【ホークスちょっと昔話】松田宣浩のプロ初本塁打の裏側にあった、もう一つのドラマ
プロ野球にはドラマがある。
筆者は番記者のような立ち回りで、ホークスを取材してきて今年で19年目を迎える。1軍の主催試合をほぼ現場で観戦し、そして1軍遠征時はファームに通うのがいつもの流れだ。
観戦試合数をいちいち数えていないが、2000試合はすでに超えている。その時、その時でホークスにまつわる原稿を書き留めてきた。
ホークスにあった数々のドラマを当時の温度のままで振り返っていく。
その名も、ホークスちょっと昔話。はじまり、はじまり~。
【2006年4月・スポーツナビに寄稿したコラムに加筆修正したもの】
「ウォーッ!」
男たちが野太い歓声を上げた。
2006年4月22日、西戸崎室内練習場の一室でホークスの二軍選手たちが小さなテレビを囲んでいた。大阪ドームで行われている一軍のデーゲームを観戦するためだった。序盤からホークス打線が好調で、次々と得点を重ねていく。頼もしい先輩たちの活躍に若鷹たちは盛り上がった。
一般的な視聴者であれば、先発したエース斉藤和巳の好投や前日に復帰(3月のWBCで負傷。あの「神の右手」)した川崎宗則の巧打、そしてドラフト1位ルーキーの松田宣浩のプロ初アーチに目を奪われていただろう。
だが、若鷹たちにとってのハイライトは違っていた。
この試合に「6番ファースト」でスタメン出場した吉本亮の一打だった。
六回、左中間を破る二塁打を放つ。一塁走者を生還させ、自身2年ぶりに打点を挙げた。西戸崎の若鷹たちもまるで我が事のように手を叩いて喜ぶ。吉本は人望の厚い男だ。その後日、かつて二軍監督を務めていた定岡智秋氏にその様子を伝えると「アイツも『雁の巣の主』みたいなものだからな」と笑っていた。
全く違う背番号ならまだしも・・・
プロ8年目。その多くはファーム暮らしだった。98年ドラフト1位で入団。あの年の夏、全国の野球ファンの視線を釘付けにした甲子園で、投の主役は横浜高校の松坂大輔だった。そして打の主役は熊本・九州学院高校の4番打者の吉本だった。惜しくも1回戦で敗れたものの2打席連続本塁打の衝撃は今でも色褪せない。高校通算本塁打は64本。「松坂世代」最強バッターと呼ばれた。しかし、プロ入り後は苦しんだ。01年にファームで本塁打王を獲得したが一軍ではノーアーチ。一軍に定着したといえる時期はない。特に今年は、迫りくる危機が形となって現れている。入団以来背負った背番号5は、同じ内野手でルーキーの松田に譲った。そして吉本の背番号は「0」が加わり、50番となった。
その屈辱感は想像に難くない。古参の球団スタッフも「あれはキツイ。全く違う番号ならまだしも50番はね」と彼の心中を思いやる。しかし、これがプロの世界。この現実を正面から受け止めなければ、ユニホームすら着ることができなくなる。
吉本自身、それを分かっていた。春季キャンプ、オープン戦では1度も一軍から声が掛からなかった。それでも常にひたむきだった。特にキャンプでは毎日夜7時過ぎまで球場に残り汗を流した。今年で26歳を迎える。もう若手ではない。それでも入団2、3年目の選手と同等かそれ以上の練習を行った。
4月21日に今季初の一軍昇格。しかも即スタメンで、打順は5番だ。吉本は、ついにチャンスを掴み、そしてすぐに結果で応えた。
その後も活躍を見せた。25日のイーグルス戦(長崎)では2安打4打点の大当たりでお立ち台にも上がった。
「もうすぐズレータが帰ってくるけど、僕は必死にアピールするだけ。試合に出させてもらえるようにしっかりと準備をします」
昨年はセカンドでスタメン出場したこともある。このまま波に乗れば、今年大ブレークを遂げる選手の1人になるだろう。
吉本の活躍もありチームは今季初の4連勝。そして、若鷹たちに勇気を与えた。彼らが刺激を受けないはずがない。吉本に続くスターが生まれ、チームは必ずや活性化するに違いない。
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吉本は現在、ホークス三軍打撃コーチを務めている。2017年11月の就任時には「僕自身、プロに入って誰よりも失敗してきました。だからこそ、若い選手たちの失敗の確率を減らしてあげられると思う。イキイキとした選手を育てたい」と語っていた。若鷹たちのアニキ的存在。具体性を持たせた丁寧かつ情熱のある指導に定評がある。