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「ガチンコ・ファイトクラブ」世代のボクサー、横浜光ジム会長・石井一太郎の半生

杉浦大介スポーツライター

 現役時代は日本、OPBF東洋太平洋ライト級王者になり、2009年に引退後、横浜光ジムの会長に就任した石井一太郎。現在は東日本新人王実行委員会の委員長も務める石井会長は、動画配信サイトA-SIGN.BOXING.COMを16年6月に開設したアイデアマンである。8月31日には新宿フェイスで開催した「ファーストレートPresents A-Sign BOXING」もYouTubeで生配信し、好評を博した。

 38歳の若さでプロモーターとしても注目を集めるようになった石井会長に、今回、ロングインタビューを行った。自らの半生を振り返るその赤裸々な言葉から、現在まで続く選手育成のフィロソフィが浮き彫りになってくる。

 インタビュー第1回

 「タイで負けた時はショックだった…」横浜光ジム会長が明かす一番つらかった世界戦

 インタビュー第2回

 「このままじゃ日本のボクシング界はやばい」横浜光ジム会長の新たな挑戦とは

ボクシングを止めなかった意外な理由とは

ーー石井会長はもともと高校まで野球をやっていたということですが、大学でボクシングを始めたきっかけは何だったんでしょう?

石井一太郎(以下、II) : 格闘技をやりたかったんですよ。ヒクソン・グレイシー対高田延彦戦とかあったおかげで僕が高校1年生の時はPRIDEが盛んだったんですが、当時はヘビー級が主流だったので僕自身ではできないなと考えたんです。で、階級制があるのがボクシング。ボクシングでも空手でも何でも良かったんですけど、最初はプロになろうとは一切考えていなかったです。

ーーそうやって格闘技をやりたいと思ったのは、強くなりたいと思ったから?

II : 学校の中ではけっこうぶいぶい言わしていたんで、だから自信があったという部分もあります(笑)

ーーなるほど(笑)。“明治大学卒業のインテリボクサー”とネット上に書かれてあるのを見ましたが、現役時代の映像などを見ると、悪い人オーラ(?)も出ているような。いったいどちらが実像に近かったのでしょう?

II : 僕は中、高、大と明治なんですけど、中学受験したのは地元の学校に通わせないようにするという親の考えでした。地元って不良が多いじゃないですか。僕も小学校の時はかなり酷かったんで、地元の中学校に行かないように受験勉強させられたんです。だから中、高のときはもちろん何も問題は起こしてないですけど(笑)

ーーそれはそれで信じられないし、質問にも答えてくれてないですね(笑)

II : まずインテリじゃないですよ。そういうふうに書かれているのを見て、僕の同級生とか、僕をよく知っている人たちには相当笑われていますからね。お前でインテリって呼ばれる業界なんだなって(笑)

ーーケンカ慣れは相当していたんじゃないかなと思いますが、ジムに通い始めてボクサーの技量を思い知らされたりもしましたか?

II : 思い知らされて、もう止めようと思いましたもん。あと、当時は(世界2階級制覇王者)畑山隆則さんがいたので、プロ志望者が毎月のようにたくさん入ってきて、始めて1年半くらいはまともに練習を見てもらえなかった。それでも止めなかったのは、当時放送されていた「ガチンコ!」って番組が大きかったんです。

ーー元世界ミドル級王者・竹原慎二さんがコーチを務めて大人気になったバラエティ番組ですね。

II : 僕はもろに見ている世代なんですよ。放送の次の日はいつも「あいつらしょぼいな」って話になるんですけど、その「ガチンコ!」の連中と大差なく見られてしまうのが嫌だったので、少なくともプロライセンスは取らないとやばいと思って続けていたっていうのはあります。ぶいぶい言わしていたくせに、すぐ止めて、「ガチンコ!」と一緒じゃねーかっていうのはやばい。自分が学校の中で作っているキャラクターを守るために続けたんです(笑)。ちょうどその頃、僕がジムに入って1、2年くらいのときに(元WBC世界スーパーバンタム級王者)ロイヤル小林さんがトレーナーとしてジムに来たんです。関会長(関光徳初代会長)がロイヤル小林さんに僕のことを紹介してくれて、こいつパンチあるから、ロイヤル見ろよって。それからちゃんと自分のトレーナーがついたって感じでした。

ーーそこからロイヤル小林さんとのコンビが始まったわけですね。

II : 僕はプロで25戦やったんですけど、20戦目まではロイヤル小林さんと一緒です。(2007年4月の)長嶋健吾戦が最後ですね。

ーー石井会長がタイトルを取ったのは小林さんと別れてからなんですね。

II : それはなんか悪いなというふうには感じます。僕が海外にトレーニングに行くようになって、いろんな人に教わって、ちょっと変化して戻ってくるじゃないですか。それは今までロイヤル小林さんが教えてくれたボクシングじゃないというので、だんだんうまくいかなくなりました。最後はケンカ別れではないんですけど、僕がロイヤル小林さんにもう無理だって言いました。ただ、僕の(基盤になっている部分の)中でもう8、9割はロイヤル小林さんの指導によるものなのは確かです。

名王者ウィラポンとの交流

ーー石井会長は現役時代から頻繁に海外修行に行っていたということですが、そうなった経緯は?当時はまだそれほど海外でのトレーニングをする選手は多くはなかったように思いますが。

II : 日本ランキング10位くらいのときに、フィリピン王者(フェルナンド・モンティリャ)に勝ったあと、宮川さん(宮川和則社長、会長)がご褒美旅行でロサンジェルスに連れて行ってくれたんです。その時にルディ・ヘルナンデス・トレーナーのジムで練習し、そこで世界ランカーのウルバノ・アンティロンっていう選手にスパーリングでボコボコにされたんですよ。アンティロンは(元2階級制覇王者の)ウンベルト・ソトと世界戦をやった選手なんですけど、これはダメだなと。日本でのスパーではそこそこやれたんですけど、そこで世界は広いんだなと思い知らされました。

ーー月並みな言い方ですが、海外に出て真の世界を知ったということですね。

II : そのロサンジェルス合宿は3月だったんですけど、次の試合は8月だったので、あと4ヶ月もじっとジムで練習しているのは嫌だなと思ったんです。ちょうど大学卒業の時だったんで、卒業旅行でメキシコに行った友達の話をいろいろ聞いて、自分でチケットを取ってメキシコにも行きました。メキシコはボクシング大国ってイメージがありましたからね。誰にも了解も取らず、出発2日くらい前に「明日からメキシコ行く」って宮川さんに言ったらめちゃくちゃ怒られたのを覚えています。でも、それがきっかけで社長は僕をどんどん海外に行かせてくれるようになったんです。

ーー元世界バンタム級王者ウィラポン・ナコンルアンプロモーションとも交流が深いと伺っているんですが、知り合ったのはタイに修行に行っていたときですか?

II : タイでも行ってからジムを探そうみたいな感じだったので、毎日違うジムで出稽古したんですけど、最終的にウィラポンのジムにお世話になったんです。ウィラポンとは本当に親しくなりました。ウィラポンはジムの上に住んでいたんですけど、毎日、朝、晩のごはんを僕も一緒に食べて、ロードワークも全部一緒でした。

ーーウィラポンは日本ボクシングとの関係も深い選手ですが、どんな人柄ですか?

II : “デスマスク”って愛称から想像される通り、めちゃくちゃ真面目な人だと思います。でも冗談も言います。当時はスマホもなかったんで、タイ語の辞書を持っていって話すんですけど、ウィラポンは何回も日本で試合をしていたんで変な日本語を知っているわけですよ。2人で話すとなると、言葉があまり喋れないから、ボクシングか女の話しかできない(笑)。でも練習が休みの日曜日は、ウィラポンがいつも遊びに連れて行ってくれてましたね。マーケットとか、夜のお店とか。全部で2ヶ月くらいタイにいたんですけど、めちゃくちゃ面倒見てもらいました。

ーー今でも交流はあるんですよね?

II : 今でもタイに行った時は会ったりしますよ。ウィラポンはレストランを経営していて、バンコクから車で4時間くらいかかるところに自分の家を持っています。僕もそのレストランに行きましたし、この間、僕がタイに行った時には逆にバンコクに来てもらって、一緒にご飯食べたりしました。

現役引退、会長就任、そして・・・・・・

ーー現役時代の話に戻ると、そうやって海外修行で力をつけ、20戦目あたりからタイトル戦を幾つもこなしています。その中で思い出に残る試合というと?

II : やっぱり日本タイトルを奪った中森宏(平仲ボクシングスクール)戦と、(OPBFタイトルを獲得した)ランディ・スイコ戦ですかね。どっちがって言ったらわからないですけど、やはり(2回KOで勝った)中森戦の方かな。当時、中森はめちゃくちゃ強くて、あの試合も中森のための興行でした。諸事情で僕の体調も万全ではなく、半ば諦めていたので、あの試合に勝った瞬間は生き残っちゃったっていう感じでした。

ーーそうやって初戴冠を果たし、同じ2008年にOPBF王座も奪取と素晴らしい1年になりましたね。

II : スイコ戦の前はずっとメキシコに行っていたんです。その前の防衛戦が終わってから試合までに5ヶ月くらいあったので、約1ヶ月のキャンプを2回やりました。スイコはアッパー系の選手なので、どうやって懐に飛び込んでいくかという練習をしていたんですけど、試合の1、2週間前にやっぱりこの戦い方じゃ勝てないなと思って、それまで試合で使ったことがなかった足を使うことにしたんです。だからぶっつけ本番で足を使った。それでうまくポイントを稼ぎ、勝てたという意味では思い出深いです。

ーーそうやって充実した2008年を過ごしながら、2009年4月に三垣龍次(M.T)に負けて引退されています。年齢的にもまだできそうに思えますが、ここで引退した理由とは?

II : 東洋太平洋タイトルを奪って、控室に戻った時に、宮川さんから一番最初に言われた一言が「これから地獄が始まる」だったんです。僕は宮川さんと親しかったため、マッチメイクの難しさとか、「そんなこと選手に言うのか」って話も聞かされていたため、おかげで純粋に世界を目指すような気持ちが薄れてしまっていた。だから東洋太平洋を奪ったらもう終わりだと思ってました。

ーー世界は能力的に難しいという気持ちもあったんですか?

II : 実力的にも現実的ではないと思っていました。日本タイトルを奪った時点で自分としては満足でした。その直後に東洋太平洋タイトル戦が決まったんで、これは当然、なんとしてでも取りたいと思いましたけど、でも東洋太平洋タイトルを奪ったら終わりだなとは思いました。三垣戦で負けた瞬間、もう秒で止めるって決めましたね(笑)。控え室に戻って、一緒にやってきた赤穂亮とかに「もう止めるからあと頑張って」って伝えたんです。で、引退して1ヶ月くらいした頃に、宮川さんから会長代理をやってくれと頼まれました。

ーー引退後、29歳の若さで会長代理へ。そして、宮川会長の逝去後は正式に会長へ。現役時代からボクシングの裏事情をいろいろと聞かされ、会長就任には迷いはなかったですか?

II : 今までの人生で一番迷ったと思います。宮川さんの生前から会長になるってことは言われていたんですが、あくまで宮川さんがオーナーとしていて、僕が会長代理という形で現場を仕切る立場という認識でした。ジムを継ぐぞっていうふうに強い気持ちで引き継いだっていうよりも、ジムを潰すわけにはいかないよなっていう気持ちで続けてました。どちらかといえば消去法で、まあやるしかないかなみたいな感じですね。

ーーこれまでいろいろお話を伺って来ましたが、自身のボクシング人生を振り返って、現役時代から引退を通じて最も思い出深い出来事というと?

II : 現役時代の最大の思い出はやはり海外でキャンプができたことですね。メキシコ、タイに行ったり、ロサンジェルスもそうですけど、楽しかったなという印象があるのがそこです。何が最も印象に残っているかというと少し難しいんですけど、今、振り返ったとき、いろいろなところに行けて良かったなというのは真っ先にあります。

ーータイトルを取ったどの試合よりも、練習の方が印象に残っているんですね。

II : 思い出としてはそうですね。試合のことは、今はあまり・・・・・・。そして、そんなキャンプ、トレーニングの経験が今につながっているというのもあります。タイに行っていたことが、うちの選手が今、タイでタイトル戦をすることにつながっている。ロサンジェルスにも縁ができて、(ヘルナンデス・トレーナーの下で練習していた)伊藤雅雪がうちの所属になった。そうやって、現役時代のことは様々な形で今の活動にも確実につながってきていると思っています。

石井一太郎

●プロフィール

東京都生まれ。前OPBF東洋太平洋ライト級王者、元日本同級王者。通算戦績は21勝(16KO)3敗1分。現役時代は横浜光ボクシングジム所属で現在は同ジム会長。

写真提供・石井一太郎
写真提供・石井一太郎
スポーツライター

東京都出身。高校球児からアマボクサーを経て、フリーランスのスポーツライターに転身。現在はニューヨーク在住で、MLB、NBA、ボクシングを中心に精力的に取材活動を行う。『日本経済新聞』『スポーツニッポン』『スポーツナビ』『スポルティーバ』『Number』『スポーツ・コミュニケーションズ』『スラッガー』『ダンクシュート』『ボクシングマガジン』等の多数の媒体に記事、コラムを寄稿している

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