■はじめに

 9月2日に判決があった池袋暴走事故。事故の悲惨さはもとより、世間の注目を惹いたのは、だれもが犯す可能性のある高齢者の初歩的な運転ミスと、あくまでも自分の無罪を主張する被告人の強い姿勢でした。被告人は最後まで、事故原因としてのエンジンの異常にこだわっていました。

 裁判所は無罪主張の根拠をひとつひとつ検討し、被告人はブレーキとアクセルを踏み間違え、アクセルを踏み続けたと認定できる、としました。個別事案としてみれば、この事実認定は説得的で、反論の余地はないように思えます。

 結果は禁錮5年の実刑でしたが、判決文を読んでひとつ気になったことがあります。

 それは、裁判所が無罪を主張する被告人の態度を、事故に真摯に向き合っておらず、自分の過失に対して心から反省していないと評価し、これを刑罰を重くする要素だとしたことです。(→判決要旨

 素朴に考えて、刑事裁判の場合は、検察官が有罪の立証について全面的に責任を負っており、立証に失敗すれば無罪となります。被告人が検察官の立証に異議をとなえ、立証の論理を崩そうとすることは、正当な行為だといえます。さらにいえば、被告人には憲法上の権利として黙秘権が認められていますので、事件についてかたくなに沈黙を通しても、それは権利の正当な行使というべきです。

 このような意味で、判決文の上記の箇所には違和感を覚えました。そこで、本稿では量刑と呼ばれる、刑罰の種類と量を決定するプロセスについて考えてみたいと思います。

■刑罰はどのようにして決まるのか

量刑とは

 量刑とは、刑法の条文に書かれている法定刑から、被告人に対して具体的に言い渡すべき宣告刑を導き出すプロセスのことです。

 たとえば窃盗罪(刑法235条)ならば「10年以下の懲役又は50万円以下の罰金」というように、選択的に複数の刑罰が書かれ、さらに一定の幅があります(懲役の下限は1月、罰金の下限は1万円)。したがって、被告人に刑罰を言い渡す場合には、その被告人の犯した行為を基礎に、さまざまな個別事情を参照して、具体的に「懲役◯◯年に処する」、あるいは「罰金◯◯円に処する」というように刑罰の種類と程度を決定しなければなりません。このような作業を〈量刑〉といいます。

 本件の場合は、過失運転致死傷罪の「七年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金」の中から、裁判官は最終的に〈5年の禁錮刑〉を選択したわけです。

 宣告刑を導く際に重要なことは、根本において刑罰という制度は何のために存在するのかという問題を抜きに論じることはできないということです。

 現在主流の考え方は、刑罰の本質は過去に行われた犯罪に対する応報、すなわち犯人に対して過去に彼が犯した罪にふさわしい苦痛を加えることによって、その犯罪を清算することだということです。刑罰が歯止めをなくし不必要に乱用されないようにするためには、この応報という観点は堅持しなければなりません。

 そして、この応報の枠内において、被告人の処罰によって社会に同種の事件が起こることを防ぎ(一般予防)、さらに被告人本人に将来犯罪を犯さないように期待する(特別予防)という付随的な効果が追求されます。

 この刑罰の基本的な考え方から、量刑においてどのような事情を参照すべきかは、自ずと方向性は決まってきます。

量刑の基礎となる事実

 量刑の基礎となる事実は情状と呼ばれますが、最高裁は、「刑事裁判における量刑は、被告人の性格、経歴および犯罪の動機、目的、方法等すべての事情を考慮し」て判断する(最高裁昭和41年7月13日判決、同昭和42年7月5日判決)としています。

 しかし、刑罰の基本は被告人が犯した行為そのものに対する責任ですから、一般に情状については、(1)犯罪事実に関する事実(犯情)と、(2)犯罪事実に属さない事実(一般情状)とに分けて議論されます。

 まず、〈犯情〉には、犯罪的エネルギーの大きさに関わる犯罪の動機や計画性、残虐かどうかなどの犯罪の手段・方法結果の重大性社会に与えた衝撃などがあります。これらの事実は、主として犯人の事件を起こしたことに対する責任(応報)と、社会に対する同種の犯罪予防(一般予防)の観点から重要となる事実です。

 次に、〈一般情状〉に関しては、犯人の年齢性格経歴および生育環境、それから犯罪後における犯人の態度などがあります。これらは、主として、被告人自身の再犯予防(特別予防)の観点から重要となる事実になります。

 とくに被害者との間に示談が成立しているとか、心から反省し、被害者に謝罪しているなどの事情は、将来の再犯可能性の評価にとって重要な事実となります。自白も多くの場合、被告人の反省の気持ちからなされることが多いので、有利な事情としてカウントされます。

 しかし逆に、事件を否認しているかどうか、反省の態度が見られないなどは、一般には被告人にとって消極的な評価に結びつくような事実ですが、ここには根本的な問題があります。

■まとめ―事件に向き合わず、反省しない被告人―

反省について

 被告人が反省しているかどうかは、本来、彼が過去に犯した罪じたいには影響はありません。壊した物は復元できませんし、殺した人は生き返りません。反省しているからといって、すでに行ってしまったこの被害に対する責任が単純に軽くなるものでもないし、逆に反省していないからといって、それが重くなるものでもありません。犯した行為に対する責任というものは、かくも厳粛なものだと思います。

 しかし、上述のように、刑罰には将来の再犯防止という機能もあります。被告人が心から反省しているならば、彼には再犯防止という意味では刑罰は軽く働く面があります。その意味では、心から悔悟し、反省しているという事情は、一般情状としてプラスに考慮することは理にかなっています

 しかし、反省という要素をことさら重要視し、反省の見られない態度をマイナスに考慮することは、やはり行為責任の原則からいって問題だと思います。

 さらに刑事裁判で反省という要素を重要視することは、無実の者に対して実刑となるリスクを考えて、無実を主張することをためらわせ、表面的に「反省させる」という危険性も否定できないと思います。

否認について

 自白が反省に動機づけられたものであるなら、それを被告人にとって有利な量刑事情として考慮することができるというのは、ほぼ一致した考え方だと思います。

 しかし、否認しているという事情をマイナスに評価することはやはり基本的な問題を含んでいます。

 上述のように、犯罪の立証責任は検察官にありますから、起訴された犯罪事実を否認したり、証拠に同意せず、検察官の立証に反論することは必ずしも不当な訴訟活動だということにはなりません。

 また黙秘権についても、裁判の冒頭で裁判長から被告人に丁寧に説明される権利ですから、黙秘権の行使をもって被告人が真摯に事件に向き合っていないと評価することはできないと思います。(了)