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【難民鎖国ニッポン】あるアフガニスタン難民の死、送還されたクルド難民―この20年をふり返る

志葉玲フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)
東京入管前で抗議する難民認定申請者とその支援者達 筆者撮影

 迫害から逃れてきた難民や、日本に家族がいる等、帰国できない事情を抱えた外国人達を、法務省・入管庁が強制送還しようとしたり、その収容施設に長期収容している問題は、日本における最悪の人権侵害の一つだろう。私自身も日本の入管行政によって難民の人々が不当に傷つけられ、時には命をも失ってきたのを、目の当たりにしてきた。これは既に国際問題でもあり、法務省・入管庁は、この10年程の間に、国連の人権関連の各委員会から度重なる是正勧告を受けてきし、ついには国連人権理事会の恣意的拘禁作業部会から、難民申請者2名の長期拘束について、「国際人権規約に反する」と、極めて厳しい指摘を受けた。

 まさに、日本の難民認定審査制度や入管行政そのものが問い直されているのだが、法務省・入管には、その反省はまるで無いようだ。今月19日に閣議決定され、今国会で審議される入管法の「改正案」は、送還を拒む個人に対して刑罰を科す、難民認定申請者であっても送還できる例外規定を新設する(*難民条約違反である)といった、さらなる人権侵害につながる恐れがある法案だ。この法案では、認定率0.5%前後という、他の先進諸国と比較して桁違いに低い難民認定審査や日本人と結婚していても認められないないことも多々ある在留特別許可などの入管行政の問題点については、何の改善も期待できないものである。

 一方、立憲民主党や共産党などの野党は有志の議員達が、入管法の真の改正案としての対案をまとめており、その内容は上記してきたような問題を解決するだろう、非常に画期的な内容だ。私は、2002年にジャーナリストとしての活動を開始してから、イラクやパレスチナなどの紛争や環境問題についての取材をしながら、入管問題についても、断続的ながらも取材してきた。その20年近い経験の中でも、法務省・入管側と、野党側が双方、入管法の改定の案(しかもその方向性は180度違うと言ってもよいものだ)を出してきているという状況は、そうそう無いことであり、今回の野党案の先駆性から考えれば、かつてない局面だとも言える。その詳しい内容については、今後、記事の中でまとめていくつもりではあるが、入管問題を解決できるか否かという正念場を迎える中、私自身が初心に帰るべく、初期の取材をふり返っていこうと思う。

 以下は、2000年代の志葉の著書やコラムから抜粋し、プライバシー配慮等から若干の修正を加えたものである。

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 人々が迫害に怯えるのは、紛争地だけではない。戦争放棄をうたった平和憲法を持つ日本ですらも、戦乱が続く故郷、軍政による弾圧から逃れて来た人々にとっては安住の地ではないのだ。その事を思い知らされた私は、平和とは何か、戦争とは何かを考え出す。私がフリーのジャーナリストとしての道を歩みだす過程で、大きな影響を与えたのは、ある難民との出会いだった。

○あるビルマ難民との出会い

 あれは、私が大学生だった頃。知人から勧められた、とある勉強会で、私は軍事政権下のビルマ(ミャンマー)から逃げてきた難民に出会った。ぱっちりと大きな目をした彼女―スースー(仮名)はビルマ舞踊の踊り手で、その華麗な舞に私はすっかり魅せられてしまった。私は、その後もしばしばスースーと会った。話したことといえば、たわいもないことばかり。彼女は、まだ幼い頃に来日したため日本語が上手く、いつも冗談ばかり言い、よく笑った。

 だが、ある日、彼女が「不法滞在者」として入管から出頭を命じられた。私は焦った。なぜなら、最悪、圧制と拷問が待つ祖国に送還されてしまうかもしれないからだ。国際的な人権団体アムネスティ・インターナショナルが毎年発行する人権レポートで、ビルマにおける軍事政権の人権侵害が報告されないことはない。アウンサンスーチーさん率いる政党NLD(国民民主連盟)が大勝した1988年の選挙後、大規模な弾圧が始まり、軍事政権は民主化活動家達を片端から、刑務所に放り込み、残虐な拷問にかけてきた。また、地方の少数民族は国軍による虐殺、レイプ、強制労働など、ありとあらゆる迫害を日常的に受けているのだ。知らせを聞いて、私はスースーに会いにいった。彼女はいつもの明るい笑顔を作ろうとしていたが、その時は寂しげに微笑むのがやっとだった。そして「わたし、どっかいっちゃうかもね」とスースーはつぶやいた。後になって、彼女がビルマにいた時、村で虐殺があったこと、彼女の親戚も全身に銃弾を受け、蜂の巣のようになって死んだことを知った。

 強制送還されないまでも、このままでは入管の収容所に拘束される恐れがある。それだけでも、深刻な事態だ。入管の収容所内では、いつまで拘禁されているのかという不安や、理不尽な扱いを受けているというストレスから、被収容者の自殺未遂が毎年のように起き、実際に手遅れとなってしまったケースもある。体調の不調を訴えても、ロクな医療を受けられず、無視されることも多い。さらには、警備官による殴る蹴るの暴力、セクハラや性暴力まで行われているという報告もある。もし、か弱い友人が収容所に送られたら・・・と想像するだけで恐ろしかった。

 何かにつけて「国際貢献」などと日本の政府の連中は言うが、それなら、なぜ救いを求めて日本に逃げて来た難民たちを拒絶するのか。日本は難民条約を批准している。難民を助ける義務があるのに、実際には助けるどころか、さらなる苦しみを味あわせているのだ。しかも、日本政府は2003年5月末まで、ビルマへのODA(政府開発援助)を続け、事実上、ミャンマー軍事政権を支援してきた。もちろん、日本のゼネコンや商社も事業にありついたことは言うまでもない。この時、私は悟った。日本は平和国家ではないと。確かに日本で暮らしていて銃撃戦や爆破事件に巻き込まれることはないし、憲法9条もある。だが実際には、日本の政府は国民からの税金をつかって外国での圧制と虐殺に加担してきた。その上、かろうじて逃れてきた難民までも、「入管行政」の名の下に迫害しているのだ。

 多くの国民が事実を知らないし、知ろうともしてない。私も自分の友達が危機に陥るまで、何も知らなかった。…いや、本当は知っていたけど、分かっている気になっていたのだろう。情報はあっても何か感じることができなければ、それは意味を持たない。だから政府が何をやっていても止められないし、そもそもそういう気も起こらない。友人の危機にあって、初めて私は自分の無力さに気がついた。

 一時はどうなることか、と思ったが、幸いなことにスースーは弁護士の活躍もあって"在留特別許可"を得て、日本に住み続けられることとなった。だが、あの時以来、私の中で何かが変わった。私は大学を卒業して就職したけれども、仕事に身が入らなくなり、結局、辞めざるを得なくなった。私は、しばらくボーッとしていたが、なけなしの退職金をはたいて、海外放浪の一人旅へ出ることを決めた。この世の中がどうなっているのか、この目で見てみたい。イスラエル、パレスチナ、ジンバブエ、マケドニア、コソボ…私は一年近く旅してまわった。パレスチナのへブロンで宿を貸してくれた学生は、イスラエルの占領への抗議の中で、その体に7つの銃弾を受けていた。アテネの裏通りで会ったアフガニスタン難民は歩いてギリシャまで逃げて来たという。旧ユーゴスラビアのマケドニアで仲良くなったロマ(ジプシー)の青年はコソボからの難民だった。NATOの空爆で、セルビア軍から解放されたはずのコソボでは、それまで抑圧されていた多数派のアルバニア人の武装勢力がり、少数派の民族を弾圧し始めた。ロマの青年もそうした「コソボ解放」後の犠牲者の一人だった。どんなに正義だの自由だの大義名分を掲げようと、戦争で苦しみ殺されるのは、いつも最も罪のない弱い存在だ。そうした弱い存在のため、ジャーナリストとして活動していきたい。旅を続ける中、そう思うようになった。

 それから8年後の2007年。ビルマでの民主化を求めるデモの取材中にフリージャーナリストの長井健司さんがミャンマー軍兵士に殺害された。この事件や民主化運動弾圧への抗議として、代々木公園で集会が催され、約600人が集まった。私も同じジャーナリストとして、この集会で発言。軍事政権を批判、民主化支援を訴えた。壇上の私は、集会参加者の中に懐かしい顔を見つける。スースーは微笑んでくれていた。私は一層、思いを込めてスピーチを続けた。

 あれからさらに年月が経ったが、日本の入管行政は相変わらずで、入管の収容所で、難適切な医療措置を受けられなかったために死亡したり、自殺したりするケースが続いている。2019年には長崎県の大村入管に長期収容されていたナイジェリア人男性がハンガーストライキ中に餓死するという事件まで起きた。

 ビルマでは、2011年に民政移管が行われたものの、依然として軍の力は強く、少数民族への迫害、軍事攻撃は続いてきた。2017年には、少数派のイスラム教徒ロヒンギャの人々への苛烈な弾圧が始まり、90万人を超える人々が隣国バングラデシュに避難を余儀なくされた。そして、2021年2月、ミャンマー軍はクーデターを行い、民主化への道に暗雲が立ち込めている。

クーデターへ厳しい対応を取るよう外務省前でアピールする在日ビルマ人の人々 筆者撮影
クーデターへ厳しい対応を取るよう外務省前でアピールする在日ビルマ人の人々 筆者撮影

クーデターへ厳しい対応を取るよう外務省前でアピールする在日ビルマ人の人々 筆者撮影
クーデターへ厳しい対応を取るよう外務省前でアピールする在日ビルマ人の人々 筆者撮影

○あるアフガニスタン難民の死

 日本の難民受け入れについて取材の中で、忘れられない事件がある。2002年5月、名古屋で一人のアフガニスタン人が自室で首を吊った。モフセン・ハリリさん(仮名)、享年28歳。彼は物心がついた時から戦乱が続く祖国を逃れ日本にやってきた難民だった。残された手紙には「この様な行いがよくないことはわかっています。しかし、私の人生にはあまりに困難が多すぎるのです」と書き記されていた。希望を抱いてやってきたはずの日本で、彼は何を見たのか。難民支援関係者から、ハリリさんの自殺を聞いた私は、自殺を禁じるイスラム教の信者である彼が、なぜそこまで追い詰められていたのか、取材を始めることにした。

 ハリリさんはカブールの北、パルワン州の出身で、ハザラ人だった。ハザラ人とは、日本人などに近いモンゴロイド系の民族だが、その昔アフガニスタンに侵攻したチンギス・ハーンの兵隊の子孫だという言い伝えがあることや、同国では少数派のシーア派イスラム教徒であることにより激しい迫害を受けてきた。タリバンは1998年の8月にアフガニスタン北部マザリシャリフで5000から8000人というハザラ人の一般市民を虐殺し、現在のカルザイ政権に多くの閣僚を出している北部同盟も、1993年カブール西部で、たった1日で1000人以上のハザラ人を虐殺した。こうした迫害が続く中、2001年の始め頃、ハリリさんは祖国を後にしたのだった。

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フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)

パレスチナやイラク、ウクライナなどの紛争地での現地取材のほか、脱原発・温暖化対策の取材、入管による在日外国人への人権侵害etcも取材、幅広く活動するジャーナリスト。週刊誌や新聞、通信社などに写真や記事、テレビ局に映像を提供。著書に『ウクライナ危機から問う日本と世界の平和 戦場ジャーナリストの提言』(あけび書房)、『難民鎖国ニッポン』、『13歳からの環境問題』(かもがわ出版)、『たたかう!ジャーナリスト宣言』(社会批評社)、共著に共編著に『イラク戦争を知らない君たちへ』(あけび書房)、『原発依存国家』(扶桑社新書)など。

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