感じでやっていました。遠くを見過ぎるとしんどくなるので、模試の判定とかよくなかったんですけど、あまり気にしていませんでした。本番に間に合えばいいかな、くらいでやっていましたね」

 コツコツと理解を広げ、できることを増やしていく。勉強も野球も根本は変わらない。

 この春、弟が仙台二高に入学し、硬式野球部の門を叩いた。高橋家の高校野球は続く。

仙台二から東北大工学部に進んだ高橋祐充
仙台二から東北大工学部に進んだ高橋祐充

■東北大医学部の柏葉は整形外科医になって「野球に関わる」

「将来は野球に関わるスポーツ医療をしたいと思い、整形外科を目指しています」

「一番・ショート」だった柏葉光汰は東北大学医学部医学科にAO入試II期で合格した。両親が医師で小学生の頃から「お医者さんになりたい」と思ってきたが、中学生になると野球による怪我の影響から整形外科に関心を持った。さらに、仙台二高の硬式野球部では整形外科医や理学療法士との関わりがあり、「教わったストレッチなどをやると肩の痛みが治った」経験からより明確になった。

「勉強の基礎固めは部活をやりながらできていたので、引退後に苦手なところを埋め、応用を入れました。基礎ができていたから、スタートが遅くなってもなんとかついていくことができたと思います」

 とはいえ、入試を受ける時点で自信はなかった。

 昨夏の宮城大会。1回戦で仙台二高は仙台高専名取と対戦した。柏葉はリードオフマンとして5打数2安打。3回には二塁打を放って出塁し、先制のホームを踏んだ。その後、逆転を許して敗れたのが7月8日。一次試験は4ヶ月後の11月上旬だった。

「受かると思っていなかったので、本当にびっくりしました。小作文はまったく知らない医学的な講義を聞いて、それをもとに問題を解くというものですごかったです。面食らいました。勉強は野球の練習がてらという感じでやってきて、7月に引退して、“記念受験”状態だったので受かると思っていませんでした」

 だが、倍率9.1倍を見事に突破。11月末に合格を手にした。一番、喜んでくれたのが父方の祖父だった。

――もしかして、おじいちゃんもお医者さん?

「そうです(笑)。私の祖父は東北大に行きたかったけど行けずに諦めて。父も叶わなくて。私がやっと入ることができました」

 東北大医学部は柏葉家の悲願だったという。なんだか、代々受け継がれた「甲子園への夢」のようではないか。

「電話で伝えたら涙ぐんで、本当に喜んでくれました。また、母方の祖父が2月に亡くなったんですけど、(11月の)AO入試で合格していなければ伝えることができませんでした。だから、神様がAO入試で受からせてくれたのかな、とも思ったりして。入院していた母方の祖父も思いっきり、泣いていましたね」

仙台二から東北大医学部に進んだ柏葉光汰
仙台二から東北大医学部に進んだ柏葉光汰

■野球と勉強を両立し、球数制限のあり方を研究したい

 家族の思い、気持ちを感じながら、そして野球への情熱を持ちながら長い学生生活を送る。「医学部に入ることがゴールではない」と、憧れの人である父から言われている。

「趣味と両立しながら仕事を楽しんでいて、医者という職業にやりがいを感じている父に憧れがあります。自分も同じように仕事がしたいなと思っています」

 将来、やりたいことがある。

「私が目指したいのは、個人に合った医療を提供することです。野球の医学的側面の研究が進み、今、球数制限が設けられていますが、一律で設けたものではすべての投手に対して不十分ではないかと思うんです。入試の面接でも私がやりたい研究の1つとして球数制限の設け方を挙げたので、それに関連して調べました」

 こんな若者がいることに、野球界の未来が明るく感じられる。

「野球に重きを置きながら、勉強と両立でき、高校生活が充実していました。二高を選んで正解、よかったです。高校でもあれだけ忙しい中で両立ができたので、大学でもやっていける自信はあります。ここから、いい医者になるために頑張っていきたいと思います」

 スポーツドクターへのスタートラインに立った柏葉。「野球がないのは考えられない」と、大学では準硬式野球部に入った。プレーをしながら学びを深めていく。

(写真はすはすべて筆者撮影)

フリーライター

1987年3月7日生まれ。宮城県栗原市(旧若柳町)出身。大学卒業後、仙台市在住のフリーライターとなり、東北地方のベースボール型競技(野球・ソフトボール)を中心にスポーツを取材。専門誌やWebサイト、地域スポーツ誌などに寄稿している。中学、高校、大学とソフトボール部に所属。大学では2度のインカレ優勝を経験し、ベンチ外で日本一を目指す過程を体験したことが原点。大学3年から新聞部と兼部し、学生記者として取材経験も積んだ。ポジションは捕手。右投右打。

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