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「表現の不自由展かんさい」緊迫の中で無事開催!この持つ意味はかなり大きい

篠田博之月刊『創』編集長
日の丸の集団に会場前でプラカードを持って対峙する市民(筆者撮影)

 すごいことだ。開催3日目というか最終日の7月18日、10時から開催される「表現の不自由展かんさい」の整理券が朝8時過ぎに全日分ソールドアウトになってしまった。17日はまだ9時過ぎまで整理券配布が行われたのだが、毎日報道されているから、全国から人が集まっているのだろう。3日間、予定通り開催できたとなれば、その意味はとても大きい。

厳重な警備のもとで開催をめぐって会場前で対峙

 私は16日、初日の朝8時過ぎに会場に入った。その時点で会場前には人がたくさん集まり、9時からの整理券配布を待つ行列ができていた。私はマスコミ内覧に参加するので並ばずに会場に入れたのだが、そうはいっても入り口では金属探知機による厳重なチェックを受けた。あいにく私のカバンは反応してしまい、中を開けてチェックを受けることになった。

 エレベーターに乗って9階の会場に上がると、既に新聞・テレビなどの報道陣が訪れ、目印のオレンジの紐が配られていた。9時過ぎに内覧が始まり、主催者からの説明も行われたが、報道陣が一番シャッターを切っていたのはやはり、シンボルともいえる「平和の少女像」前だった。

平和の少女像と慰安婦の写真に集まる報道陣(筆者撮影)
平和の少女像と慰安婦の写真に集まる報道陣(筆者撮影)

 10時を過ぎると一般客も50人ずつ入場し、報道陣が会場にて感想を訊くなどの取材に入っていった。私はその後、1階に降りて、会場前の道路に出たのだが、大通りを隔てて、日の丸をかざして「反日の美術展は即刻やめろ」などと大音量で右翼風の人たちが抗議活動を行っていた。道をはさんで会館側では市民たちが「妨害やめろ」などと書いた手書きのプラカードを掲げていた。

開催に抗議する人たちと警察官(筆者撮影)
開催に抗議する人たちと警察官(筆者撮影)

 大阪府警の警察官が相当数警備にあたっており、脇の道には大型の警備車両が何台も止まっていた。近辺を街宣車で走り回っていた右翼団体もあったようだ。「表現の不自由展」開催を支持する市民と抗議する人たちが路上で対峙するという構図は、緊迫した場面ではあったが、警察が厳重な警備態勢をとっている限りでは、そこで衝突が起きるといった事態は避けられるように見えた。

会館前は警察が厳重警備(筆者撮影)
会館前は警察が厳重警備(筆者撮影)

名古屋中止を受け攻防、今回も爆竹郵送

 ただ名古屋で開催された「私たちの『表現の不自由展・その後』」は7月6日から開催されたが、11日の最終日までもたず、8日に中止になってしまった。その日、会館に届いた郵便物に爆竹らしいものが入っていたようで職員が開封すると同時に破裂したため、会場側が美術展会場にいた観客や関係者を避難させ、そのまま会場のフロアを閉鎖してしまったのだった。

 実は名古屋の場合は、9日から同じフロアで、開催に抗議する団体の展示が行われる予定になっており、緊迫するのは9日からと見られていた。私も9日に訪れる予定にしていたのだが、思わぬ形でその前に中止になってしまったのだった。大阪の警備が厳重だったのは、その名古屋の例があったからだ。

 周知の通り、大阪での展示も、6月から街宣抗議が行われたため、施設の指定管理者が大阪府に相談の上、6月25日付で会場の使用許可を取り消すという事態に至っていた。実行委はそれを不当だとして大阪地裁に提訴し、7月9日に地裁は「施設の使用を認める」との決定を出した。施設側は抗告したが、15日に高裁も同じ決定。さらに特別抗告に対しても16日に最高裁が棄却。使用を認める判断が確定した。

 名古屋での開催が中止に追い込まれた経緯を学習したのだろう。名古屋と同様に爆竹を入れた郵便物を送った者がいたようだ。ただし今回は郵便局で不審物と思われ、会場に配達される前に警察に引き渡された。

東京展は延期、名古屋は中止という混乱

 「表現の不自由展かんさい」が予定通り開催されたことの意味はかなり大きい。もともと6月25日から7月4日に開催予定だった東京展は、6月3日に報道されてすぐ、6日から激しい街宣抗議が会場にかけられ、周辺が住宅街だったために、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないと会場の持ち主が使用中止を通告してきた。

 その後、別の会場に移されて予定通り開催かと思われたが、その会場も使用を断ってきたため、結局、美術展自体が延期されてしまった。名古屋と大阪は市や府の行政の施設だったため、使用取り消しには裁判に訴えるという方法があったが、東京はそうはいかなかったのだった。

 続いて大阪が会場使用取り消し、名古屋は開催されたものの2日間で中止になるという経緯で、一時は「表現の不自由展」に暗雲が垂れこめることになった。

 その時点までの経緯は、以前ヤフーニュースに書いた下記記事を参照してほしい。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20210614-00242866/

「表現の不自由展」が激しい街宣攻撃で会場変更、実行委が会見で「開催続行宣言」

 もともと「表現の不自由展」は、中止や撤去の憂き目にあって展示できなくなった美術作品を展示、「表現の自由」について考える機会にしようというコンセプトで行われたもので、最初は2015年に東京の練馬区で開催。それを見た津田大介さんの提案で2019年に「あいちトリエンナーレ」の一部として「表現の不自由展・その後」と銘打って展示されたが、激しい抗議によって3日で中止に追い込まれ、関係者の尽力で最後の1週間に再開されるという経緯をたどっていた。

 その企画を自分たちの手で開催したいという市民が申し入れたことで、2021年、東京、名古屋、大阪、さらにはその他の地域でも開催が予定されたのだった。ちなみに地域によって主催する団体は異なり、東京の場合は、「あいちトリエンナーレ」の時とほぼ同じ実行委員会が主催したが、名古屋はその「あいトレ」当時、開催を支持して会場前で中止に抗議するアピールを行った市民らが中心となった。名古屋の展示が「私たちの『表現の不自由展・その後』」という名称なのは、そういう経緯による。

 ただもちろん、最初の東京展が激しい妨害にあったことで、東京・名古屋・大阪の実行委は互いに緊密に連携することになり、今回の大阪展にも東京の実行委メンバーが訪れてサポートにあたっていた。

懸念される暴力によって表現をつぶすという風潮

 一時は、東京が延期、大阪は会場使用取り消し、名古屋が2日で中止という経緯に至り、かなり厳しい見通しとなった「表現の不自由展」だが、一連の経緯は、気に入らない表現や言論に対しては、暴力を行使すればつぶせるのだという前例を作ってしまう恐れがあった。また表現する側も、事前に委縮してしまうという形で、日本社会に今後大きな禍根を残す恐れがあった。

 その意味では、大阪展が無事に開催されたことが、一連の流れに風穴をあけるという大きな意味を持っていた。しかも全国から人が訪れ、チケットが朝8時に完売になるという関心の高さや、クラウドファンディングで目標の100万円が集まるなど、今後、東京展開催へ向けた好材料も確認できた。名古屋も中止になった日程分の再開を求める動きが起きており、「表現の不自由展」をめぐる流れは今後につなげられることになった。

 「あいちトリエンナーレ」での大きな騒動や、今回の一連の騒動は、「平和の少女像」や昭和天皇をめぐる表現といった、これまでタブーとされてきたテーマが展示物で扱われているからだ。特に「平和の少女像」については、慰安婦問題や日韓関係の緊迫化の中で、世論を二分するナショナリズムの問題と関わっている。

 それを暴力的につぶすというのでなく、議論を深めるきっかけにするという方向に行けるかどうか。それがまさに問われていると言ってよい。

 攻防は今後も続く。一連の経緯が今後どうなるのか。大事な局面といえる。

表現の不自由展めぐる動きを特集した月刊『創』(つくる)8月号の内容は下記を参照してほしい。

http://www.tsukuru.co.jp/

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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