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「日野不倫殺人事件」北村有紀恵受刑者をめぐる24年目の新展開

篠田博之月刊『創』編集長
1994年2月の逮捕時の報道

無期懲役で服役中の「日野不倫殺人事件」北村有紀恵受刑者から先日、手紙が届いた。

事件は24年前、1993年12月に日野市で放火があり、子ども2人が焼死。94年2月に逮捕されたのが、夫の不倫相手の当時27歳の女性だったというものだ。

後にこの事件をヒントに書かれた小説が、角田光代さんの『八日目の蝉』だ。小説の中では女性が子どもを誘拐して自分の子として育てようとするのだが、ドラマ化・映画化もされ、ミリオンセラーとなった。実際に北村受刑者も子どもを誘拐しようかと考えたことがあったのだが、小説は現実の事件をベースにしつつも基本的にはフィクションだ。

前回の手紙で有紀恵さんにこの小説と映画のことを知っているかと尋ねたら、獄中で小説も読み、映画もドラマも見たという返事だった。ドラマを見た後、精神的に辛くなり数日間体調を崩したという。

私はその北村受刑者とは、もう20年近くにわたって手紙をやりとりしている。2002年3月号から数回にわたって『創』に彼女の手記を掲載したのだが、接触を始めたのはその何年か前で、未決の時期に東京拘置所に何度か面会にも行っていた。

彼女が刑務所に移送される直前、彼女の家族と一緒に面会した時のことは覚えている。

移送の時に身に着ける衣類などについて家族と細かい話がなされた後、彼女の妹が泣き出した。アクリル板の向こうで有紀恵さんは「泣かないで。辛くなるから」と言った。

服役すると、これまでのように頻繁に会うこともできなくなる。無期懲役という重たい判決に、家族もこれから自分たちがどうなるのか、不安のどん底につき落とされていたと思う。

さて、24年も前のその事件のことを今回持ち出したのはほかでもない。この半年ほど、彼女の知人の間で、彼女の仮釈放を何とか実現できないかという話が出ているからだ。そのことがきっかけになって、私も無期懲役受刑者をめぐる現実などを調べ始めたのだった。特に5月15日に開かれた日本弁護士連合会主催のシンポジウム「死刑廃止後の最高刑・代替刑を考える」にはかなり触発された。

その時のパネラーの一人であった古畑恒雄弁護士の事務所を後日訪ねた。古畑弁護士は元法務省保護局長という異色の経歴で、これまで堀江貴文さんや鈴木宗男さんらの「刑務所弁護人」を務めてきた。古畑さんのその仕事を紹介した『創』2015年12月号は獄中者の関心を呼び、いろいろ問い合わせがあった。記事は現在、ヤフーニュース雑誌に全文公開している。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170612-00010000-tsukuru-soci

《異色の「刑務所弁護人」古畑恒雄弁護士の素顔》

その古畑弁護士を訪ねた時は、実は北村有紀恵さんの86歳になる父親と一緒だった。この父親、北村嘉一郎さんと私はこの1カ月ほど頻繁に会い、連絡をとってきた。そしてさらに古畑弁護士に会ったのは、有紀恵さんの仮釈放へ向けて何かできないかという相談のためだった。日弁連としても2010年12月に「無期刑受刑者に対する仮釈放の改善を求める意見書」をまとめ、無期懲役をめぐる現状を改革する取り組みを行っていた。古畑弁護士もその推進役の一人だ。

死刑問題については近年、多くの人が関わるようになり、その実態もかなり知られるようになりつつある。ただ無期懲役の実情については、私も詳しいことはほとんど知らなかった。知れば知るほど、大きな問題が横たわっていることを痛感した。

その後、古畑弁護士は正式に有紀恵さんに弁護士として委任状を書いてもらい、本格的に関わることになった。事件から24年目にして、いろいろなことが動き始めた。まだ気が遠くなるくらい出口ははるか彼方だが、有紀恵さんが入信しているキリスト教の支援グループを始め、いろいろな人が取り組みを開始した。80代半ばの両親が健在なうちに、彼女の戻る場所があるうちに仮釈放を実現できないか。その取り組みを通して、多くの人に無期懲役の現状について一緒に考えてもらう。そういう意志が少しずつ連携しながら回り始めた。

そのとっかかりとして、私は7月7日発売の『創』8月号に、12ページにわたる「日野不倫殺人事件の24年目の現実」という記事を書いた。今後もこの問題に取り組みながらその経緯を公開していくつもりだ。ぜひ多くの人に一緒に考えてほしいと思う。

これまで何人もの死刑囚を含む獄中者と関わってきて私がいつも思うのは、「罪を償う」とはどういうことなのかという問いだ。死刑というのが本当に罪を償うことになるのかどうか。それについては、例えば奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(既に執行)との関りを通して感じたことをヤフーニュースでも書いてきた。下記の記事もそのひとつだ。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20161117-00064547/

《11月17日、奈良女児殺害事件12年、小林薫死刑囚の直筆の手紙を公開する》

無期懲役をめぐる現状はどうなっていて、どういう問題を抱えているのか。その前に、まず彼女の事件について少し書いておこう。もう昔の事件で忘れている人も多いと思うからだ。

二度の中絶でひどく傷ついた

有紀恵さんが会社の上司だった高田さん(仮名)と交際を始めたのは1990年頃だった。彼は当時、妻と子どもがいたのだが、2人は深い関係になり、有紀恵さんに、妻と別れて結婚する約束をするまでになった。有紀恵さんは92年、彼の子どもを身ごもったのだが、中絶を余儀なくされる。その後有紀恵さんは93年にも再び妊娠。二度にわたって中絶する結果になって、ひどく傷つくことになった。

93年5月、二人の関係が妻に発覚する。妻は夫を追及して、目の前で有紀恵さんに別れを告げる電話をするように迫った。そして、その電話によって、有紀恵さんは、妻と離婚の話を進めているという男性の言葉が全て嘘だったことを知らされたのだった。

妻と有紀恵さんの間に立って男性も動揺を繰り返すのだが、男性からの別れの電話に有紀恵さんが納得しないでいたところ、妻が電話を代わり、女性ふたりが激しく口論となった。そうした電話での応酬はその後、何度も繰り返され、時には何時間もなされることもあった。

修羅場が繰り返されるうちに、男性は次第に、有紀恵さんと別れるしかないと思うようになっていった。有紀恵さんは精神的においつめられて93年11月、家事調停に踏み切る。そして思いつめるあまり、彼と刺し違えて無理心中しようかなどと考えるようになる。また高田氏の長男が自分が妊娠中絶した子と懐妊の時期が近いことから、自分の子の魂が入っているような気がして、誘拐を考えたこともあったという。

高田夫妻の住むアパートの部屋が放火されたのは93年12月14日の早朝だった。有紀恵さんは、妻が夫を駅まで送りに出たのを見届けた後、合鍵を使って侵入。ガソリンをまいて火を放ったのだった。直後に起きた爆発に彼女は吹き飛ばされ、スニーカーを片方現場に残したまま逃走した。高田夫妻の子ども二人が焼死するという凄惨な事件は、こうして起きたのだった。

昨今、不倫というのがいささか安易に取りざたされる風潮のなかで、この深刻な事件は、いまだに重たい問題を提起していると思う。

有紀恵さんは裁判で罪を認めながらも、1審判決を不服として控訴した。子どもたちに対する殺意を認定されたことに納得がいかなかったのと、事件当時心神耗弱に陥っていたと主張したからだ。当時、女性週刊誌などには、有紀恵さんが寝ている子どもにもガソリンをまいたという誤った記事も掲載され、彼女をひどく傷つけた。

最高裁で無期懲役の判決が確定したのは2001年のことだった。

彼女は『創』02年3月号の手記にこう書いていた。

《私は、刑を受けることにはなんの不満もありません。結果を見れば当然ですし、事件を起こす前から、中絶をしたことで私は死刑になっても当然だという深い罪悪感を持っていました。事件によってたくさんの方にご迷惑をおかけし、辛い思いをさせました。無論、無実でもありません。ですから刑を受けることには不満はないのです。ただ審理の内容にはまったく納得していません》

家族もその後の人生を贖罪に費やした

有紀恵さんのその後の状況などについてはぜひ『創』最新号を読んでいただきたいのだが、今回、私はその後、彼女の家族がどんな人生を送ることになったか詳しく書いた。マスコミが事件を報じる時に、刑が確定するとパタッと報道が止まってしまうのだが、もちろん過酷な現実はその後も続いていくわけだ。しかも本人だけでなく、家族もまた、大変な苦しみに突き落とされる。

娘が逮捕されて大々的な報道が始まってからは、有紀恵さんの家族は外出もままならないような生活を余儀なくされた。父親が自宅で経営していた製版所は、その後、閉鎖することになった。娘2人の結婚資金としてためていた財産は、裁判費用や被害者遺族などへの補償にあてられた。火災にあった団地住民へもお詫びと金銭的補償が行われた。

刑事裁判と別に被害者遺族から民事訴訟も起こされ、1000万円以上を既に納めているのだが、まだ賠償金は3000万円以上残ったままだ。私財を全て投げうっても、十分な補償はできなかった。家計も破たんし、両親はその後の半生を償いのために費やすことになった。

家族が八王子の大恩寺を訪れたのは1審の公判が開かれている94年9月だった。高田夫妻の亡くなった子ども2人が納骨されているお寺だった。死なせてしまった子どもたちにお詫びし、冥福を祈ったのだが、母と妹は涙が止まらなかったという。それを見た住職に事情を尋ねられ、「犯人の家族です」と名乗った。

北村夫妻はその後もお詫びのために何度も同寺を訪れたが、それが高田夫妻の知るところとなって翌年、子どもたちの遺骨は別の場所へ移されてしまう。しかしその後も有紀恵さんの両親はお参りに訪れ、住職がその気持ちに打たれて、有紀恵さんが仮出所したら身元引受人になってもよいと申し出るまでになった。

両親がお詫びのために足を運んだのはそのお寺だけではない。都内だけでなく関西など地方も含めて各地のお寺へお詫び行脚を行った。

「秩父巡礼とか、坂東三十三カ所、それに西国三十三カ所など、女房とふたりで回りました。

今も毎月、自宅にお坊さんに来ていただいてお経をあげてもらっていますし、12月のふたりの子どもの命日には毎年大恩寺に伺って法要をしています。

それから朝晩欠かさず近くの9カ所のお寺にお参りしているし、夜も近所のお地蔵さんにお祈りしてくるんです。

何をやったらいいのかわからなかったし、そんなことしかできることはないので、とにかく祈る気持ちでやってきました」

父親の嘉一郎さんがそう語る。朝晩のお寺や地蔵参りはもう20年以上欠かさず続けているという。

有紀恵さん本人も、キリスト教に入信して祈りを行っているほか、作業報奨金から年に1万円ほどを、高田夫妻の代理人弁護士を通じて送っている。

(注:この記事を公開した時、有紀恵さんの作業報奨金を「1カ月1000円ほどしかもらえない」と書いたが、その後、本人から手紙が届き、月1000円というのは、そういう時期もあったが、今はもっと多くの金額を得ているということだった。よって、「1カ月1000円ほどしかもらえない」という記述を削除しました)

その後、高田夫妻は東京を離れ、東北南部に移住する。有紀恵さんの親は一時、そこへも何度も足を運び、会ってもらえない時は祈念と線香やお供えをして帰るということを行っていた。

無期懲役の受刑者をめぐる厳しい現実

無期懲役とは、本来の意味は服役が無期限に続くということだが、実際には更生の可能性を信じて、条件が整えば仮釈放で社会復帰を認めるという制度だ。罪を犯した人間も変わり得るし、また変わらねばならないという考え方に基づくものだ。

あくまでも仮釈放だから刑務所を出た後も保護観察がつくのだが、かつては20年で仮釈放可能とされてきたのが近年は30年に延びている。近年の重罰化の流れの中で、05年に有期刑の最長期が懲役30年に引き上げられたため、それとの整合性をとるためにそうなったらしい。でもこの10年という月日は当事者や関係者にとっては極めて重いものだ。

ある程度の年齢で犯罪を犯した人にとって30年は相当長い。その結果、刑務所で生涯を終える人が珍しくないという。法務省のデータによると、例えば94年、95年に仮釈放された人数はそれぞれ7人、11人。一方で獄死した人数は23人、22人。つまり仮釈放で社会に復帰する人の倍以上の無期懲役囚が獄死しているのだ。95年の法務省データでは、在所年数が50年を超える人も12人いるという。

そんなふうに服役期間が長くなった結果、仮釈放されても受け皿がない、つまり家族や知人が亡くなってしまうという問題が深刻になりつつあるという。

北村有紀恵さんもまさにそのケースだ。最高裁まで争ったこともあって、確定までに7年半を費やし、現在はもう事件から24年。ただ確定からまだ16年だから、平均30年という基準から考えると、あとまだ14年もある。既に80代半ばの両親がそれまで健在でいることは困難だろう。本人だってそれまで刑務所で健康でいられる保証はない。

有紀恵さんは刑務所で2016年9月に2種2類という区分に昇格した。刑務所というのは受刑者を等級制度のもとに置き、更生が進めば等級が上がり自由度が増すというシステムだ。2種2類になると、親との接見も優遇されるし、月に一度、刑務所から家族に電話をすることが許される。その30分間の電話を家族は毎月楽しみにしている。面会の制限も緩和され、月に何度も刑務所を訪れることが可能になった。

有紀恵さんにとっても、今はまだ親が健在で帰る場所があるからこそ将来のことや罪と向き合うことに思いをはせることができる。そういう環境が消滅し、釈放されても帰る家も親もないという絶望的な状況に置かれた時には、へたをすると生きる希望さえ失ってしまいかねない。生きることへの執着や希望があってこそ、罪と向き合うという気持ちも出て来るのだと思う。

私も彼女が服役する前から、出所したら創出版で雇うからと言明してきた。自分の事件を考えるためにも社会科学を学びたいという彼女の希望は、獄の中でなく現実社会に身を置いてこそ実現できるのではないかと思う。

だから有紀恵さんには、両親が健在なうちに、そして『創』が発行されているうちに、社会に戻ってほしいと思う。

2016年6月から日本では「刑の一部執行猶予」という制度が取り入れられた(16年8月号参照)。現状では主に薬物犯に適用されているのだが、治療に専心することを条件に満期になる前に保護観察付きの釈放を認めようというシステムだ。刑務所に閉じ込めるのでなく、社会の中で更生を図ろうという考え方で、日本は今、重罰化の一方で、そういう取り組みを始めているのだ。

法務省の公開したデータを見ると、服役約20年で仮釈放が認められた事例はこの10年間1件もない。そうした実情を知るたびに絶望的な思いになりかねないのだが、同時に、このままではいけないのではないかという思いも強くなる。古畑弁護士の言葉を借りれば、何とかしてこの現実に「風穴をあけなければならない」。

果たして何ができるのか。現実は変わり得るのか。前述した日弁連のシンポでは、弁護士などからも現状を何とかしたいという思いが語られた。私もこの問題のためにしばらくの間、それなりのエネルギーを費やしていくつもりだ。その経緯は、随時、『創』やヤフーニュースで公開していくことにしよう。大きな制度を変える時には、多くの人の知恵と力が必要だ。それは一部の関係者だけでなく、多くの人たちに一緒に考え協力してもらうことによって初めて可能になるのだと思う。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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