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「最初の練習はわずか4人」元日本代表・望月重良はなぜSC相模原をゼロから立ち上げたのか?

慎武宏ライター/スポーツソウル日本版編集長
現在はSC相模原の代表取締役会長を務める望月重良氏(写真提供=SC相模原)

どんなトップアスリートであっても「現役引退」は避けられない。それゆえに注目されるのが引退後のセカンドキャリアだ。TBSの日曜ドラマ『オールドルーキー』でも綾野剛が演じる元Jリーガーの主人公がセカンドキャリアに奮闘する姿が描かれ話題になった。

Jリーガーのセカンドキャリアとしては監督やコーチといった指導者の道に進むのが一般的で、元日本代表などの実績があればテレビ解説者やサッカー教室運営なども定番だが、望月重良氏(49)が選んだ道は一般的でも定番でもない。

名古屋グランパス、京都サンガ、ヴィッセル神戸、ジェフユナイテッド千葉、べガルタ仙台、横浜FCなどで活躍し、2000年アジアカップで決勝ゴールも決めた元日本代表は今、J3のSC相模原の代表取締役会長を務めている。

元Jリーガー出身のクラブ代表はほかにもいるが、望月氏に注目すべき点はSC相模原というクラブを文字通りゼロから立ち上げたことだ。

自らの貯金を取り崩して資本金900万円を用意し、2008年2月に株式会社スポーツクラブ相模原を設立。神奈川県社会人リーグ3部からスタートしたチームを、わずか6年でJ3に昇格させた。

経営者としての手腕を発揮し、昨年からはDeNA(ディー・エヌ・エー)のトップスポンサーとしての経営参画も実現させた望月氏に、そのセカンドキャリアの始まりとこれからを聞いた。

■「監督になってJ1優勝したい」漠然とした目標あった

――サッカー元日本代表の引退後の奮闘を描いたドラマ『オールドルーキー』が話題となりました。ご覧になっていましたか?

「全話をくまなくチェックしたわけではありませんが、ドラマの存在は知っています。現役時代の華やかさだけではなく、セカンドキャリアや引退後の部分にもフォーカスが集まることは良いことだと思います。“引退”はアスリートである以上、必ずあるわけで、そのときにどんな選択をするかによって、セカンドキャリアもその後の人生も変わってくる。ある意味、“引退”は人生の分かれ目でもあると思うんです。そういう部分にもスポットライトを当てられたのは良かったですね」

現役時代の望月氏。日本代表としてAマッチ14試合出場。2000年アジアカップでは日本に優勝をもたらす決勝ゴールを決めている。
現役時代の望月氏。日本代表としてAマッチ14試合出場。2000年アジアカップでは日本に優勝をもたらす決勝ゴールを決めている。写真:川窪隆一/アフロスポーツ

――綾野剛さんが演じた新町亮太郎は元日本代表ながらJ3で現役を続け、クラブ解散で引退を余儀なくされます。望月さんも元日本代表として活躍し33歳で引退していますが、現役への未練というか引退することへの葛藤はあったのでしょうか。

「僕の場合は病気が原因でした。左足の特発性大腿骨頭壊死症(だいたいこっとうえししょう/国の特定疾患にも指定されている難病)。年を取っていくにつれて左足が瘦せ細り、完治する治療はなく、リハビリで進行を遅らせるしかない。2004年の冬にそう診断され、3年近くリハビリを続けながら現役にこだわりました。“痛みがなければ”とか“もっとできるはずなのに”という葛藤もどこかにあったのですが、最後はドクターストップもあり、自分の意志で引退を決めました」

――ある程度心の整理ができた中での引退だったと思いますが、引退後の人生設計についても準備できていたのでしょうか?

「多くの選手たちがそうするように、まずはどこかのクラブのチームスタッフから始めて、指導者になるのが王道かなぁと思っていました。実際、引退を決めた直後、複数のクラブから声をかけていただきました。ただ、フリーになって今後についてじっくり考えるのも悪くないと思い、数年間は解説者や指導者をしながら指導者ライセンス取得を並行させていましたね。Jリーグで監督になってJ1優勝したいなぁという漠然とした目標みたいなものがありましたから」

■ゼロからの立ち上げ「自分にはないアイデアだった」

――そんな望月さんがSC相模原を立ち上げます。相模原の割烹料理屋の店主から「相模原にサッカーチームを」と要請されたことがキッカケだったそうですね。ご自身でリサーチされて「これはいける」と確信して引き受けたそうですが、その根拠はどこにあったんですか?

「やっぱり街の力。相模原市が持つポテンシャルですね。人口70万人を超える大きな街なのに、相模原を本拠地とするプロチームがひとつもなかった。僕は(静岡県)清水市で育ったし、名古屋、京都、神戸、市原(現ジェフユナイテッド千葉)、仙台、横浜FCとプロとして6チームに所属しましたが、いずれのクラブも地域の力に支えられ、興行的にも成り立っていました。そういう観点からすると、70万人以上の人口があるのにプロクラブがないっていうのが、逆に不思議な感じがしたというか、そこに大きな可能性を感じ、挑戦したいと思いました。サッカーチームを作る。しかもゼロから立ち上げるということが、それまで自分になかったアイデアというか考え方だったので、“チャレンジしてみる価値はある”と思いましたし、なぜかわからないけど“できる”という根拠のない自信みたいなものもありました。立場やアプローチは変わっても、サッカー業界という自分がやってきたフィールドであることは変わりなかったので」

――ただ、ゼロからクラブを立ち上げた。もっと楽な方法もあったと思います。

「実際にとあるクラブを買収してそこからスタートしないかと誘われたこともあります。ただ、せっかくやるなら、やはり地域に愛されるクラブにしたい。Jリーグには地域密着という理念がありますが、ゼロから作り始めたほうがが地域の人たちも愛着を抱きやすい。ありものをどこかから持ってくるよりも、地域の人々と一緒にクラブを作っていくほうが地元に根付くということを、選手時代に肌で感じていたので、ゼロから立ち上げるほうを選びました」

■経営用語もわからず…練習参加「4人」からのスタート

――2008年2月に(株)スポーツクラブ相模原を立ち上げます。資本金は900万円。貯金を取り戻して法人を立ち上げ、神奈川県3部リーグからスタートします。立ち上げ当初はクラブの代表と監督を兼任されたそうですね。

「最初の練習に参加したのはわずか4人しかいなかったんです。場所は小さな公園で、外灯の下でパス練習をしたことを今でも覚えています。その後、セレクションなども行って試合ができるほどの人数となりましたが、元Jリーガーは2名くらいであとはアマチュア。それに練習場の確保から試合日の会場設営、ライン引きまで、何もかも自分たちでやらねばならなかった。僕はJリーグで11年間プレーしたのですが、すべてが整い用意された環境に慣れていた分、草サッカーレベルの環境にかなりギャップを感じ、慣れるのに一苦労しました。ただ、クラブの代表として会社の経営もしていかなければいけない。試合がないときはスポンサー獲得やホームゲームの宣伝のために、それこそ飛び込み営業のようなこともしましたから大変でした。特に苦労したのが、スポンサーの確保です。地元の企業に出向いてお願いしに飛び回りました」

立ち上げ当初のSC相模原。右端が望月氏。この頃は監督兼代表を務めていた。(写真提供=望月重良氏)
立ち上げ当初のSC相模原。右端が望月氏。この頃は監督兼代表を務めていた。(写真提供=望月重良氏)

――もともとクラブ経営に興味や知識があったりしたのですか?

「まったくなかったですね。会社法人を立ち上げたこともなかったし、PL(損益計算書)やBS(貸借対照表)という経営用語も初めて聞きましたから。そういった専門用語などを含めてわからないことがあったら、自分で調べたり、人に訊いたり。サッカーしかやってこなかったので、一から調べて学んで実践。その繰り返しでした」

――引退後にビジネスの知識や社会人としてのスキルを身につけるのに悪戦苦闘する元選手は多いと思いますか?

「最近は現役生活と並行しながら会社を経営したり、ビジネスを展開したりするなど、サッカー以外にも興味を持っていろいろとやっている選手も増えていますが、まだまだ引退後に苦労する選手は多いと思いますよ。少なくとも僕らの時代は、“選手はサッカーだけやっていればいい”という感じでしたから」

■縁もゆかりもない場所 信用を勝ち取るには「結果しかない」

――だからこそ偏見もあったのでは? 元Jリーガーにクラブ経営が出来るのか、みたいな……。

「僕は相模原には縁もゆかりもない人間なので、地元の人からすると“よそ者が来て何か企んでいるぞ”という怪しさもあったかもしれません。最初は今ひとつ信用もされていなかったと思います。当たり前ですよね。元日本代表のJリーガー出身とはいえ、まだ何もない状態の中で大きな夢を語ってはお金を出していただけませんかと訪ねて来るわけですから。ただ、信用を勝ち取っていくには、まずは結果しかないと思っていました。真剣にJリーグを目指している、もしくは勝ってカテゴリーを上げてJリーグに着実に近づいているという結果を示していくことが信用にも繋がると思ったので、クラブを立ち上げて3~4年目ぐらいまでは休むことなく、動きに動きましたね」

―実際にSC相模原は毎年カテゴリーを上げて、2013年にはJFLに、2014年にはJ3を戦いました、08年にアマチュアからスタートし、わずか6年でJ3昇格。その要因は何だと思いますか?

「いろいろありますが、“勝つための組織作り”を徹底したことが良かったのではないかと思います。どのカテゴリーで戦うときも必ず、今いるレベルよりも1つか2つ上のレベルを自分たちの基準にして、そのレベルで互角に張り合えるぐらいの戦力を整えることを意識しましたし、チームが強くなるために必要だと思った選手は、僕が直接出向いて獲得に行きました。それができたのも、立ち上げから数年間はクラブの代表兼監督のような立場だったからでもあります。そういった“組織作り”においてアドバンテージになったのは、自分のサッカー経験です。高校、大学のアマチュアレベルから始まり、Jリーグでは6つのクラブを渡り歩いて、様々な現場や選手を見てきた。その過程で培われていった“サッカーを見る目”が、今も僕のアドバンテージ になっていると思います」

2020年シーズンではJ3リーグ2位でJ2昇格を決めた。左端が望月氏(写真提供=SC相模原)
2020年シーズンではJ3リーグ2位でJ2昇格を決めた。左端が望月氏(写真提供=SC相模原)

■「望月会長」は「望月選手」を獲得する?

――監督、そしてクラブ代表としていろんな選手たちと接してきたと思いますが、もしも現役時代の望月重良のような選手がいたら獲得に動きますか?

「難しいなぁ(笑)。というのも、Jリーグが立ち上がった頃は個性が良しとされ圧倒的な個人技を持つチームが結果を出しましたけど、今のサッカーは個ではなく組織で戦わなければ勝てないし結果も残せない。そういう文脈からすると選手・望月は扱いづらいんですよ。チームに必要ではあると思いますが、わがままでしたから(苦笑)」

――ちなみに、選手時代を振り返って後悔や反省はありますか?

「相当な自信家であったことは間違いないですが、それでも選手時代に関して自分が選択したこと、やってきたことに後悔はないですね。あのときは“それが正しい”と思っていたし、今もその気持ちは変わらない。“もっとこうしておけば良かった”というものはありますが、それは後悔や反省の念ではなく、人間としてあの頃よりも成長し成熟した証だと思っています」

■スポーツチームは地域に根付いた公共財になるべき

――SC相模原でも決して順風満帆ではなかったと思います。クラブ経営で挫折や失敗もあったのではないでしょうか?

「長くやっているので、挫折に失敗に紆余曲折の連続です。スポンサー契約は1年契約が多いので更新されなかったらクラブの収益に直結します。資金集めという点では今も苦労は絶えませんし、興行や観客動員がうまく行かず、心が折れてしまいそうになったことも何度かあります。クラブから離れていく人も出てきて、思わず立ち止まってしまいそうになったときもありましたが、できなかった。それはやはり、クラブに対する責任というものがあったからだと思います。サッカーチーム、もしくはスポーツチームはその地域に半永久的に根付く公共財というかパブリックなものになるべきだと、僕は思っているんですよ。だからこそどうしても、立ち止まるわけには行かないんです」

「クラブは地域の公共財でありパブリックなものであるべき」という信念が望月氏を突き動かしてきた。(写真提供=SC相模原)
「クラブは地域の公共財でありパブリックなものであるべき」という信念が望月氏を突き動かしてきた。(写真提供=SC相模原)

―そういう意味でも昨年からDeNAがトップスポンサーとして協賛する形で経営参画することになったのも大きいのでは?

「SC相模原の年間予算規模は昨年度で8億円弱です。立ち上げ当初は年間予算2000万円前後でしたから、この数字だけ見てもクラブの成長を感じることはできますが、上を目指す以上、予算規模も15億円、30億円と大きくしていきたい。J1を戦うには50億円近くの予算規模も必要だと言われています。つまり、J3からJ2、J2からJ1を目指すクラブの中期・長期的な将来像を考えると、ジャスト・タイミングでの経営参画になってくれたと思いますし、期待しています」

■クラブ経営に元選手が関わる…欧州のように「定着」期待

――望月さんの個人的な目標としてはどうでしょう。望月さんだけではなく、近年はセレッソ大阪の森島寛晃社長など元Jリーガーのクラブ社長も増えています。昨季まで北海道コンサドーレ札幌の社長だった野々村芳和さんは今年からJリーグのチェアマンになりました。望月さんは現在、SC相模原の代表取締役会長を務めていますが、今後のビジョンはどのように描いていますか?

「まずはSC相模原をもっと成長させて、サッカーの実力はもちろん、経営面でも強くして地域に愛され必要とされるクラブにすることが一番の目標です。クラブが大きくなったら優秀な経営のプロを迎え、僕はほかのポジションに移ってもいいとも思っています。立ち上げには携わりましたが、今の立場に固執する気はないんです。ただ、どんな形であれ、サッカーに携わる仕事はしているでしょうね。これから先のことはわかりませんが、それだけは間違いないと思います」

――望月さんらの存在によって、Jクラブの社長や代表などクラブ・マネジメントに挑戦したいと思う選手たちも増えるかもしれません

「選手時代に培われた現場の知見は、クラブ経営においても必ずプラスになるはずですから、これからもっと増えると思います。ドラマ『オールドルーキー』でも選手の思考を熟知する主人公がアスリートたちと心を通わせながら、さまざまな状況を打開してビジネスを成功させていくじゃないですか。サッカークラブにおいても現場を知る元選手の意見や行動が、経営サイドにヒントを与えたりチームをまとめたりする力になる。ヨーロッパでは社長やトップではなくとも、クラブの経営にかかわる大事なポジションに元選手を置くことが常識です。日本でもクラブ・マネジメントが、選手たちのセカンドキャリアのひとつとして定着することを期待したいですし、この仕事に興味や可能性を感じているのならぜひ飛び込んでほしい。失敗を恐れずにチャレンジし続ければ、きっと道は開けるはずですから」

望月重良氏(写真提供=SC相模原)
望月重良氏(写真提供=SC相模原)

■望月重良(もちづき・しげよし)

1973年7月9日生まれ。静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身。清水商業高校、筑波大学を経て1996年に名古屋グランパスでJリーグ・デビュー。以降、京都パープルサンガ、ヴィッセル神戸、ジェフユナイテッド千葉、べガルタ仙台、横浜FCなどでプレーし、2007年1月に引退。Jリーグ通算200試合18得点を記録。日本代表としてはAマッチ通算14試合1得点。2000年アジアカップ決勝では優勝をもたらす決勝ゴールを決めた。2008年2月に自ら出資して創設したSC相模原の代表に就任。日本サッカー協会S級ライセンスも保持しており、2011年までは監督も兼任した。2015年10月からはSC相模原の取締役会長を務めている。

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ライター/スポーツソウル日本版編集長

1971年4月16日東京都生まれの在日コリアン3世。早稲田大学・大学院スポーツ科学科修了。著書『ヒディンク・コリアの真実』で02年度ミズノ・スポーツライター賞最優秀賞受賞。著書・訳書に『祖国と母国とフットボール』『パク・チソン自伝』『韓流スターたちの真実』など多数。KFA(韓国サッカー協会)、KLPGA(韓国女子プロゴルフ協会)、Kリーグなどの登録メディア。韓国のスポーツ新聞『スポーツソウル』日本版編集長も務めている。

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