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「娘が帰るまでは死ねない」と言い続けた日野不倫殺人事件・北村有紀恵受刑者の父親の死

篠田博之月刊『創』編集長
北村有紀恵さんが服役している刑務所(筆者撮影)

「娘が帰るまでは生きていなくては」との願いは…

 知人が相次いで亡くなった年末年始、私のもとにもうひとつの訃報が届いていた。1993年12月に起きた日野不倫殺人事件で無期懲役の刑を受けている北村有紀恵受刑者の父親が1月8日、他界したのだった。もちろん私人なので知る人は少ないだろうが、この事件を長年追ってきた者からすると、深刻で社会的な意味を持つ事柄だった。

 最初に知らせてくれたのは、北村有紀恵さんの母親だった。そしてまもなく有紀恵さん本人からも手紙が届いた。亡くなった経緯が詳しく書かれていた。

 父親は享年91歳だったから、大往生と言ってもよいかもしれない。しかし一方で、死んでも死にきれないという想いもあったのではないだろうか。無期懲役の仮釈放によって娘が戻ってくるまでは生きていなければならない。口癖のようにそう言っていた。

 無期懲役の仮釈放に至る受刑期間は、昔は20年と言われていた。しかし、今は約30年と言われている。北村さんの場合、最高裁まで争ったため刑の確定までに7年余を費やした。だから獄中生活はもう30年になるのだが、受刑期間は20年余だ。仮釈放によって娘を家で迎えたいという、父親の強い望みは、かなわぬままとなった。

 2020年末に父親は脳梗塞で倒れ、さらに翌年、自宅で転倒して入院した。その後、父親は圧迫骨折で再入院、腸の炎症でまた入院といった状態が続き、施設に入っていた。コロナ禍で面会も自由にはできないようで、私が面会を申し出てもかなわなかった。ただ、施設では父親はリハビリにも積極的に取り組み、食事もきちんととる生活だったという。

 今年に入ってからの経緯を、有紀恵さんは手紙でこう書いていた。

「1月2日、発熱。ドクターに診ていただき、点滴をしていると施設から連絡があり、翌日は回復したのですが、1月4日急変。酸素濃度低く、救急で入院。腸閉塞だったそうです。そして1月8日、逝ってしまいました」

「私が知ったのは1月10日です。朝会の後、しばらくして主任に呼ばれ、別室で母からの電報を交付されました。電報は前日(祝日で休み)に届いていたのでしょう。その場で『服喪』をするか否かを訊かれ、希望し3日間、独居で過ごしました」

 そしてこう書いていた。

「ずっと帰って親孝行を少しでもすることを願ってきましたが、叶わぬこととなりました。父を死なせたのは、と言うか、このような死なせ方をしたのは、私だと思っています」

 さらにこう自分を責めていた。

「二人を死なせた私が、父のことをこんなふうに書いてすみません。申し訳ないです」

 事件で死なせた2人の子どものことを有紀恵さんは獄中でも思い続けてきた。裁判で最高裁まで争ったのは、死なせた子どもたちに対して殺意があったかのような認定に納得できなかったからだ。しかし、意図せざる結果としてそうなったとはいえ、何の罪もない子ども2人を死に追いやったことは、取り返しのつかない悲惨なことで、有紀恵さんは中絶によって死なせた自分の子どもへの罪とともに、死刑になっても当然だと思い続けてきた。

 この事件をヒントに書かれた小説が角田光代さんの『八日目の蝉』だが、映画化もされ、ミリオンセラーとなっている。私もこの事件についてはもう何度も記事にしているが、そのたびに大きな反響を呼んだ。女性の問題を含め、考えさせる事柄をたくさん含んだ事件だからである。

 有紀恵さん本人だけでなく、両親もまた、娘の犯した罪を家族全員で償うために、事件の起きた後の人生を贖罪に費やしてきたと言っても過言ではない。事件以降、被害者家族はもちろんだが、加害者家族も苦しい状況に追い込まれたのだった。

無期懲役が終身刑化しているという現実

 私は有紀恵さんが未決囚だった時期から文通や面会を行い、家族とも関わってきた。何とか仮釈放をという家族や知人の思いを受けて、元法務省保護局長でもある古畑恒雄弁護士のもとを父親と一緒に訪ね、現在、古畑弁護士は有紀恵さんの代理人を務めている。無期懲役が事実上終身刑化して、仮釈放の本来の意味が失われているという現実を変えるために、古畑さんは以前から取り組んできた。その古畑さんのインタビューは、この記事の最後に掲載した。

 無期懲役とは文字通り、刑期に終わりがない懲役だ。ただ仮釈放という制度があって、罪の償いの状況によっては市民社会に復帰することができる。人間は罪を犯したとしても、それと向き合うことで変わり得る、しかも社会復帰という望みがあるからこそ積極的にそうしようという気持ちも起きる。もちろん刑は続くから保護観察を受けたままなのだが、刑務所を出られるというのは大きなことだ。

 その意味で仮釈放というのは意義深い制度なのだが、有期刑の最高が厳罰化によって懲役30年になったことを受けて、仮釈放までの平均受刑期間は30年を超えてしまった。獄中で亡くなる人も多く、無期懲役の終身刑化と指摘されている。この問題については、もっと大きな議論や取り組みがなされるべきだと思う。

 事件の詳しい説明に入る前に、父の死を受けて有紀恵さんが獄中で詠んだ俳句が古畑弁護士に感銘を与えたというので、ここでそれを紹介させていただく。古畑弁護士自身、俳句には以前から取り組んでいるのだが、その古畑さん自身がすばらしいという俳句だ。スペースの都合でここでは半分だけ紹介する。

●父を偲ぶ  北村有紀恵

 電報の四文字ヒーターの音ばかり

 父の訃を知らずおでんを食べていた

 父案ず最期まで獄の寒さを

 父逝けり寒満月に呼ばれしか

 これよりは父殺しなり寒の月

 寒満月一人で橋を渡る旅

 父逝くにかなひし時や寒満月

 マスクしてしばし思ひのまま泣けり

 服喪明け寒き者らの中に入る

 遺されて母の水屋の水仙花

 遺されし大きな椅子に冬眠す

 どこまでも父は父なり大榾火

 誰よりも父に愛され冬苺

日野不倫殺人事件の悲惨な結末

 もうだいぶ前の事件なので、ここで以前書いた記事をもとに経緯を改めて書いておこう。

 北村有紀恵さんが逮捕されたのは1994年のことだった。都内下町に一軒家を構える北村家に2月5日、突然警察が訪れた。

 対応した父親は話を聞いて仰天した。大学を卒業して大手メーカーに就職し、都下の日野市で一人暮らしを始めた娘・有紀恵さんに、殺人放火の容疑がかかっているというのだった。前年12月14日に日野市で発生した事件だったが、もう2カ月前のことで、あまり覚えてもいなかった。

 家族はそのまま警察と一緒に娘のアパートへ車を走らせた。そして話をしたところ、有紀恵さんは、自分が犯人であることを認めたのだった。逮捕された有紀恵さんはもちろんだが、両親と妹の家族3人も、その日から塗炭の苦しみに突き落とされることになった。

 裁判は94年5月13日、東京地裁八王子支部で始まった。そして96年1月に無期懲役の判決が出された。被告は控訴するが、97年に東京高裁で控訴棄却、2001年、最高裁で上告も棄却された。

 娘が逮捕されて大々的な報道が始まってからは、家族は外出もままならないような生活を余儀なくされた。父親が自宅で経営していた製版所は、閉鎖することになった。娘2人の結婚資金としてためていた財産は、裁判費用や被害者遺族などへの補償にあてられた。火災にあった団地住民へもお詫びと金銭的補償が行われた。

 刑事裁判と別に被害者遺族から民事訴訟も起こされ、1000万円以上を既に納めているのだが、まだ多額の賠償金が残ったままだ。私財を全て投げうっても、十分な補償はできなかった。家計も破たんし、両親はその後の半生を償いのために費やすことになった。

 事件そのものについてもう少し説明しよう。

 有紀恵さんが会社の上司だった高田さん(仮名)と交際を始めたのは1990年頃だった。彼は当時、妻と子どもがいたのだが、2人は深い関係になり、有紀恵さんに、妻と別れて結婚する約束をするまでになった。有紀恵さんは92年、彼の子どもを身ごもったのだが、中絶を余儀なくされる。その後有紀恵さんは93年にも再び妊娠。二度にわたって中絶する結果になって、ひどく傷ついた。

 その93年5月、2人の関係が妻に発覚する。何気なく自宅電話のリダイヤルボタンを押したら知らない女性が出たことに妻は不審を抱き、夫を追及して、不倫の事実を知ることになった。そして、目の前で有紀恵さんに別れを告げる電話をするように夫に迫ったのだった。

 その男性からの電話によって、有紀恵さんは、妻と離婚の話を進めているという男性の言葉が全て嘘だったことを知らされたのだった。

 男性からの別れの電話に有紀恵さんが納得しないでいたところ、妻が電話を代わり、女性ふたりが激しく口論となった。そうした電話での応酬は何度も繰り返され、時には何時間もなされることもあった。

 その電話でのやりとりの中で、有紀恵さんは「あなたは生きている子どもをおなかから平気でかきだすような人だ」と妻に言われショックを受ける。事件の後、犯行に至る動機として有紀恵さんはその言葉を忘れることはできないと証言した。ただ妻は後に、このやりとりをそういう意味では言っていないと説明している。

 修羅場が繰り返されるうちに、高田氏は次第に、有紀恵さんと別れるしかないと思うようになっていった。有紀恵さんは精神的に追いつめられて93年11月、家事調停に踏み切る。そして思いつめるあまり、彼と刺し違えて無理心中しようかなどと考えるようになる。また高田氏の長男が自分が妊娠中絶した子と懐妊の時期が近いことから、自分の子の魂が入っているような気がして、誘拐を考えたこともあったという。小説『八日目の蝉』は、女性が実際に誘拐を敢行したというストーリーのフィクションだ。

死刑になっても当然という深い罪悪感

 高田夫妻の住むアパートの部屋が放火されたのは93年12月14日の早朝だった。有紀恵さんは、妻が夫を駅まで送りに出たのを見届けた後、合鍵を使って侵入。ガソリンをまいて火を放ったのだった。直後に起きた爆発に彼女は吹き飛ばされ、スニーカーを片方現場に残したまま逃走した。高田夫妻の子ども2人が焼死するという凄惨な事件は、こうして起きたのだった。当時、女性週刊誌などには、有紀恵さんが寝ている子どもにもガソリンをまいたという誤った記事も掲載され、彼女をひどく傷つけた。

 裁判が行われていた7年半の間、彼女にはいろいろな人生の転機があった。

 大きな転機は、拘置所でキリスト教に入信したことだった。彼女は信仰について、『創』に掲載した手記にこう書いていた。

《その中で、私はキリスト教に出会いました。そこでも私は、やはり血みどろの戦いをしました。そしてその中で、

 お前には、子供たちのために、何かを願う資格があるのか、

 お前には、子供たちのために、何かをする資格があるのか、

 という問いにぶち当たりました。

 もちろんない。ないのは重々承知でした。けれども、それでも願わずにはおれない。何かをせずにはおれない。問わずにはおれない。それが私の写経であり祈りであり求道でした。

 しかし、ここまで謹厳な、根元的な問いにぶつかった時、私はもう、神の前にひれふすことしかできませんでした。そして神のあわれみにすがるしかありませんでした。そして2年半前、99年のクリスマスに、私は拘置所の面会場で、ガラス越しに洗礼を受けたのです》

家族もその後の人生を贖罪に費やした

 有紀恵さんの家族が八王子の大恩寺を訪れたのは1審の公判が開かれている94年9月だった。高田夫妻の亡くなった子ども2人が納骨されているお寺だった。死なせてしまった子どもたちにお詫びし、冥福を祈ったのだが、母と妹は涙が止まらなかったという。それを見た住職に事情を尋ねられ、「犯人の家族です」と名乗った。

 北村夫妻はその後もお詫びのために何度も同寺を訪れたが、それが高田夫妻の知るところとなって翌年、子どもたちの遺骨は別の場所へ移されてしまう。しかしその後も有紀恵さんの両親はお参りに訪れ、住職がその気持ちに打たれて、有紀恵さんが仮出所したら身元引受人になってもよいと申し出るまでになった。

 両親がお詫びのために足を運んだのはそのお寺だけではない。父親が残した日記ふうのノートから一部を抜粋しよう。

 94年3月23日、佐野大師に参り、有紀恵さんの子どもと被害にあった子どもあわせて4人の冥福を祈る。

 3月29日、正見寺住職に来宅を依頼し法要(以後もたびたび)。

 4月3日、近所の家をお詫びして回る。

 4月5日、町会役員会に出席し、今後も現在地に住むことを許してほしいとお願いする。

 5月13日、第1回公判の後、現場となった団地に赴き、お詫び。

 6月14日、築地本願寺にお詫び祈念。

 その後もお詫びの祈念や法要は続く。9月23日には前述したように、犠牲となった子ども2人が納骨されている大恩寺にお参りした。

 95年6月25日、火災を起こした団地住民に集会所にてお詫び。住民の中には「裁判を傍聴していて涙が出た」と同情的な言葉をかけてくれる人もいた。

 7月10日、弁護士と高田氏の家を訪れお詫びしようとしたが、「帰ってほしい」と言われる。被害者宅へはこの後も何度か訪れるが対応してもらえない。

 その後も有紀恵さんの両親は、都内だけでなく関西など地方も含めて各地のお寺へお詫び行脚を行った。朝晩のお寺や地蔵参りは娘の逮捕後、欠かさず続けてきた。有紀恵さん本人も、前述したようにキリスト教に入信して祈りを行っているほか、作業報奨金の一部を、高田夫妻の代理人弁護士を通じて送っている。

 事件から20年を経た頃から、有紀恵さんの知人の間で、仮釈放を何とかできないだろうかという声が出るようになった。私もそれに協力し、無期懲役の実態や仮釈放についていろいろなことを調べるようになった。前述したように古畑弁護士に代理人になっていただくことになったのは、2017年5月15日、日本弁護士連合会主催のシンポジウム「死刑廃止後の最高刑・代替刑を考える」を聞きにいったのがきっかけだった。古畑弁護士もパネリストのひとりとして発言していた。

 日弁連は死刑廃止問題に長年取り組んできたのだが、死刑を廃止して終身刑を導入するという考え方が議論の俎上に上っている。そんなふうに終身刑を考えることは、同時に現在の無期懲役との区別をどう考えるのかという議論につながってくる。

 仮釈放というのは、物理的な手続きの問題なのではなく、「罪を償う」とはどういうことなのかという洞察をどれだけできるのか、それが刑務所や、さらに「社会」にどのくらい認められるかを抜きにしてはありえないように思う。

 無期懲役の終身刑化という大きな問題について考えることは、「罪を償う」というのはいったいどういうことなのか、考えることでもある。

 以下、今回の北村有紀恵さんの父親の死という事態を受けて古畑弁護士と話したインタビューの中身を掲載しよう。

無期懲役の終身刑化についての古畑恒雄弁護士の話

――無期懲役をめぐる現状、特に仮釈放については、この1~2年で何か動きはありましたか?

古畑 法務省が毎年、「無期刑の執行状況及び無期刑受刑者に係る仮釈放の運用状況について」という報告をホームページに公表していまして、最新のものは昨年11月に出ています。最新と言っても統計の中身は令和3年(2021年)までのものですが、それを見ると相変わらず無期刑受刑者の仮釈放の数は少なくて、令和3年は7名。しかも平均受刑在所期間が32年10カ月ということで、30年を超えています。一方でその1年間に死亡した受刑者が29名と、仮釈放の数倍なんですね。死亡者がいるために、無期懲役受刑者の数は次第に減少していて、一時は1900人近くにまでなった時期があったのですが、令和3年末では1725人になっています。ただ相変わらず1000人台と多いんですね。

古畑恒雄弁護士(筆者撮影)
古畑恒雄弁護士(筆者撮影)

――昔は仮釈放まで15年とか20年と言われた時代がありましたが、今は30年を超えており、終身刑化している現状はあまり変わってないということですか。

古畑 全く変わってないです。一つの長期刑務所で、仮釈放は1年に1人出るかどうかという感じです。しかも刑務所から出る人も高齢で、病気などで服役し続けるのが困難な人を出すというようになっています。仮釈放という制度自体は、教育刑的な理念といいますか、罪を犯した人に社会復帰のセカンドチャンスを与え改善更生を目指すというものですが、それが今はきちんと機能していない。終身刑化の傾向がますます顕著になっているのではないでしょうか。

――有期刑の厳罰化と帳尻を合わせる形で無期懲役が終身刑化しているわけですね。

古畑 2004年に刑法12条が改正になり、有期懲役刑の上限がそれまで15年であったものが20年になり、併合罪を加重すると20年の5割増しの30年まで懲役刑を言い渡せるようになりました。これは大きな変革で、明らかに重罰化の傾向が進んでいるわけです。

 そしてそのような重罰化は、無期懲役の終身刑化をもたらしました。平均受刑在所期間が32年と言っても、これは受刑を開始してからの期間で、その前に裁判の期間があるわけです。過去には最高裁まで10年くらい争う事件が少なくなかったですから、実際には受刑期間プラス10年という拘束期間になり、身柄拘束の期間としてははなはだ長いのが現実です。

 有期刑の長期が30年になったという改正以来、だいたいこういった結果になっています。法務省にも見直しをするような動きは全くないですし、日弁連も今は死刑問題に重点を置いており、無期懲役の終身刑化の問題について、あまり踏み込んだ検討はしていません。

連合赤軍事件の吉野雅邦さんの現状

――古畑さんは、無期懲役囚として北村有紀恵さんともうひとり、連合赤軍事件の吉野雅邦さんにも関わっていますね。

古畑 2022年2月、あさま山荘事件から50年ということで、マスコミも連合赤軍事件について取り上げましたが、逮捕された吉野君は刑が確定してからの受刑が40年を超えています。

――獄中で重い病気になったと言われましたね。

古畑 2021年10月から22年2月まで、昭島市の東日本成人矯正医療センターという、八王子医療刑務所の後身みたいな施設に入っていました。心臓の病気、うっ血性心不全で治療を受けまして、今はかなり良くなりましたが、長い療養のせいか、足もとが覚束ないようです。機敏な動作を取るとその直後ふらふらっとすると言ってました。 

 ただ、昨年マスコミに取り上げられたのをきっかけに、見ず知らずの方からも頑張ってくださいというような手紙が来るようになったそうです。そういう支援者が増えて、随分支えられているようです。

 吉野君は父も母も亡くなりました。2歳上の兄が立川の高齢者施設に入っています。

 彼は千葉刑務所で良い処遇を受けているんです。というのも、吉野君は真面目で純情なんですね。刑務官の人たちも、彼のことを人格者だと言っているくらいで、良くしてくれています。刑務所の運動会や演芸会では彼はリーダー役をしているようです。

 ただ吉野君の場合、連合赤軍の当時のリーダーにマインドコントロールされていたためだと思いますが、1人を傷害致死、16人を殺害した罪ですからね。仮釈放を所管している地方更生保護委員会も心情的には彼に同情はしてくださっていると思いますが、仮釈放に踏み切ることはなかなかできないかもしれません。でも私はそれをやるべきだと思っています。

 吉野君はもし仮釈放で出られたら何をするか、いろいろなことを考えています。陶器を焼く窯を家に置き、喫茶店を開いて起業してみたいというようなことを言っています。彼ならやれると思います。ですが今年の3月でもう75歳。残された期間が短いんですよ。

――北村有紀恵さんについても、両親が健在なうちに仮釈放されるよう尽力してきましたが、先頃父親が亡くなってしまったのは本当に残念ですね。

古畑 彼女の心の支えがいくつかあるんですが、ひとつは俳句なんですね。私も俳句をやっていますので、いわば俳句友だちなんですが、今回、彼女は、父親の死を悼む句を二十数句送ってくれました。彼女の俳句の才能は相当なもので、私は一句一句に感銘を受けました。彼女の現状を考えると、心が痛みます。

 連合赤軍事件でかつて無期懲役を求刑され、判決が懲役20年だった青砥幹夫君という、あさま山荘にたてこもらず軽井沢で捕まった革命戦士がいますが、彼は17~18年で仮釈放になっています。完全に社会復帰して、もう子どもが大学を卒業しており、本当に幸せな人生を送っているんです。

 たぶんその青砥君と同じ時代だったら、北村さんのケースはとうに仮釈放になっていたと思うのです。それが刑事政策が大きく変わってしまうことで全く違った状況になっているというのは、一体どういうことなんだろうと思いますね。彼女も本来なら罪を償い、社会復帰して生きていける人だと思うんですが、本当に残念です。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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