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コービーのライバルをクローズアップ ~3ポインター、レイ・アレン~

林壮一ノンフィクションライター
シューティングガードとして競い合った2人(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 2008年、ボストン・セルティックスは4勝2敗でロスアンジェルス・レイカースを下して、NBA王者となった。2年後のFINALは同一カードで、レイカースがリベンジを果たすが、この年はセルティックスに軍配が上がった。コービー・ブライアントと同じシューティングガードをセルティックスで務めたのが、レイ・アレンである。

 特に優勝を決めた6月17日の第6戦で、アレンは7本の3ポイントシュートを決め、131-92で圧勝。その3ポイントシュートの正確さはボストンファンに至福の時を与えた。このシーズンのアレンは、コービーから主役の座を奪った。

 彼は2010年に、2日に亘って私のインタビューに応じてくれた。

 

 アレンは1975年7月20日にアメリカ空軍基地で産声を上げている。両親揃って軍人だった。空軍はおよそ3年で転属になるため、一家はドイツ、イギリス、米国内のオクラホマ、カリフォルニア、サウス・キャロライナなどの基地を移り歩く。

 父親は空軍内で溶接のスペシャリストと呼ばれていた。母親はアーカンソーの綿花畑で泥まみれになって働く幼少期を過ごしている。彼女が空軍を選んだ理由は、外の世界を覗いてみたかったからだ。

 5人きょうだいの3番目だったアレンは、基地内でバスケットボールと出会い、腕を磨いた。自分の才能を自覚したのは9歳の時。母は、アレンが最初のゲームに出場した直後にボールをプレゼントし、言った。

 「いつも頭を使ってプレーしなさい。考えながらやる事が大事よ」

 翌年から彼は地域のバスケチームに入る。他にも様々な競技にトライした。

 「フットボール、サッカー、ベースボール、テーブルテニス、ビリヤード等に熱を入れた。全て、こなせた記憶がある。バスケットボールを選んだのは、自信が持てたから。僕のプレーを見る人々が、最も笑顔になるのがバスケだったんだ」

 高校に入学する頃には全米で指折りの選手に成長し、サウス・キャロライナ最強チームのエースとなる。コネチカット大に進学すると、さらに存在を輝かせるようになった。

 「バスケットボール選手として成功したいなら、毎日、何かのスポーツで汗を流すべきだね。バスケ以外の経験も大事だよ。フットボールなら当たりに強くなるし、フットワークも身につく。サッカーなら視野が広がる。それが、後にバスケットコートで生きるんだ。色んな可能性が出てくるよ。

 でもね、もし今日、素晴らしいプレーが出来たとしても満足してはいけない。明日はまた別の日だから。明日は明日で、精一杯プレーしなければいけないんだ。毎日ベストを尽くすことの積み重ねが、選手としての自己を成長させる。40得点出来る日もあれば、12点しか入らない日もある。選手なら誰だってそういうことを味わうものさ。苦しい時こそチームを信じ、自分はチームのパーツの一つであることを理解して勝利に貢献する術を捜す。僕はそうやって現役を続けている。ベンチにいたって仕事はあるからね」

 1996年にNBA入りし、ミルウォーキー・バックスに入団。翌シーズンにスパイク・リーにより、映画『He Got Game』の準主役に抜擢される。シーズンオフには、カメラの前で演技をすることも経験した。主役はデンゼル・ワシントンだった。

 「ムービービジネスの制作において大事なことは、忍耐だって学んだよ。長時間座って自分の出番を待つでしょう。我慢したよね。デンゼル、スパイクといった映画界のトップと仕事が出来たことは財産だし、色々な人に支えられた。黒人社会が抱える問題にメスを入れたスパイクの視点、デンゼルの演技、カメラワーク、演出、それぞれが素晴らしかった。

 僕はプロのアスリートだから、映画で注目された分、コートでそれ以上の働きをしなければならなくなった」

 アレンは非常に物腰の柔らかい男だった。スパイク・リーはそんな人柄を見込んだのだろうと感じさせた。

 「スポーツをやっていれば、負けが続くこともある。でも、次の日はより良いチームになれるように、進歩できるようにと、常に挑戦している。バスケットボールで一番大切なものはチームワークさ。喜びも哀しみも、シェアする気持ちを忘れてはならない」

撮影:著者
撮影:著者

 セルティックスで5シーズン緑のユニフォームを纏った後、「BIG3」と謳われたレブロン・ジェームス、ドウェイン・ウェイド、クリス・ボッシュhttps://news.yahoo.co.jp/byline/soichihayashisr/20191008-00145615/らの活躍で前年に優勝を飾ったマイアミ・ヒートに移籍。いぶし銀のスリーポインターとしてヒートの2連覇に貢献した。

 が、翌季(2013-2014)はレギュラーシーズン73試合にプレーするなか、先発は9試合のみと後進に道を譲る形となり、コートを離れた。

 コービーの死を知ったアレンは、次のように述べた。

 「様々な感情が交差し、非常に心が痛む。もう、コービーはいないんだという現実に打ちのめされている。彼は僕にとって兄弟の一人だった。あんな素晴らしい男を失って、哀しくてやりきれない。

 コービーは究極の闘士で、僕はそんな彼が好きだった。彼はバスケットボールのレベルを上げたよね。もっと彼との時間を共有したかった。今は感謝しかない。常にベストを尽くした君に、見事なパフォーマンスを見せ続けた君に、本当にありがとうと告げたい。淋しいよ」

 今日、アメリカ社会、そしてバスケットボール界は、失った人の大きさを噛み締めている。

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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