アルゼンチン人コーチが語る「日本人選手に欠けているもの」

インタビューに応じてくれたセルシオ氏

「おおっナイス!!」

「いいねぇ」

「よし! シュートを決めた人から上がってグラセン」

20時52分。さいたま市内にある某高校のグラウンドには夜間照明が灯り、30名足らずの中学生がサッカーボールを追いかけていた。グラウンドの中央には、紺色のトレーニングシャツに身を包んだアルゼンチン人コーチの姿があった。

”グラセン”とは、「グラウンド整備」の略である。このアルゼンチン人コーチは、流暢な日本語を話す。一つ一つの言葉に、南米人特有の陽気さを感じる。

彼の指導を受ける中学生たちの表情も、皆、明るい。彼らは練習前、スマートフォン等で「『こんばんは』は、ブエノス・タルデスっていうのか」などと語り合い、スペイン語への学習意欲を見せていた。

アルゼンチン人コーチの名は、セルヒオ・エスクデロ。Jリーグ元年に兄のピチ・エスクデロと共に来日し、引退後も日本に留まって指導者の道を歩んでいる。2007年には日本国籍も取得した。

「1964年2月10日にコリエンテス県のパソデロスリベレスという村で生まれました。アルゼンチンの北部、ブラジルとの国境付近です。僕は4人兄弟の末っ子なんですよ。3番目の兄と僕は双子です」

母は専業主婦、父は軍人だった。父親はアマチュアのトップ選手で、軍隊代表のエースストライカーだった。アルゼンチンの1部リーグ、サンロレンソやエストゥディアンテスから「プロ選手として契約しないか?」と打診されたが、軍人としての任務を貫いた。その父が庭に練習用コートを作り、4人の息子たちにサッカーを教えた。

「生後まもなく、アルゼンチン南部のチューブットに引っ越しました。雪の多い土地でしたが、父が作ってくれたコートで、来る日も来る日も、ドリブル、シュート、ジャンピングトラップ、ダイビングヘッドなんかを練習しましたね。父のような選手になるのが夢でした」

父は転勤が多かった。セルヒオが7歳の時、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに移り住む。当地で6人制サッカー<Baby Football>を始め、2年後にプロチーム「チャカリタ」の下部組織に入団した。

「チャカリタには2番目のお兄さんも在籍していて、大活躍でした」

次兄ピチは、後にワールドユース東京大会(1979年)でディエゴ・マラドーナと共に世界一となるが、既に頭角を表していた。

「僕も9歳からチャカリタに入って、7年間在籍しました。トップチームに昇格したのは1980年です。同じ年の選手30名のうち、プロ契約出来たのはたった2名でした。そのくらいアルゼンチンの競争は厳しいです。とはいえ、チャカリタは当時、アルゼンチンの3部リーグでした。翌年2部に上がって、3年目は1部リーグに上がったんです。僕はずっとFWで、センターも両サイドのウイングも全部やりました」 

セルヒオは16歳でトップチームと契約した折、“プロ”というものを叩き込まれている。

「よく『ピッチの上は戦争だ』って言うでしょう。本当にそうなんです。プロになって最初の合宿は15日間ものスケジュールが組まれ、ひたすら走りでした。冗談じゃない世界でしたよ。朝6時に起床し、10キロ走って、次に浜辺を走って、昼寝をして、また走り……。軍隊みたいでした。自分には技術がないと感じていましたから、走りでは絶対に1位になろうと頑張りましたね。トラップ、ドリブル、リフティングも、人の2倍、3倍の練習をこなしました」

幼少期の個人練習は双子の兄と共に行うことが多かった。セルヒオは、自分の才能は双子の兄に劣っていると感じていたため、より真剣に取り組んだ。その結果、プロへの道をこじ開けたのだ。

「マラドーナみたいに、生まれつき何でもできる人もいます。でも、それはほんのひと握り。神様から選ばれた人だけですよ。努力しなければ、絶対に本物にはなれません。プロサッカー選手になれても、生き残るのは非常に難しい」

チャカリタの後はボリビア1部リーグのデイストロング、スペイン2部のグラナーダ、そして浦和レッズで過ごし、セルヒオはプロのキャリアを終える。

「20歳の時に結婚して娘と息子を授かりました。家族のためにも、契約を更新しなければいけなかった」

月並みだが、セルヒオの選手生活を支えていたものとは、「努力」の2文字である。競争に打ち克つ折に最も武器になるものとして、彼が挙げたのもこの言葉である。

その姿勢は、指導者となってからも変わらない。セルヒオの発する高いレベルの日本語が、全てを物語っているように聞こえた。

「レッズ時代はずっとサテライトだったので通訳もいなくて、自分でマスターするしかありませんでした。もちろん、語学学校には通いましたよ。引退後、コーチになった時に『変な日本語』って笑われるのも嫌だったので、必死で勉強しました」

サッカー大国アルゼンチンからやってきた彼が、今、日本の若い選手に伝えたいこととは、「ピッチ=戦争である」ことに尽きる。

「日本人とアルゼンチン人ではハングリーさが違います。日本人は綺麗にプレーしようとし過ぎですね。もっと、『闘うんだ』という激しさが必要です。サッカーはボディコンタクトのある男のスポーツですから、本気で闘っていかないと。アルゼンチンでは『相手の心臓をえぐるつもりでプレスをかけろ!』と教えられて来たし、それができないとプロにはなれません。綺麗なだけじゃ勝てないんです」

セルヒオは埼玉栄高校サッカー部のコーチを2年、総監督を8年務めた。その間、「ピッチ上の戦争」を味わわせるため、何度か母国に遠征した。

「もっともっと、闘える選手を育てたい。相手を尊敬したうえで、戦争の意味を理解させたいですね」

そう語るセルヒオは現在、ロクFCのコーチとして小中学生を育成している。