■はじめに

 ガソリンを使った凶悪な犯罪が続いています。

 どこにでも普通に売っていて、私たちの生活に欠かすことができないガソリンですが、これが犯罪に使われた場合、売った人は結果的にその犯罪に因果的な関わりをもってしまったことになります。

 その際、相手が「今から放火に使うので、売ってくれ」と言ったのならば、もちろん売った人は放火罪の共犯(幇助[ほうじょ]犯)として処罰されるべきです。他人の犯罪を援助しているし、故意も認められるからです。

 ただ、故意は不確かな認識(未必の故意)の場合にも認められますので、何か不審な兆候があって、〈ひょっとすると放火に使われるかもしれない〉と思いながらガソリンを売ってしまった場合も処罰されるのでしょうか。

  • 幇助犯の要件〉 幇助(刑法62条)というのは、他人の犯罪を援助、手助けする場合であり、(1)殺人のためのナイフや逃走のための車を貸すといったような物理的な場合と、(2)鍵の開け方を教えるとか、激励するといった心理的な場合とがあります。いずれも処罰に差はありません。また、実行者が知らない間に一方的に犯行の手助けを行う片面的幇助も処罰されます。
  • 未必(みひつ)の故意〉 「ひょっとして~が起こるかもしれない」と思いながら、その行為をやめない心理。たとえば、相手を殴りながら、「死ぬかもしれない」と思ったけど、殴り続けたような場合、殺人の未必の故意があったとされます。はっきりと殺す意図があった場合と処罰に区別はありません。

■日常的な業務に犯罪性が生まれるとき

 ガソリンはもちろん、ナイフや劇薬など、世の中には犯罪に利用されるような危険物は無数に存在します。しかし物の危険性という点だけに着目して、危険物を扱う小売店はつねに自分の行為が犯罪に利用されないように警戒しなければならないとすると、社会はたちどころに停滞することでしょう。したがって、身分確認や販売の量など、形式的な制限を課して、それでもなお残る危険は社会として許容せざるをえません。日常生活を営むなかで不可避的に受け入れざるをえないこのような危険は〈許された危険〉と呼ばれ、知らずに売ってしまい、結果的に犯罪に利用されても適法だとされています(スーパーで売られたナイフが殺人に使われても、スーパーに何の法的責任も発生しないのは当然です)。

 ただし、最初に述べたように、いくら日常的で正当な業務活動であるといっても、不審者の犯罪遂行に使われるという、はっきりとした認識がある場合についてまで幇助犯の成立を否定することは妥当ではありません。

 たとえば、ガソリンを買いに来た客が放火を準備しているということを知ったにもかかわらず、店員が(身分確認などの)決められたルールは守ってガソリンを販売したとします。その場合、彼は具体的に予測された危険性を確実にコントロールできていたにもかかわらず、あえてガソリンを提供して犯罪に使用させたわけですから、日常的な業務行為の範囲を外れており、幇助犯の成立は肯定すべきです。

 問題となるのは、客が犯罪を犯すかもしれないという何かの兆候があるにすぎない場合です。つまり、そのような場合に未必の故意が肯定されることを根拠として、商売を優先した事業者を幇助犯として処罰すべきなのかということです。

 このような場合には、学説では肯定する見解もありますが、私は幇助犯の成立は否定すべきだと思っています。

■冒頭の問題の解決

 放火に使われるかもしれないと思いながら、ガソリンを売った店員の刑事責任は否定されるべきだと思います。その理由は、とくに次の2つです。

 第一に、営業についてのルールを守っても、なお残る危険は上で述べた「許された危険」です。なされた販売行為が客観的に通常の営業行為の範囲にとどまっている限り、自己の行為が犯罪に役立つ場合かもしれないという不確かな認識は、通常の業務行動に伴う「許された危険」、つまり適法性の主観的反映に他ならず、それを(違法な事実の認識である)故意とは呼べません。

 第二に、そのような不確かな認識が処罰にとって十分だとすると、処罰のリスクを回避するためには、犯罪に利用される可能性を除去しない限り商品やサービスの提供を行うことができなくなり、合法的活動に対する大きな萎縮効果が予想され、自由な商業活動に対する過度の制約になる可能性があるからです。

 なお、社会がかかえるリスクを減らすために、危険物を扱う業務にどのような制限(ルール)を課すべきかは別の重要な問題です。この問題については、次の記事が参考になります。

(了)