木嶋佳苗死刑囚と『週刊新潮』デスクの結婚が示した死刑囚と「家族になる」ことの意味

『週刊文春』の記事を報じるスポーツ紙(筆者撮影)

 首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗死刑囚と『週刊新潮』の担当デスクが1年以上前から結婚していたという事実を5月23日発売の『週刊文春』がすっぱ抜いて話題になっている。5月2・9日号の記事の見出しは「木嶋佳苗獄中結婚のお相手は『週刊新潮』デスクだった」というもので、発売日のスポーツ紙や翌日のTBSのワイドショーが大きく取り上げていた。

 木嶋死刑囚に『週刊新潮』が食い込んでいたのは知られている。最高裁で死刑判決が出た2017年4月には木嶋死刑囚が心情をつづった長文の獄中手記が同誌4月20日号に載った。その直後に私も木嶋死刑囚に接見しているが、彼女にとって、死刑判決確定後どうするかは大きな問題だった。

 周知のとおり、木嶋死刑囚は、結婚した相手男性が次々と不審死を遂げたことで大きな事件になったもので、獄中に入ってからも支援の男性が2人、相次いで彼女と結婚するなど話題になった。TBSの「ビビット」では、そうした一連の彼女の結婚遍歴を取り上げ、「魔性の女」ふうにまとめていたが、死刑確定者にとっての「結婚」は、普通に言われる市民社会での結婚と意味が違う。そのことがあまり説明されていなかったため、見ていた人にはわかりにくかったように思う。

死刑確定者にとって「結婚」の持つ意味は 

 死刑確定者は家族と弁護人以外は、基本的に面会も手紙のやりとりもできなくなる。その社会との隔絶にどう対処するかは、死刑囚にとって大きな問題だ。その対処法として、支援してくれる人間と養子縁組や結婚によって家族になるというのは珍しくない。和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚も、附属池田小事件の宅間守死刑囚(既に執行)もそうだった。

 私も連続幼女殺害事件の宮崎勤死刑囚と12年間接していたが、宮崎死刑囚の死刑が確定する前、彼が最も関心を持っていたのが、確定後、外部とのやりとりをどうするかだった。幸い、その時は、宮崎死刑囚の母親を仲介して手紙をやりとりすることができた。宮崎死刑囚は、母親あての手紙を書くのだが、その手紙は途中から私宛の内容が書かれ、それが私に転送されてくるというやり方だった。

 しかし、長年続けるうちに拘置所もそのやり方に気づき、手紙を不許可にするケースが増えた。このままだと、そのうち宮崎死刑囚と養子縁組とか、そんなことを考えざるをえなくなる時期が来るかもしれないなと、私は思っていた。しかし、現実にはそれを具体的に考える前に彼は死刑執行されてしまったのだった。

 木嶋死刑囚の場合は、実の母親とうまくいっておらず(死刑囚と家族との関係は、事実上の絶縁という事例が多いのが現実だ)、外部の支援者に頼むしかなかったわけだ。

 そこで木嶋死刑囚は、2015年に支援者男性と結婚して改姓したが、その男性が交通事故で入院し、面会などができなくなると、2016年に離婚し、別の男性と再婚している。そして入院していた男性が退院して復縁を求めると養子縁組した。死刑確定を前に、2人の男性と家族になっていたわけだ。

 木嶋死刑囚は周到で頭も悪くない女性で(面会室で私がそう指摘すると、即座に「いやいや、そんなことない」と否定したが)、そうした手続きについてはいろいろ調べて対処していた(ついでに書いておくと、マスコミは木嶋死刑囚の写真のイメージの悪いものを使いすぎていると思う。こういう女性になぜ多くの男性が騙されたのかという話を際立たせるためだろうが、実際の彼女のイメージは、流布されている写真のイメージとはいささか異なることも指摘しておきたい)。

 

『週刊新潮』デスクの思いと経緯は… 

 そして今回わかったのは、2018年1月に彼女は、『週刊新潮』の担当デスクと結婚していたということだ。他の男性とうまくいかなくなったのか、詳細はわからない。あるいは彼女はその『週刊新潮』編集者がお気に入りだったから、死刑囚へのアプローチを続けたいという男性編集者の思いと一致したということなのかもしれない。

 今回の『週刊文春』の記事で驚いたのは、新潮社も『週刊新潮』編集長もそれを知らなかったということだ。『週刊文春』の取材に対して当のデスクは「相手をもっと知りたいと思った時に、手段として結婚の形をとる方向に傾いていったのです」「結婚に後悔はありません」などと答えている。また記事では新潮社関係者が「彼は四十代前半で、記事を執筆するデスクのなかでも、宮本太一編集長の右腕であり、ナンバー2といっていい存在」と語っている。

 私は、事件取材に深く立ち入るなら死刑囚と家族になるくらいの覚悟をジャーナリストは持つべきだという考えだから、今回のことは好意的に受け止めた。でも新潮社は、会社としてどう対応すべきか困惑しているようだ。

 ネットを見ると、「職業倫理上いかがなものか」という意見が目についた。確かに木嶋死刑囚は凶悪事件の犯人ということだから、世間から見ると、問題ではないかという見方があるのかもしれない。私の編集する月刊『創』は、凶悪犯の手記を頻繁に載せており、よく読んでくれている人はどういう趣旨で掲載しているかわかってくれているが、時々『創』がワイドショーなどで取り上げられると、誌面を読んでいない人から「犯罪者を擁護するとはけしからん」という抗議が寄せられたりする。『週刊新潮』の今回のケースも、世間からどう受け止められるのか気になるところだ。

 だからそのデスクのためにも言っておきたいが、刑が確定したとたんに情報が隔絶され実態が隠されてしまう死刑囚の現実を記録し、世に提示するのは、ジャーナリズムの大事な仕事だと思う。

死刑囚と「家族になる」様々なケース 

 社会から隔絶されてしまう死刑確定者と「家族」になることの意味、と先に書いたが、これにはいろいろなケースがある。例えば宗教者が死刑確定者と縁組するケースで、前述した宅間守死刑囚と獄中結婚した女性も敬虔なキリスト教徒だった。

 私が知り合って2014年に『創』に手記を掲載した女性もクリスチャンだが、2011年に死刑が確定した男性から、前年の12月に養子にしてほしいと依頼を受けた。悩んだ末に彼女はそれを承諾するのだが、『創』でこう語っていた。

 《死刑囚と養子縁組するというのは、もしかしたら多くの人にとっては考えられないことかもしれません。私は悩んだ末に2011年1月に決断して、淳君の弁護士にそれを伝えるのですが、恐らくそうした決断の背景には、私の信仰があると思います。》

 彼女には、夫も子どももいたのだが、死刑囚と養子縁組するというのは、その家族の戸籍にある日突然、アカの他人の死刑囚が入ってくるということだ。これはなかなか簡単にできることではない。その時は良いとしても、将来、子どもが結婚しようとする時に、否応なく問題になる。

 罪を犯した死刑囚を、自分の信仰心から救おうというのが宗教者の動機だとして、ではジャーナリストがそういう覚悟を迫られた局面で考えるべき「覚悟」とは、何のためのどういうものなのか。そういう問題を考えるためにも、『週刊新潮』のデスクにはぜひ詳細を語ってほしいと思う。

 なお木嶋死刑囚と接見した時の話を、私は2017年にヤフーニュースに書いている。興味ある方はご覧になってほしい。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20170608-00071850/

首都圏連続不審死事件・木嶋佳苗死刑囚の「ある決意」の行方