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言論界で貴重な立ち位置だった鈴木邦男さんの死はとても悲しい出来事だ

篠田博之月刊『創』編集長
鈴木邦男さん(筆者撮影)

 1月27日、鈴木邦男さんの訃報に接して衝撃を受けた。鈴木さんの容態がずっと良くないことは知っていたが、まだまだ鈴木さんにはやってほしいことがあるし、日本の言論界に必要な人だと思っていた。

 鈴木さんは1995年から月刊『創』(つくる)に「言論の覚悟」という連載を続けており、そのまま続いていれば間もなく30年になる。それ以前から、皇室タブーの特集などに登場していただいていた。『創』の連載陣は長く執筆している人が多いのだが、鈴木さんはその中でも一番長い。

2019年から体調が悪化

 ただその連載は2020年に中断したまま休載が続いていた。2019年頃から鈴木さんは、原因不明の病気で転倒を繰り返してきた。その後、パーキンソン病らしいと診断されるのだが、体調も悪化し、他の病気を併発することもあった。

例えば2019年12月には新宿のロフトプラスワンで、あいちトリエンナーレ問題を大浦信行さんらと議論するために登壇する予定だった夕方に緊急搬送され、腸閉塞と診断されて手術が行われた。

 手術の後、仕事の合間を縫って病院に見舞いに行ったところ、鈴木さんは最初に「忙しいのにわざわざ来てもらってすみません」とお礼を言った。その時は手術後でベッドに寝たきり。見るからに大変そうだったが、そんな状態でも丁重にお礼を言うところが鈴木さんらしかった。

 その後、一時容態は回復し、2020年に公開された鈴木さんのドキュメンタリー映画『愛国者に気をつけろ!』をめぐっては、ポレポレ東中野での上映後のトークに毎回出席した。その後もインタビューを受けたりすることはあったのだが、多少無理したのがたたったのか再び体調が悪化した。

 電話で話すことは何度かあったが、コロナ禍であることもあって、面会謝絶となった。身の周りの世話をする人が毎日、自宅に来てくれていたが、そのうち電話もなかなか取り次いでもえらえなくなった。鈴木さんは電話がかかってくると出ようとするので、治療に専念すべきという判断がなされたのだろう。

「言論の覚悟」とは鈴木さんの原点だ

 鈴木さんとは本当に長いつきあいなので、『創』次号で追悼特集を組むことになると思うが、鈴木さんはかつての新右翼から、この20年ほどはリベラルに近づき、右翼陣営の一部からは裏切り者などと非難されていた。ただ、30年付き合って思うのだが、恐らく鈴木さんの根本は変わっていないのだと思う。

 それは鈴木さんの好きな「言論の覚悟」という言葉にあらわれている。

 例えば『創』1986年4月号の「天皇タブー特集」で書いた「〝天皇タブー”なんてどこにあるんだ」という原稿の一節だ。鈴木さんはこう書いていた。

《活字だって立派な凶器だ。人を斬りもすれば殺しもする。その自覚もなくて人を傷つけておきながら、ちょっと抗議されると本を回収し、「これは右翼の暴力だ」「言論統制だ」「タブーだ」などと泣き言をいう。いい大人が余りにもミジメだろう。》

《メチャクチャやるだけやっておいて、右翼が来たら「すみません、回収します」では余りに意気地がなさすぎる。そんな信念のないことなら、はじめからやらない方がいい。》

 今でも言論や報道に関わる者が胸に手をあてて読むべき言葉だ。

 2002年に刊行された『言論の覚悟』のあとがきでは、こう書いている。鈴木さんは当時、全ての著書に自宅の住所と電話番号を載せていた。

《もの書きは全て、自分の住所と電話番号を公開すべきだと僕は思っている。それ位の覚悟と自覚を持つべきだと思う。》

《反響は全て引き受けるべきだ。少々恐ろしくとも引き受けるべきだ。それが嫌なら、もの書きという仕事をやめるべきだ。そんな覚悟のない人間が、偉そうにきれい事を言ってるから、言論はどんどん下劣になり、言論の自由がなくなるのだ。》

 右翼の暴力ばかり喧伝されるが、マスメディアの暴力性についても、携わっている者は自覚と責任を持つべきだ、という主張だ。あいちトリエンナーレの「表現の不自由展その後」中止事件についても、鈴木さんは、表現に対する覚悟のなさを憂えていた。

 ちなみに鈴木さんの連載「言論の覚悟」は、『言論の覚悟』『新・言論の覚悟』『言論の覚悟 脱右翼篇』と3冊書籍化されているが、最初のものはかなり古いので、この20年余の思想の系譜をたどるならあとの2冊を読むのが良いと思う。

新右翼として70年代に登場

 鈴木さんが「新右翼」として登場したのは1975年に出版した『腹腹時計と〈狼〉』がきっかけだった。三菱重工爆破事件を起こした新左翼メンバーの一人が、逮捕後、服毒自殺した。自分の思想や言論に命を懸けるというその姿勢に、左右の思想の違いを超えて、鈴木さんは共感したらしい。当時は極左と極右の共鳴などと言われたが、本当は右とか左とかでなく、自分の思想や言論に命をかけるという点に鈴木さんは共鳴した。それが鈴木さんの原点なのだと思う。

 鈴木さんは、1970年代から80年代にかけては、新左翼雑誌『現代の眼』や、筑紫哲也さんが80年代に編集長をしていた『朝日ジャーナル』などにも登場していた。田原総一朗さんの『朝まで生テレビ』の右翼特集にも、野村秋介さんとともに出演していた。ちなみに野村さんも右翼の大物だが、私が敬意を表していた人物だ。

 そんな鈴木さんだが、右の人だけでなく左の人脈とも交流を深め、考え方はリベラルになっていった。本人は、自分が変わったのでなく、日本の言論が右へ寄ってしまったのだ、と言っていた。

 右翼の活動から離れて以降も鈴木さんは、例えば朝日新聞阪神支局襲撃の「赤報隊」事件に絡んで自宅を何度もガサ入れ(家宅捜索)されたり、何者かに自宅を放火されたりした。

 自宅放火事件は、木造アパートにガソリンを使って火を放たれたらしいのだが、入り口に置いてあった洗濯機がドロドロに溶けるほどの火力だった。一歩間違えれば命を落とす危険性もあった。

自宅放火の現場。右はどろどろに溶けた洗濯機(鈴木さん提供)
自宅放火の現場。右はどろどろに溶けた洗濯機(鈴木さん提供)

 この20年余、鈴木さんは日本の右傾化や憲法蹂躙について批判を強めていった。一時は「脱右翼」と言われたのだが、日本の言論・思想の軸が右に大きくぶれていくことに鈴木さんなりに危機意識を持ったのかもしれない。

 しかもネトウヨと言われる人たちが登場して、ヘイトの言説、民族差別や排外主義があらわになると、鈴木さんはこれを強く批判して対立することになった。

この20年ほどはネトウヨと対峙

 この20年ほどは、鈴木さんは言論や表現を守るためにネトウヨと呼ばれる人たちと対峙することが多くなった。最初は2000年頃からの渡辺文樹監督の天皇に関する映画をめぐる騒動だった。渡辺監督は天皇をテーマにした映画を作って、各地で上映し、そこへ右翼が押しかけて攻防戦が展開された。監督は右翼に攻撃されるだけでなく、公安にも狙われて何度も逮捕されて投獄された。それでも表現活動をやめないところに、鈴木さんが共感した。

 激しい騒動となったのは2008年10月の横浜での上映会で、全国から右翼が押しかけ、街宣車で会場周辺を走りまわり、会場に集団で詰めかけた。渡辺監督は家族総出で上映会を開いており、開演前に映写機の準備などをしていたが、入り口付近に姿を見せた彼を右翼が彼を取り囲む場面がしばしばあった。

 客がその様子を遠巻きに眺めている中で、その輪の中に一人分け入って行くのが鈴木さんだった。「君たち、映画を観もしないで上映をやめろと言うのはおかしいじゃないか」。そう言って入って行くのだが、たちまち鈴木さん自身が糾弾の対象になる。「文化人面しやがって」「お前より渡辺のほうがよっぽど肝がすわってるよ」。そんな罵声を浴びて鈴木さんが苦笑いするのだった。

『ザ・コーヴ』上映中止事件で

 同じような光景は、2010年以降、日本のイルカ漁を批判したアメリカ映画『ザ・コーヴ』でも繰り広げられた。これを「反日映画」と非難したグループが映画館に押しかけ、抗議行動を展開した。配給会社の社長の自宅まで街宣がかけられ、横浜の映画館の支配人の自宅に抗議グループが押しかけた時には、留守を預かっていた高齢の両親にまで抗議を展開。こうしたやり方に鈴木さんは強く反発した。

 映画館前でのネトウヨの抗議行動に「君たちがやっているのは弱い者いじめじゃないか」と言って、いつも鈴木さんは割って入った。

『ザ・コーヴ』公開の日は渋谷のイメージ・フォーラム前に、抗議グループが押し掛け、その隊列に向かっていった鈴木さんをまじえてちょっとした騒乱状態になった。その時、鈴木さんはトラメガで顔を殴られて出血した。この写真はその瞬間をとらえたものだ。

殴られてケガをした瞬間の鈴木邦男さん(知人提供)
殴られてケガをした瞬間の鈴木邦男さん(知人提供)

 鈴木さんはその夜もロフトプラスワンでの討論会に登壇し、「警察官がいたので殴った男を逮捕してくれるのかと思ったら、これどうぞと言ってティッシュをくれただけだった」と話して会場を沸かせた。

 私も当時は毎回、現場に足を運んでいたから、鈴木さんといつも顔を合わせていた。鈴木さんが上映を潰そうとするグループの隊列にすたすたと近づき、「映画を観もしないで上映妨害するのはおかしいだろう」と話しかけ、激しい口論になるのを何度も見ながら、その行動力に驚嘆した。鈴木さんの原点「言論の覚悟」は変わっていないのだった。 

 鈴木さんの『創』での連載「言論の覚悟」は2020年に中断した。その前から鈴木さんは体調悪化で執筆が難しくなり、手書きの原稿がほとんど読めなくなった。2020年前半は、話してもらったテープを起こして連載を続けていたが、4ページの連載がその頃から2ページになり、とうとう継続が難しい事態となった。

 でも私は連載は終了と考えず、休載と考えて再開を待っていた。しかし、今回の訃報でそれもかなわなくなった。亡くなったのは1月11日だった。

 1月27日に関係者から一水会に連絡があり、一水会がツイッターに訃報を流してから一斉に報道が始まった。葬儀は家族により行われたという。

 訃報が私に寄せられた時点で『創』の連載陣には伝えたが、鈴木さんと親しい執筆者はみな驚きととともに残念だと言っていた。

 その後の情報では、驚いたことに1月9日に鈴木さんは知人に電話をかけていた。死因は誤嚥性(ごえんせい) 肺炎とされているから、体力が落ちているところから食べ物をつまらせて亡くなったのだろうが、最近まで電話をかけようと思いつくくらいの元気はあったということかもしれない。

 鈴木さんは日本の言論界で独特の立ち位置だった。いま言論界が混迷するなかで、鈴木さんのようなポジションからの発言はとても貴重で、その意味でかけがえのない存在だったと思う。一水会がお別れの会を開催するというが、メディア関係者も「偲ぶ会」を開催することになると思う。『創』では次号で丸々1冊、鈴木さんの追悼特集をするくらいのページをさこうと考えている。

 ちょうど1月27日は、12月30日に亡くなった『話の特集』矢崎泰久元編集長の追悼特集の校了日だった。反骨精神旺盛な言論人が次々と亡くなっていく。

 とても残念だ。今はただ、安らかにと祈るしかない。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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