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夢を追って日本→豪州→東欧を渡り歩く“名もなきフットボーラー”の実像

慎武宏ライター/スポーツソウル日本版編集長
李東俊の移籍を伝えるクロアチア現地メディアの記事

ヨーロッパ・サッカーの新シーズン開幕が相次ぐ中、やはり注目を集めているのは、移籍組に関する話題だ。

例えば本田圭佑がACミランからメキシコリーグのCFパチューカに移籍したことは大きな話題になっているし、ガンバ大阪の堂安律がオランダ・エールディヴィジのフローニンゲンへ移籍したことも今シーズンの注目トピックスだろう。最近では、元日本代表の松井大輔がポーランド2部のオドラ・オポーレに完全移籍することがニュースになった。

そんなビッグネームたちの海外挑戦の影に隠れているが、Jリーグ経験もない “名もなきフットボーラー”たちも続々と海外に飛び出している。スポットライトこそ当たらないが、日本を飛び出してサッカーでその青春を燃やす若者たちは少なくない。

在日コリアンの李東俊(イ・トンジュン)もその一人だ。東京で生まれ育った24歳は、日本ではなかなか伝えられることのない、興味深いサッカー人生を歩んでいる。

彼がプレーしてきたのは、オーストラリアとポーランド。職業柄、多くの在日コリアン・フットボーラーたちを取材してきたが、南半球と東欧でボールを蹴ってきたという選手は珍しい。

(参考記事:日韓スポーツ交流を支えた知られざる在日コリアン・アスリート列伝)

インターネットでエージェントを検索する時代

ただ、李東俊が生まれ育った日本のJリーグでも、ルーツがある韓国Kリーグでもなく、はるか遠くに離れたオースラリアとポーランドでプレーするに至った理由は単純だ。

「プロサッカー選手への夢を諦めたくない」。ただ、その一心だったという。

「夢見る子供じゃありませんから、高校を卒業するくらいになると、自分が置かれた状況というものはある程度はわかるものです。ただ、だからと言ってそのままずるずるプレーしていたら、選手として終わってしまう。それなら一発チャレンジしたい、そんな一心でした」

大学3年生だった2014年の夏、彼はそう考えたという。高校時代も全国大会出場は叶わず、大学に進学してからも日本でプロになる可能性は「厳しい」と感じていた。だが、それでもプロになるという夢は諦めきれなかったというのだ

驚くべきは、そこで彼が探し当てた方法だ。李東俊はインターネットでプロ契約を目指すサッカー留学や海外クラブへのトライアウトを紹介してくれるサッカーエージェント会社を検索し、自らコンタクトを取ったというのだ。

もっとも、李東俊よれば「今はみんなやっていること」らしく、「知人のツテを頼って海外に出る人もいますが、ストレートにJリーグに行けなくてそれでもプロとしてサッカーを続けたいという選手や、海外のクラブを探している選手だと、この方法を取る人は多い」のだそうだ。

いくつかのエージェント会社と相談する中で、彼が選んだのは、オーストラリアの首都シドニーに本拠地を置くマウンティーズ・ワンダラーズFCだった。

オーストラリア3部リーグに相当するNPL2に属するクラブだーが、プロサッカーが盛り上がりを見せているオーストラリアの状況と、将来を見据えて英語圏でサッカーをしたいという思いが合致しての決断だった。

初の海外挑戦で感じた理想とのギャップ

ただ、初めての海外挑戦は、思い描いていたものとは少々違っていたという。

「正直、レベルはJリーグよりも低かったし、環境も良いとは言えなかった。スタジアムも小さいし、注目度も給料も低い。想像していたプロ生活とはかなりギャップがありました」

給与は月給14万円程度から始まった。アルバイトをしながら週に2~3回の練習と週末の試合をこなした。加えて英語を習得するまではサッカーそのものにおいても困難が多かった。「チームメイトにも言いたいことが言えずストレスが溜まった」と話す。

それでもさらなるステージを夢見てサッカーに打ち込み、オーストラリアでは2年間プレーしている。その中で、海外でプレーするメリットも感じたそうだ。

「当たり前のことですが、国によってサッカーの色がまったく違う。それを感じられたのはよかった。例えば日本は技術は高いけれど、フィジカルはオーストラリアの方が強い。コンタクトも激しいし、一対一の強さが前提にあるんです」

以前インタビューした高萩洋次郎(FC東京)も、オーストラリアやKリーグでのプレー経験や日本との違いを知ったことが「自分にとって新たなプラスアルファになった」と語っていたが、レベルがどうであれ李東俊にとっても大きな経験になったのだろう。

(参考記事:日本人Kリーガー高萩洋次郎が語る「日本と韓国の違い」)

海外でプレーする意味と可能性

そんな経験値をさらに高めるべく、今年1月からはポーランド4部リーグのビネタゴリンに活躍の場を移している。オーストラリア生活1年目の終わりにはアメリカでプレーしたい気持ちもあり、自ら手当たり次第にクラブにコンタクトをとったこともあったというが、なぜポーランドを選んだのか。

「狙いは、東ヨーロッパで実績を積んでステップアップしていきたいというところにあります。オーストラリアにいたとき、僕たち日本からやってきた選手たちは、エージェントが用意してくれた選手寮で一緒に生活していたんですが、そこで以前、ポーランドでプレーしていた日本人選手と知り合ったんですよ。その彼から、“初めからドイツやイタリア、スペインではプレーできないから、まずは東ヨーロッパで…”って話を聞いたことも、東ヨーロッパを意識するようになったキッカケにもなりましたね」

李東俊によると、多くの“名もなき選手”たちが海外でそれぞれの夢を追いかけており、おのずと交流が生まれ、互いに情報交換するという。

オーストラリアには「日本人選手は100人以上は確実にいた」そうで、彼のような若手だけでなく、30歳を過ぎた選手もいたらしい。こうした仲間たちとの交流があったからこそ、ポジティブに新天地を決められたのだろう。

日本と韓国の選手たちが交流した“チェンマイの夜”でもその尊さを実感したが、改めて国も民族も超えたサッカー交流の素晴らしさを実感させてくれるエピソードでもある。

(参考記事:日本と韓国のサッカー黄金世代たちが語り合った伝説の“チェンマイの夜”を完全再現!!)

李東俊も、「実際に行ったことがなかったし、ポーランドのサッカーのことも詳しくありませんでしたが、同じサッカー仲間たちから生きた情報を聞けたのが良かったですよね。海外でサッカーをするうえで情報交換はとても大事です」と、笑う。

ただ、世界を転々とするその歩みは軽やかにすら見えるが、だからこそ気になるのは、どうしてそこまでプロにこだわるのかということだ。

「往生際が悪いと言えばそうなのかもしれません。でも、やっぱりサッカーが好きだから。それに、可能性も感じるんです。海外からプロ生活を始めて、Jリーグに逆輸入する選手だっている。プロ選手として、どんどんレベルの高いところでやっていきたいという思いは捨てきれません」

確かに可能性はある。今年、ブルガリア1部のベロエ・スタラ・ザゴラでプレーする加藤恒平が日本代表に招集されたことはその象徴だ。今の時代、東ヨーロッパでプレーする選手が日本代表に選出されることもあり得なくはないのだ。

そんな事例を励みに、明日の成功を夢見て今もサッカーに生きる李東俊は、今季から3カ国目のリーグでプレーすることになったという。

今度はクロアチア。3部リーグのNK Opatijaというクラブとプロ契約を交わしたという。そのことは現地メディアでも報じられたというのだから、満更でもない。“名もなきフットボーラー”にスポットライトが当たると思うと、不思議と胸も熱くなる。

現地時間で8月26日には開幕するクロアチア3部リーグ。今ははるか西にいる李東俊が送ってくれたLINEのメッセージにも、「いよいよ開幕です!!」と高揚感が伝わってきた。

開幕したヨーロッパ・サッカーの新シーズンでは、彼ら“夢追い人”の動向にも注目することも、悪くなさそうだ。

ライター/スポーツソウル日本版編集長

1971年4月16日東京都生まれの在日コリアン3世。早稲田大学・大学院スポーツ科学科修了。著書『ヒディンク・コリアの真実』で02年度ミズノ・スポーツライター賞最優秀賞受賞。著書・訳書に『祖国と母国とフットボール』『パク・チソン自伝』『韓流スターたちの真実』など多数。KFA(韓国サッカー協会)、KLPGA(韓国女子プロゴルフ協会)、Kリーグなどの登録メディア。韓国のスポーツ新聞『スポーツソウル』日本版編集長も務めている。

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