わいせつ性は、裁判所でどのように判断されてきたのか

■いたずらに性欲を興奮刺激せしめ・・・

戦前の検閲の様子(出典:wiki)
戦前の検閲の様子(出典:wiki)

戦前は、書籍や雑誌等を出版・販売する場合、当時の内務省に対して発売前の納本が義務付けられていて、「検閲」されていました。そして、出版物が「安寧(あんねい)秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱(かいらん)スルモノ」と認められたときには、発売禁止の処分(いわゆる発禁処分)がなされていました(出版法19条、新聞紙法23条)。このため、戦前の大審院(最高裁判所の前身)時代は、わいせつ文書を取り締まる刑法175条は、それほど重要な規定ではなく、わいせつとは何かが正面から大きな議論になることもありませんでした。

戦後になって出版法および新聞紙法が廃止された結果、性的な情報をコントロールする条文として刑法175条の重要性が増すことになり、昭和22年に刑法175条が改正され、従来は罰金刑だけであった法定刑に新たに懲役刑(2年以下)が追加されたのでした。おそらく、事前納本制度が廃止されて、営利目的で行われる同罪の増加、さらに戦後の混乱で性風俗が乱れるのをおそれて、重罰化がなされたのではないかと思われます。

刑法175条に関する戦後最初の最高裁判決は、ある新聞記事について、それが「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ且つ普通人の正常な性的差恥心を害し善良な性的道義観念に反するものと認められる」との理由づけで、わいせつ文書販売罪の成立を肯定した「サンデー娯楽事件判決」(最高裁昭和26年5月10日判決)です。ここで初めて(1)性欲の興奮・刺激、(2)性的羞恥心の侵害、(3)善良な性的道義観念への違反の3点を要件とするわいせつ概念が打ち出されました。この定義は、基本的に大審院時代のそれを踏襲(とうしゅう)していますが、「善良な性的道義観念への違反」が追加されたのは戦後の動きに対応するものであるといえます。

この定義はその後の最高裁に受け継がれており、最高裁の判例は、わいせつ判断の具体的な判断基準・方法をめぐって展開されることになります。

■文芸作品とわいせつ罪

文芸作品がわいせつかどうかが問われた裁判として有名なのが、「チャタレー事件」です。裁判では、D.H.ロレンスの文学作品である「チャタレー夫人の恋人」の翻訳書がわいせつ文書に当たるかどうかが争われましたが、最高裁(昭和32年3月13日判決)は、上記のわいせつの3要件を前提に、わいせつとは、あくまでも法的価値判断であって、文書の芸術的、思想的、科学的等の価値とわいせつ性とは次元を異にし、前者が後者に影響を与えるものではないとしました。そして、わいせつかどうかは社会通念によって判断されるが、「性行為非公然の原則」が「超ゆべからざる限界」であり、当該文書の12箇所の性的場面の描写は「相当大胆、微細、かつ写実的である」からわいせつだと判断し、作品の一部でもわいせつな表現があれば、いかに高度の芸術性を有する作品であってもわいせつ性を失わないとして、表現の自由に対してかなり厳しい態度をとったのでした。その結果、本書は問題部分に伏せ字(「***」)を用いて出版されることになりました。

「チャタレイ夫人の恋人」で有罪判決を言い渡した最高裁大法廷(毎日新聞)

この判決の12年後には、マルキ・ド・サドによる「悪徳の栄え」の翻訳書のわいせつ性が争われます。第1審は、本書で問題となっている叙述は残忍醜悪な表現と一体になって性的な表現がなされているのであり、(一般人の)性欲を興奮または刺激するものではなく、むしろ萎縮させるものであるとし、無罪を言い渡したのに対して、控訴審および最高裁はわいせつ性を肯定しました。ただし、最高裁(昭和44年10月15日判決)は、わいせつ性は、(1)文書全体との関連において判断すべきであること、また(2)文書の芸術性・思想性など肯定的価値が文書のわいせつ性を低減・緩和させる場合があることなどを認めており、「チャタレー事件判決」の方向性が修正されたといえます。ただし、その判断の具体的な内容は明らかにはされていませんでした。

「七万円くらい、何回でも出しますよ」(「悪徳の栄え」を翻訳した澁澤龍彦)

この判決の11年後、わいせつ性の判断基準は、「四畳半襖(ふすま)の下張り事件」において具体的に示されました。これは、「さるところに久しく売家の札斜に張りたる待合。固より横町なれども、其後往来の片側取ひろげになりて、表通の見ゆるやうになりしかば、・・・・・」といった流麗な文章で始まる(永井荷風作と伝えられている)短編小説で、全体の約3分の2が男女の性交場面等の描写を内容とするものでしたが、出版社社長Sと編集に携わっていた人気作家Nがこれを月刊誌『面白半分』に掲載し、販売したところ、刑法175条のわいせつ文書販売罪(現行刑法における「有償頒布罪」)に該当するとして起訴されました。最高裁(昭和55年11月28日判決)は、文書のわいせつ性の判断に当たっては、(1)当該文書の性に関する露骨で詳細な表現の程度とその手法、(2)その表現が文書全体に占める比重、(3)文書に表現された思想等とその表現との関連性、(4)文書の構成や展開、さらには(5)芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、そして、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、(6)主として読者の好色的興味に訴えるものと認められるか否かなどの諸点を総合的に検討すべきであるとして、被告人らを有罪としました。

「四畳半襖の下張り」が掲載された月刊誌「面白半分」(第7号)

その後、本判決と同様の判断方法に従った著名な判決として、(阿部定事件を題材にした)「愛のコリーダ事件判決」(東京高裁昭和57年6月8日判決、無罪・確定)があります。

■わいせつ規制を考えなおすべき

わいせつの判定は、時代と社会によって変化する相対的なものです。ある時代にはわいせつ性があると判断された作品も、時代が変われば芸術性や思想性などの価値が、わいせつ性によって侵害される保護法益よりも大きいと判断されることはよくあることで、実際、無修正の「チャタレー夫人の恋人」も「四畳半襖の下張り」も、現在では紙の書籍や電子書籍として合法的に入手可能となっています。このような移ろいやすい抽象的なモノを刑罰で絶対的に保護しようとすることは、社会でもっとも強力な制裁である刑罰の使い方として妥当かどうかは問題だと思われます。

また、世間では、性器部分等にモザイク処理を施したDVDや写真集が多数出回っていますが、最高裁(昭和58年3月8日判決)は、性器等を黒く塗りつぶして修正してある写真集であっても、その修正の範囲が狭く不十分で、現実の性交等の状況を詳細、露骨かつ具体的に伝える写真を随所に多数含み、物語性や芸術性・思想性など性的刺激を緩和させる要素が全く見当らず、全体として、もっぱら見る者の好色的興味にうつたえると認められる場合には、わいせつであるとしています。性器が見えているということは、本来はわいせつとは直結しないのですが(「文書」も規制対象ですから)、取締りを行う側がいつの頃からか「性器が見えているかどうか」を基準にし、そのことによってモザイク処理した画像や映像が世間に氾濫し、また作り方としても、全体として非常に情緒的に作られるようになり、結果的にわいせつ性が高まっていったと思います。

さらに、問題となった作品と同程度の他の作品が、書店やレンタルビデオ店などで一定期間検挙されずに、多数出回っているような事情があったとしても、裁判所は、そのことからわいせつ性が否定されたり、提供側の犯意が否定されたりする理由とはならないともしています(東京高裁昭和54年6月27日判決)。取り締まる側の判断でわいせつかどうかが決まり、それを検挙するかどうかについても取り締まる側の裁量の余地が大きいものを犯罪として残すことにも問題はあります。

わいせつ性が肯定されると、すべての者に対して当該情報が禁止されますが、インターネットが普及し、日本国内で明らかに違法とされる性情報にも容易に接することが可能となっています。1970年代に刑法の脱道徳化(道徳や美風を守ることは刑法の主たる任務ではないという思想)が強く主張されたことがありましたが、18歳未満の者に対するいわゆる「有害図書規制」(書店やレンタルビデオ店などで、性的に過激な図書やDVDなどを「区分陳列」したりすることによって、未成年者がそのような情報に接することを防ぐ制度)がほとんどの地域で機能している原状をふまえ、情報環境が劇的に変化している現代社会で、旧来通りのわいせつ概念を維持し、適用することについて再検討すべき時期に来ているように思います。

大阪府における「区分陳列の方法等」の例