村田諒太の大きなアドバンテージ
村田諒太とアッサン・エンダムのリターンマッチが迫って来た。村田のコーナーにはメキシコで名を上げた、田中繊大トレーナーがいる。彼はマルコ・アントニオ・バレラの参謀として、数々の世界戦を経験した。そのキャリアは村田にとって非常に心強いであろう。
田中トレーナーの転機となった、16年半前の一戦を再録でお届けしたい。
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第6ラウンド開始から約50秒が過ぎた頃、“プリンス”ナジーム・ハメドはオーソドックスにスイッチした。そして右ストレート、左フックを放つが、マルコ・アントニオ・バレラを捉えることは叶わない。
この時、リング下から戦況を見つめていたバレラのトレーナー、田中繊大は、「自分の首を絞めるようなことをしてくれて、よほど焦っているのだろう」とほくそ笑んだ。
2001年4月7日、ラスベガス、MGMグランドガーデン・アリーナで行われたIBO世界フェザー級王座決定戦は、下馬評を覆し、バレラの一方的な展開で進んだ。
サウスポーであるハメドは、相手を攪乱させる手段として、しばしば右構えにスイッチする。こうした動きに加え、まるで、ダンスを踊るかのようなステップでリングを動き、ノーガードからモーションのないピンポイントパンチで相手をキャンバスに沈める様は、従来のボクシングセオリーからまるでかけ離れたものだった。ハメドとは、他者には決して真似ることのできない、“魅せる”スタイルで、革命を起こした選手であった。
一方のバレラは、1階級下のWBOタイトル保持者。96年11月に、同タイトルをKOに近い内容(実際はセコンドがリングに飛び込み、失格負け)で一度手放しており、フェザー級で闘うのはプロ生活12年目にして初めてということからも、劣勢を予想された。
だが、トリッキーな動きの筈であるハメドのスイッチが、今夜に限っては、苦し紛れの行為でしかないことは、誰の目にも明らかだった。変幻自在と呼ばれ、35戦全勝31KOを飾ったハメドのボクシングは、正統派のメキシカンファイターによって完全に封じられていた。
「ハメドはハードパンチャーですから、それを喰わないポジションを取ることが課題でした。『クリーンヒットしても欲を出して突っ込むな。くっつくか、離れるかして焦らせ。3ラウンドまで落ち着いてやれば、リズムに乗れるから』と指示しました」
バレラは田中のアドバイスを忠実に守り、ハメドの懐に入ってパンチを当てると、すかさず距離を取った。ショートパンチが苦手なプリンスに対する戦法だった。
「あそこまで完璧にハメドのスタイルを殺せるとは思わなかったけれど、こちらはペースをつかみましたから、流れを変えるのは難しかったでしょうね。それでも、ハメドの一発を警戒して、深追いはするなと言い続けました」
奇を衒(てら)ったスイッチも効果はなく、終盤に向かうにつれ、ハメドは成す術を失う。再三、飛び込みながらの右フックを試みるが、簡単に躱(かわ)されてしまう。何度かワンツーをヒットさせはしたが、バレラは「もっと打ってこい」とアピールし、左右のボディブローを随所に決めた。
「ハメドはスウェーでパンチを避けますから、ボディーが有効だったんです。これまでの対戦者も皆同じことを考えたと思いますが、プレッシャーで入れなかったんでしょうね」
バレラは、仮想ハメドとして本田秀伸(WBA/WBC世界ライトフライ級2位)を日本から呼び寄せ、6週間で約60ラウンドに及ぶスパーリングをこなした。その成果を遺憾なく発揮し、“プリンス神話”を粉砕したのだ。3-0の判定勝ちだった。
「プリンスはプリンス、でも、今の俺はキングだ」
『童顔の殺し屋』というニックネームを持つメキシコの人気チャンプは、試合後の記者会見で相好を崩しながら語った。
昨年2月、WBC王者エリック・モラレスとの統一戦において、疑惑の判定で敗れたバレラは、胸のつかえを下し、世界的スターとなった。その彼を支えたのは、紛れもなく日本人トレーナーだったのである。
「人生最大の喜びです」
祝勝会で、田中は飲めない酒を浴びるほど飲んだ。その目には、涙が光っていた。
初出 『Sports Graphic Number』(文藝春秋)521号
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22日、田中繊大トレーナーは、村田諒太にどんな言葉をかけるのか。村田の意地に注目だ!