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和歌山カレー事件・林眞須美さんの長女のこれが最期だとしたらあまりに悲しすぎる

篠田博之月刊『創』編集長
カレー事件のあった年、筆者が訪れた時に撮影した報道陣が集まった林家(筆者撮影)

死亡したのが林眞須美さんの長女だったという突然の報道

 和歌山カレー事件・林眞須美さんの長女が亡くなったと報じられている。亡くなったのは6月9日で、当初は眞須美さんの長女らしいという指摘はなされないまま、11日夜から以「関空橋転落死」事件として報じられた。

 発端は6月9日14時20分頃、和歌山市内から119番通報があったことだ。「娘の意識がない。血のような黒いものを吐いている」という内容で、駆け付けた救急隊が16歳の女性を搬送したが、後に死亡が確認された。病院への搬送には父親らしき男性が立ち会った。

 通報を行ったと思われる母親らしき女性(37歳)はその後、4歳の下の娘を連れて車で家を出た。そして16時頃、関空連絡橋を車で走行していた男性から「人が橋から落ちたようだ」と警察に通報があった。女性は車のエンジンをかけたまま、橋の上から40メートル下の海に飛び込んだらしい。捜索したところ、橋から1キロ南の海上で母親らしき女性と女児がうつぶせに浮いているのが発見された。

 その後、16歳の女性搬送に立ち会った父親らしき男性も自殺をはかったが、一命をとりとめている。

 警察が捜査に入ったのは、最初に死亡した16歳の娘について、以前から虐待を受けているという通告が児童相談所になされていた経緯があったからだという。娘の死因は外傷性ショックだった。

 その亡くなった娘は当初、○○心桜さんと実名が報道された。マスコミの問い合わせを受けて、林健治さんがピンと来たのは、その孫の名前を覚えていたからだ。○○は長女の結婚後の姓だったが、警察に照会すると苗字が別だったりして当初混乱したという。長女は前の夫と離婚して別の男性と一緒になっていたのだが、健治さんやその長男などとは長い間没交渉だったようだ。

[※注=当初、上記の文章のうち事件の説明部分はマスコミ報道のリンクを張っていたのだが、リンク先の記事が削除されたようなので、7月5日に加筆した。以下は最初に書いた文章のままだ。]

 実際にはその時点で既に眞須美さんとの関連を指摘する情報も出ていたらしい。その後、眞須美さんの長女と思われるということになって、マスコミは一斉に取材に走ったようだ。

 まだ詳細な事実関係が明らかになっていないが、亡くなったのが長女であることはほぼ間違いないようだ。この長女とは私も一時、電話でやりとりをするなどしていた時期があり、いろいろ大変だった彼女の人生を思うと衝撃を受けた。1998年、和歌山カレー事件の後の10月4日、いきなり両親が逮捕されて、子どもたち4人は施設に預けられ、辛い思いをして生きてきた、その最期が今回の事態というのでは、あまりに悲しすぎる。

【追記】この記事を書いたのは6月14日だが、15日になって亡くなったのが長女というのは誤報ではないかという情報も流れ混乱しているので補足しておこう。誤報説のひとつの根拠は、真須美さんの長男がツイッターで、事実はまだ正式に確認できていないことを強調していることだが、それは事実と違うということではない。警察はもともとの関空橋事件を捜査中で、健治さんらの照会に正式に対応しておらず、遺体との対面もできていない。だから正式には警察によって事実の確認はされていないというのが正しい言い方だ。健治さんや長男には、これが間違いであってほしいという気持ちもあるようだ。

 ただここで詳細に書く余裕はないが、亡くなったのが長女ではないかと思われる根拠はいろいろある。新聞・テレビは正式に警察が発表するのを待っており、関空橋転落事件と長女との関連を報じるのに慎重な姿勢を示しているようだ。近いうちに事実は判明すると思うが、現時点で正式発表がなされていないことをここでも追記しておこう。そもそもは虐待と思われる子どもの死から始まっている関空橋転落死事件は、背景が複雑で衝撃的な内容が含まれていることは間違いないように思う。なおいちいち情報源を明記はしないが、私はこの記事をもちろん長男などに話を聞いて書いていることを申し上げておこう。

他の子どもにとって親代わりだったしっかり者の長女

 私はカレー事件のあった1998年夏に取材のため何度も林夫妻の自宅を訪れ話を聞いたが、その時、眞須美さんに言われて2階から梅ジュースを運んできたのが長男だった。その後、林夫妻は逮捕され、眞須美さんには7年もの長期にわたる接見禁止がついた。

 それが解除され再び眞須美さんに会うようになったのは2005年だが、健治さんも同年出所しており、家族が再び交流するようになった。眞須美さんの大阪での控訴審判決の後、私は和歌山の健治さんの住居を訪れたのだが、事件の年にはまだ小学生だった長男が大きく成長していたのに驚いた。眞須美さんからは接見の時、長女がもう結婚していることも聞かされ、接見禁止7年の長さを改めて感じた。

 その後、子どもたちは眞須美さんの支援集会に顔を出し、事件当時のことをいろいろ話すようになった。今最もマスコミに登場しているのは長男だが、長女や次女も母親の冤罪を訴える場で発言をしていた。長男はその後も健治さんの近くで生活を続けるのだが、長女・次女・三女はそれぞれの人生を歩み、交流もほとんどなくなっていたようだ。健治さんと長男にとっても、今回の訃報は突然で、大きな衝撃を受けたようだ。

 眞須美さんは2005年の接見禁止解除後、月刊『創』(つくる)に連続して手記を掲載。私は頻繁に大阪拘置所に通うことになった。彼女は子どもたちのために、桃の節句などの節目で私に依頼し、一番小さな3女にひな人形を贈るといったことをしていた。

 その頃、いろいろなことで私が相談のために電話したのが、今回亡くなった長女だった。子どもたちが両親と離れ離れになってからは、長女が下の子どもたちに親のように接していたし、しっかりした女性だった。

 その長女が、2006年の眞須美さん支援集会で発言した内容を以下、追悼の思いも込めて『和歌山カレー事件 獄中からの手紙』(創出版)から引用する。子どもたち4人で施設を抜け出して親のいると思われた警察署前に行き、親を返せ!と叫んだという話など、今でも胸を打つものがある。長女は母親譲りの気丈な性格なのだが、その彼女が今回報道されたような最期を迎えたとしたら本当に衝撃だ。

なお眞須美さんが獄中でいかに子どもたちのことを思い、それを生きていくための励みにしていたかについては前出の『和歌山カレー事件 獄中からの手紙』に彼女の手記を収録しているのでご覧いただきたい。

カレー事件後の10月4日、両親が逮捕された日のこと

 2006年4月23日、大阪で「林眞須美さんを支援する会」の集会が開かれ、眞須美さんの再審の弁護人である安田好弘弁護士が健治さんやその子どもたちに質疑応答を行った。

 事件後、家族がどんな状態に置かれたのか、逮捕当日、林家の内部はどんな状態だったのか。そういう話がこの集会で初めて明らかにされた。その集会でのやりとりの中から、長女の発言部分を紹介しよう。

《安田 逮捕の時の話を聞きます。当日あなたはどこにいましたか?

長女 2階の真ん中の自分の部屋で寝ていました。お父さんたちが逮捕される1~2時間前に、二女に「お姉ちゃん外見て!」と起こされまして、ふすまを開けたらライトがぶわーっとありました。報道陣の方たちが梯子とかに上って、ビデオカメラで撮ってて、いつもと何かが違うなあって。

安田 戸を開けたら、あなたの目の前にカメラがあったんですね。

長女 そうです。ちょっとびっくりしたんで、下で寝てたお母さんを起こしに行きました。

安田 お母さんと何の話をしたの?

長女 「いつもと違うので、ちょっと来て」と言いました。お母さんは隣に寝ていた三女を抱いて2階に上がって来て、三女を二女に預けて、私だけを一番端の部屋に呼んだんですよ。それで「もしかしたら、捕まるかもしれない。でも私たちは何もしてないから、すぐ帰ってくる」って言ったんです。

安田 その時あなたは、お母さんにカレー事件のことについて訊いたのですか?

長女 訊きました。「ほんまはどっちなん?」て。そしたら「おまえはあほか! やってるわけないやろ!」って。

安田 叱られたわけですね?

長女 はい。

安田 その後、警察官が中に入ってきたのですか?

長女 はい、はっきり覚えています。時間が6時だったんですよ。ドンドンドンと下の玄関を叩いて「林さん! 林さん!」って。お母さんは「はーい」って下に降りていったんです。その瞬間に女の警察の方が上に来て「数日分の服を用意して」って言いました。

安田 そのまま施設に連れて行かれちゃったのですか?

長女 児童相談所の一時保護に連れて行かれました。

安田 先ほど上の妹さんがおっしゃった中で出たことですが、あなたは弟・妹たちにどんなことを言っていたのですか?

長女 両親が捕まった時に中3の反抗期だったこともあるんですよ。いろんな人に敵意を持っていたんで、妹たちをぶって「何も言うな」と言いました。私はお母さんが逮捕される前に直接「やってない」と聞いていましたので、(捜査機関には)そんなん協力せんでもいいやん、みたいな感じで思っていました。

安田 弟・妹2人が警察に呼ばれて事情を訊かれたり、裁判所に呼ばれて証言させられたりというのは聞いてたでしょ?

長女 裁判所には、私は1回しか呼ばれてないんですけど、妹や弟が行ったなんて知らなかったんですよ。後で私だけ一人で呼ばれてお昼過ぎから夜8時くらいまで取調べみたいなのを受けました。夜施設に帰ったら妹と弟に「今日、実は行ってたんや」って言われたんで、「おまえら何話したんや?」って訊いたら「怖かったんであることないこと全部しゃべった」って言ったんで、ぶちました。

安田 そうしたら、妹さんと弟さんは何て言ったのですか?

長女 「ごめんなさい」って。

安田 これからはあなたの言うことを聞くと。

長女 はい。(中略)

安田 あなた方は施設に入れられたわけですが、お父さん、お母さんとは文通できたんですか?

長女 最初はまったくできなかったんですが、いつからか、手紙が届いて、文通ができると聞かされたんで、書いて出しました。施設に入って、末の妹の最初の誕生日の時に私が手紙を送っているので、捕まって1年くらいだったと思います。

警察署の前へ行って「両親を返せ!」と叫んだ

安田 拘置所に会いに行ったことはありますか?

長女 あります。勝手に施設を飛び出て……

安田 脱走したわけですね?

長女 そうです。その時は会えない状態だったんですが、いてる所は知ってたんですよ。前の弁護士さんに聞いてたんで。で、その建物の向かいで、二女と長男と一緒に叫びました。「お父さんとお母さんを返せー!」と(笑)。

安田 丸の内拘置支所でしたっけ?

長女 丸の内にも行きましたが、私は最初、お父さんとお母さんは東警察署におると思ったんですよ。まったく当時の報道を見てなかったんで。それで、東署に行って3人で「返せー」っと叫びました。そうしたら、施設の先生がぶわーって走ってきて。捕まえられました(笑)。

安田 健治さん、その声、聞こえましたか?

健治 いいえ。その話は今初めて聞きました。

安田 なかなかみんなで事件について話すことはしなかったのですか?

長女 当時は施設の先生から、その話を止められていたんです。きょうだい同士で、お父さんとお母さんの名前をちょっと出しただけで、ぶたれたりとか。部屋も別々でしたし。

安田 例えば施設の中でカレーなんかが出るでしょ。カレーを持っていったら何か言った人もいたんですよね。

長女 前の園長先生に言われました。お昼ご飯を園長室に届けなくちゃいけないんですよ。その時に「ヒ素入ってんちゃうんか?」って言われました。》

大変だった人生の最期としてはあまりに悲しい

 子どもたちは何かあるごとにカレー事件を匂わされるなど、辛い思いをしながら人生を生きてきた。

 今回、長男とも電話で話したが、家族はいずれも今回の事態に大変ショックを受けている。そして同時に、マスコミが押し掛け、面白おかしい報道で、家族をさらに傷つけることにならないかと恐れているようだ。

 ネットニュースではアエラドットとNEWSポストセブンが詳しい報道を行っている。前者はカレー事件を長らく取材し、健治さんとも親密な関係を保ってきた今西憲之さんの記事だから詳しいのは当然だろう。

https://dot.asahi.com/dot/photoarticle/2021061300002.html

https://www.news-postseven.com/archives/20210613_1668023.html/2

 後者は、娘の死を関係者が最初に眞須美さんに伝えた時の話を書いており、その意味では注目されているのだが、この記事には、家族たちは憤慨している。どういうシチュエーションでそのやりとりがなされたのかを勘案しないで断片的な事柄を報じているため、これは誤りというべきだという見方のようだ。確かに真須美さん自身も子どもたちのことは大事に考えてきたから、この記事は不本意だろうと思う。

 遺族はいま大きな衝撃を受けている。警察は詳しい事情を捜査中で、今後情報が出てくると思うが、家族の突然の死に直面して悲しみにくれている遺族を執拗に追い回すようなことのないよう、取材する人たちは考えて欲しいと思う。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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