Yahoo!ニュース

コロナ禍でのミニシアター支援が目標の3倍、3億円余も集まった背景には大きな意味がある

篠田博之月刊『創』編集長
3億円を超えたミニシアター・エイド基金(筆者撮影)

 6月10日発売の月刊『創』7月号でコロナ危機について特集しているが、その中でミニシアターをめぐって関係者が座談会を行っている。何と言ってもこの間、大きな話題になったのは、ミニシアター・エイド基金というクラウドファンディングを立ち上げ、ミニシアターへの支援を呼びかけたところ、目標の1億円をはるかに超える3億円余が集まったという現実だ。

 単にお金がたくさん集まったということだけでなく、この運動は、ミニシアターというものの存在意義について、多くの人が改めて考えるきっかけになった。しかもこういう寄付文化はアメリカが本家と言われてきたのだが、アメリカで行われている同様の運動をはるかに凌駕する実績だった。これはいったい何を意味するのか。この事例は多くの大事な問題を提起しているように思う。  

 『創』の特集から少し引用しよう。座談会「改めて見直されたミニシアターとその文化」の出席者は、ミニシアター・エイド基金を立ち上げた深田晃司監督、コロナ禍の中で「仮設映画館」という仕組みを立ち上げて映画「精神0」を上映した想田和弘監督と配給会社・東風の渡辺祐一さん、それにミニシアターを運営しているアップリンクの代表・浅井隆さんだ。 

目標の1億円を最初の3日で超えた

 まず深田監督によるミニシアター・エイド基金の総括がこうだ。

《深田 5月末には集まったお金を配分できるように、4月中旬からクラウドファンディングを始めようということで、すぐに各劇場にコンタクトをとって準備を進めていきました。プロジェクトページ公開は4月13日でした。

――その反響が大きかったわけですね。

深田 立ち上げて3日弱で1億円が集まりました。初日で5000万円以上集まったのでスピードは速かったですね。もともとは1カ月間かけて1億円を超えようという想定でした。モーションギャラリーの過去最高例が7000万円強と聞いたので、1億円でも大変だろうと思っていたんですが、やってみたら3日間で超えたという状況でした。

 これはもちろんミニシアターファンの思いが届いたわけですが、同時多発的にセーブ・ザ・シネマ(SAVE the CINEMA)という署名活動も話題になっていて、ミニシアターが大変だということが社会問題化していたという状況もあったと思います。いろんな要素が重なって3日間で1億円というスタートダッシュになったと思っています。

 最終的には3億3102万5487円集まったのですが、最初の勢いが落ちることなく増え続けたという感じです。》

映画「精神0」c2020 LaboratoryX,inc
映画「精神0」c2020 LaboratoryX,inc

《想田 僕も最初、1億円を目標とするとは大きく出たなと思ったんですよ(笑)。でも目標額を軽々と超えた。アメリカでも「アートハウス・アメリカ・キャンペーン」という、同じような動きがあるんですが、現時点で集まっているのが83万2088ドルですから、まだ1億円に達していないんですよね。だからアメリカに比べても日本の動きはかなり大きかったわけです。

深田 クラウドファンディングはもともとアメリカ発祥の文化じゃないですか。寄付の文化もはるかにあるし、アメリカのほうが集まりそうな気がしたんですけれどね。

想田 そうなんですよ。アメリカではミニシアターを「アートハウスシネマ」というんですけど、150くらい独立の映画館があります。日本はアメリカに比べれば狭い国内に150近くあると言われているので、ミニシアターの密度が濃いんでしょうね。》

日本におけるミニシアターの存在意義

 その日本におけるミニシアターの存在意義についてその後議論がなされるのだが、発言をいくつか紹介しよう。

《――今回の動きの中で改めて多くの人がミニシアターについて再認識したわけですね。ミニシアターを応援しようという動きがこれほど広がったことについてはどのような感想ですか。

浅井 1980年代からミニシアターができて、今は変容してきているんですけど、ノスタルジックな思いも含めて応援してくださった方が多かったんでしょうね。ミニシアター・エイド基金の3億3000万円超というのは本当にすごい額だと思います。(略)

 ミニシアターからデビューしてシネコンに行くというような流れは、音楽の世界じゃ既に崩壊しているわけです。インディーズでデビューしてメジャーレコード会社と契約するという、かつてのサクセスストーリーってもうないわけですよ。ちょっとドラッグで事件を起こしたら発売停止するようなメジャーなレコード会社に行ったってしょうがないと思っているミュージシャンもいっぱいいます。

 でも映画界は音楽より遅れていて、いまだに、全国のシネコンで上映して何億、何十億円稼ぐというのがゴールと考えている節がある。だからそうじゃない仕組みをどうやって作るのかが問われているんです。》

《深田 これからの動きはまだ出てきていないと考えていいと思うんですけど、今回、ミニシアターの存在意義、公的な価値みたいなものがクリアになったと思っています。

 日本ではミニシアターという用語が定着しており、愛着をもって使用されていると思うんですけど、海外のアートハウスという言い方の方が役割が明確で、ある程度作家性の高い、シネコンではかからないような多様な映画を扱うということですよね。そうした作品を経済的にどう回していくかというのはすごく難しい。文化、芸術においては、すべての作品が資本主義では生きていけないし、そこを求め始めると、多様性というのは失われていってしまう。》

《想田 僕はシネコンで上映することはそもそも望んでいないわけです。よく「ミニシアターは登竜門」みたいな言い方をされるんですけど、僕の場合、通過点ではない。ミニシアターが主戦場なんです。でもドキュメンタリーでなくフィクションになると、そこはなかなか難しいかもしれません。

深田 ミニシアターが本来通過点ではいけないわけで、日本でミニシアターが狭い地域にこんなにあるというのはすごい文化だと思うんですね、シネコンと役割を分け合っているという状況があって。それを認識することが必要だと思います。》

 私も仕事柄、映画はよく観る方で、シネコンにも行くし、ドキュメンタリー映画を中心にミニシアターにもよく足を運ぶ。でもその違いをこれまで明確に意識してきたわけでないので、この座談会にはいろいろ考えさせられた。

 そしてもうひとつ、これはすごく大事なことだと思ったのは、コロナ危機の中で多くの市民が3億円余ものお金を出したことの意味だ。ミニシアターという文化の多様性を保障することの大切さを多くの日本人が考えた。それはいったいどういう意味を持っていたのだろうか。

 ちなみにミニシアター・エイドの3億余を参加した人数で割ると、一人が数千円から1万円の寄付をした計算になるという。もちろん実際は高額を出した人がいて平均を押し上げたのだろうが、それにしても日本において、自分たちの手で文化的多様性を継続させようという意思が顕在化したとは言ってよいと思う。

 それは何を意味するのか。

「日本型」ともいうべき日本社会の危機への対応

 それと関連して思うのは、先日、麻生太郎財務相が海外の人に日本人のコロナへの対応を評価されて「日本人は民度が違う」と言ったと得々として発言したことだ。麻生大臣の発言は裏返しの差別意識のようなものだから論外なのだが、確かに日本人の新型コロナ対応について海外から評価がなされているようで、この問題をどう考えるのかも大事な気がする。

 へえ、海外ではそう思われているのか、とその問題を私が最初に意識したのは、『ニューズウイーク日本版』5月5・12日号が掲載していた「ポストコロナを生き抜く日本への提言」という特集を読んだ時だ。

 外国人識者が日本のコロナ対策について論じているのだが、例えば「韓国の対応を称える日本に欠ける視点」では、日本で韓国の迅速な対応が賞賛されるが、それは国家の強力な統制によるものだという視点が欠けていると指摘。他の論者も、強制によらず「自粛の要請」という日本の対応は「日本モデル」と呼ぶべき独自なものだと評価しているのだ。

 外国のような強制によらない「自粛要請」によって感染対策を行ったという日本人の特性は果たして何に由来するのか。そこで示された日本社会のありようとは何であって、それを我々はどう考えるべきなのだろうか。

吉岡忍さんと森達也さんのコロナ危機についての議論

 『創』7月号のコロナ危機特集では巻頭で作家の吉岡忍さんと作家・監督の森達也さんが、なかなか鋭い視点の対談を行っている。日本社会における「集団と個」というものについて言及し、今回の危機の中で何がどう現れたかを論じている。発言の一部を引用しよう。

《森 よくメディアで話題になるけれど、コロナ第一波の対策にとりあえず成功した韓国について、プライバシー権とか自由を強権的に制限したからこそできたことで、日本も同じようにすべきだとの声を時おり耳にします。でもこのあいだ『サンデーモーニング』で姜尚中さんが、「韓国は個が強いんです」というようなことを言っていた。だからこうした逸脱ができるのだと。まったく同意です。

 これはメルケルのスピーチにもつながるけれど、政権が独裁的で自由を抑圧された時代があったり、民主化を自分たちの手で獲得したとの歴史があるからこそ、政治権力の暴走に対しては安易に許容しないし、例外的な状況を元に戻す力が働く。でも個が弱くて場に適応する力ばかりが強い日本でこれをやったら、おそらく復元しなくなる。》

《吉岡 コロナ危機もそうだし、東日本大震災のときもそうだったけど、世の中を揺るがす出来事というのは、その社会の底にあって、表面から隠されていたものが一気に露呈する。今回も非常事態宣言の50日間、前後を含めるとこの3~4ヵ月間、ほんとうに日本の断面が見えたという感じだった。

 冒頭で「社会」ということを言ったけれど、頼りない政府や官庁しか持っていないとしても、それを嘆いているだけでは、われわれも指示待ちしているだけの無力な存在なわけでね。やはりここは社会の力を見せなければいけない。医師や医療関係者がこれまで培ってきた知見や技術の医学力、医療機器からマスクやトイレットペーパーまできちんと生産・供給できる産業力、軽度の感染者に隔離用の部屋を提供できるインフラ力、それにもちろんわれわれ一人ひとりが感染しない、させない思慮の力。いろんな意味で、この社会全体の力量が試されていたと思うんですよ》

《森 僕は、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』が大好きなんです。地球に宇宙から知的生命体が来て、人類の進化を促すという話です。まあこれが、後にモノリスになるのだけど。宇宙人の存在が触媒になって地球人は新たな段階に発展するというSFです。もしかしてポジティブに考えれば、コロナによって人類は進化するんじゃないかなと。進化とは要するに突然変異と自然淘汰です。まさしく今、僕たちの日常が突然変異してしまったわけで、それに適応できなければ淘汰されるしかない。

 集団化という属性がどのように変わるかということも含めて、僕は国民国家的な概念が変わるんじゃないかなどと思っています。国の垣根が意味をなさなくなってきた。世界中同じレベルで、アジアもヨーロッパもオセアニアもアフリカだけではなく小さな島国も含めて、ウイルス対策をしないと、自分たちのなかで感染者がいなくなってもアフリカで感染者がいたら、結局リスクは軽減しない。これを実感すれば、国民国家を単位とする世界の構造というか意識は、まあもちろんゆっくりとですが、変わるんじゃないかと思っています。》

5月23日Wee Need Culture 記者会見(筆者撮影)
5月23日Wee Need Culture 記者会見(筆者撮影)

 ミニシアターへの支援という社会的行動があれだけ大きな広がりを見せたのは、深刻なコロナ危機の中で、自分たちの手で何とかしようという吉岡さん言うところの「社会的力」が働いたのだと思う。同時に安倍政権への支持率が大きく下がったのも同じことの現れだろう。

 今回のコロナ危機が市民の意識に何らかの変化をもたらしたのは確かだろう。「ポストコロナ」はどんな時代で、社会がいったいどう変わるのか。私たちはそれをもう少し注意して見ていかなければならないと思う。その意味でも、ミニシアター支援の予想外の広がりや、映画・演劇・音楽をめぐる「Wee Need Culture」という動きに注目したい。

※月刊『創』7月号特集内容は下記を参照いただきたい。

https://www.tsukuru.co.jp/gekkan/2020/06/20207.html

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

篠田博之の最近の記事