目指された「リブート」

 5月13日に公開された、樋口真嗣監督の『シン・ウルトラマン』が大ヒットを続けている。初週3日間の興行収入は9億9300万円を記録。コロナ禍から明けつつある映画興行に大きな光を照らしている。

 この作品はタイトルに「シン~」が付くように、『シン・ゴジラ』(2016年)や『シン・エヴァンゲリオン』(2021年)に携わったメンバーを中心に創られている。今作では庵野秀明が企画・脚本を、樋口真嗣が監督を務めている。『シン・ゴジラ』と異なるのは、庵野が総監督を務めていないことだ。また、来年には庵野が監督をする『シン・仮面ライダー』の公開も控えている。

 中年以上では知らぬ者はいない『ウルトラマン』シリーズだが、今作で目指されたのは樋口監督も話すように「リブート(再起動)」だった。アメリカではマーベルを中心に『スパイダーマン』や『バットマン』のリブートはもはや珍しくないが、この「シン~」シリーズは日本が昭和期に大ヒットさせた特撮映画・ドラマを21世紀に新展開させている。

 だが、その内容はどれほど「リブート」と呼ぶにふさわしいのか。

「大人向け」としての再構築

 『シン・ウルトラマン』は、1966~1967年にかけて放送された元祖『ウルトラマン』の要素を多く用いて構成されている。

 宇宙からやってきたウルトラマンが人間に乗り移るという基本設定をはじめ、登場する禍威獣(怪獣)や外星人も過去に見られたものだ。前半に登場する禍威獣は『ウルトラQ』を参照しているなど、そこには創り手の強い思い入れも感じられる。物語は、こうした禍威獣や外星人をめぐる5つのエピソードで構成される。

 だがそれよりも大きな変更が加えられているのは、人間側のほうだろう。禍威獣の対応にあたる科学特捜隊は、オレンジ色の制服ではなく黒いスーツを着た政府機関・禍特対(禍威獣特設対策室)となっており、そこにウルトラマンとなる神永新二(斎藤工)や物語の中心となる浅見弘子(長澤まさみ)が在籍している。

 そうした作劇で際立つのは、『シン・ゴジラ』でも見られた政治家や官僚など行政側の描写だ。禍威獣や外星人の対応をめぐって、現場の禍特対は中央政府に翻弄される。行政機関の組織のひとつとして、常に葛藤を抱えている。

 こうした設定は、60年近く前の子ども向け特撮ドラマから現代の大人向け特撮映画に置き換えた際に避けられない翻案だったのかもしれないが、庵野秀明お得意のものでもある。『シン・ゴジラ』のヒット要因のひとつは、日本型組織のいざこざ描写を軸に大人向け作品に振り切った点にあるが、『シン・ウルトラマン』でもそれは踏襲されている。

 とくに映画の後半は、知性を持った外星人との外交的な駆け引きが中心となる。それは「大人向け」として今作を構築した結果とも言えるし、『シン・ゴジラ』との差別化とも言えるだろう。

『ウルトラマン』シリーズの大きな飛躍

 この作品でもっとも力が入っているのは、やはりウルトラマンと禍威獣や外星人との戦闘シーンだ。

 『シン・ゴジラ』のスタッフによってVFXで創られたそのクオリティは、過去の『ウルトラマン』シリーズの印象を残しつつ、しかしリアリティラインを壊さずにダイナミックな表現となっている。それは『ゴジラ』同様になかなか再浮上できなかった『ウルトラマン』にとって、大きな飛躍となったのは間違いない。

 振り返れば70年代後半以降に『ウルトラマン』シリーズの人気が低迷した最大の要因は、日本の特撮技術がハリウッドに追い抜かれたからだった。ともに1977年公開の『スター・ウォーズ』や『未知との遭遇』などジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグによるVFXは、日本のみならず全世界のひとびとの観賞眼をアップデートした。

 円谷プロをはじめ日本の特撮もそれに対抗すべく奮闘するが、1984年公開の『さよならジュピター』など失敗を重ね続けた。1970年前後には世界トップ水準にあったにもかかわらず、あっという間にグローバルなプレゼンスを失った。金子修介監督の平成『ガメラ』シリーズなど、ときおり傑作は誕生するものの『ウルトラマン』シリーズに目覚ましい飛躍は見られなかった。

 そうした過去を踏まえると、この『シン・ウルトラマン』はVFX/特撮の点で大きなメルクマールとなることは確実だ。

金城哲夫や上原正三の「虫の視点」

 だが、作品全体の印象は「忙しない」ということに尽きる。

 5つのエピソードは、視聴者に考える余地を与えないほどのかなり速いテンポで進んでいく。まるでダイジェストを観ているような印象すら受ける。2時間半の尺から30分カットしたのかと思うほどだ(そういえば、むかしはテレビ放送の『ウルトラマン』シリーズの総集編映画が多く公開されていたが、あんな雰囲気すらある)。

 また、登場人物の心理的な葛藤は描きこまれることなく、全員がまるでゲームのNPC(ノン・プレイヤー・キャラクターズ)のような平板さだ。物語は長澤まさみ演じる浅見を中心に進み、斎藤工演じる神永の存在感はとても薄く、そもそもウルトラマンのシーンが多いので出演時間が多くない。

 そしてなにより、この映画にはオリジナルの『ウルトラマン』では色濃く描かれている、子どもたちや庶民の姿はない。話は常に「鳥の視点」であり、「虫の視点」ではない。

 広く知られているように、『ウルトラマン』シリーズの初期を支えたのは、沖縄出身の金城哲夫や上原正三による脚本だった。当時は政治の季節であり、同時に沖縄の日本返還前でもあった。マージナルな立場に置かれていた金城や上原は、登場する子どもや怪獣を通して自身のさまざまな思いを描いていた。とくにそれが濃密なのは、視聴率的には振るわなかった『ウルトラセブン』だ。

 金城や上原の切り口は、簡潔にまとめると個人に対するミクロの視点だ。それは30分枠という制約で生じたものでもあるが、その小さなまなざしを描きこむことによって視聴者にマクロ(社会全体)を想起させる構造を採っていた。

 『シン・ウルトラマン』のアプローチは、完全にその逆だ。行政=マクロの視点を中心に、とにかく話が大きい。庶民は背景として扱われるどころかほとんど描かれず、政治に翻弄されるのも組織であってけっして個人ではない。だからこそ、終盤に挿入される「平凡な日常を送る庶民」といった風景描写が、とってつけたようにしか感じられない。

 もちろんそれは『忠臣蔵』や『半沢直樹』、そして『シン・ゴジラ』など、組織の存在の自明性を疑わずにその政治劇を大好物としてきた中高年(とくに男性)にとっては垂涎のものだろう。そしてその保守的な「大人向け」のアプローチは、社会のアップデートを怠って停滞し続けてきた日本では興行的に大正解ということになった。

「二次創作」のブロックバスター

 だが、果たしてそれは樋口監督が目指した「リブート」と呼ぶにふさわしいものだったのか。

 もちろん「リブート」をどう定義するかはひとそれぞれだが、マーベル・ユニバースが長い時間をかけながら現代に合わせてアップデートを入念にしてきたのに対し、前述したように『シン・ウルトラマン』はオッサン臭漂う政治劇の延長線上にしかない。

 そもそも元祖『ウルトラマン』が描いてきたのは、大人や既存社会への対抗でもあった。当時は戦争の記憶もまだ新しく、公害が大きな社会問題となっていた時代でもある。

 それを踏まえれば、『シン・ウルトラマン』で描かれるマクロ一辺倒の描写からはそうした批評性が極めて脱臭化された、とても保守的な作品だったと言わざるをえない。思想的には後退でしかないその姿勢は、果たして「リブート(再起動)」と呼ぶにふさわしいのか。

 むしろこの作品から感じるのは、強烈な「二次創作」感だ。

 ファンダムによって醸成されたこの文化は、マンガ・アニメの拡大に大きな役割を果たしてきたが、『シン・ウルトラマン』は多額の予算でファンが二次創作をやっているように感じられる。そしてそれは、庵野秀明がアマチュア時代の1983年にパロディ作品『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』の主演を務めたことを踏まえれば、もしかしたら満願成就なのかもしれない。

 オリジナルからの要素が盛り込まれていることもあり、間口もそれほど広くない。かなりハイコンテクストな作品と言える。あの強いダイジェスト感も、オリジナルを踏まえるからこそ成立する。

 おそらく、元祖『ウルトラマン』に思い入れのない若者にとっては、アクションシーンを除けばそれほど楽しめるものにはなっていないだろう。もちろんそれでも大ヒットするのは、それほどオリジナルが大きな広がりを見せていることの反映ではあるが。

 よって良し悪しはともかく、『シン・ウルトラマン』はやはり「リブート」というよりも「二次創作」と呼ぶのが適切だ。この作品の評価が割れているのも、このどちらを期待するかによるものなのだろう。

 「リブート」を期待するひとは満足せず、「二次創作」を期待するひとは満足する──そういうことだ。