新型コロナウィルスによる肺炎のため、昨年3月に急逝した志村けんさん。その志村さんの三味線の師匠だった上妻宏光さんが、秘話を語ってくれました。ソロデビュー20周年を迎えた上妻さんにとって志村さんの存在は大きく、今でも忘れられない言葉があると言います。

—志村さんは、上妻さんにとって唯一のお弟子さんだったそうですね。

 弟子を取る考えは全くなかったのですが、志村さんの本気度を前にして気持ちが変わりました。

 最初にお会いしたのは、ラジオ番組でした。僕のオリジナル曲『紙の舞』を志村さんが「いいよね~」と気に入ってくださって、番組終了後、飲みに誘われたんです。その時の「三味線をやりたい」はリップサービスだと思っていたら、これが“マジ”で。次にテレビ番組でご一緒した時にも「俺、本当に三味線やりたいんだ」という話をされまして、2回もおっしゃるなら本当だろうと。

 志村さんは、従来の三味線の音の出し方や演奏の仕方ではない“僕のスタイル”を気に入ってくれました。細かいニュアンスを必要とする演奏で、僕が特別気を配っているところでもあるんですが、志村さんはそこを「上妻さんの出す音が、俺、キュンとくるんですよね」と言ってくれて。「先生の音は違うんだ。俺、大好きなんですよね」という言葉は、三味線をやってきて本当にうれしかったことの一つです。

 志村さんは、何十年も第一線でコントを生み出してきた大先輩ですが、世界は違っても、生みの苦しみをお互い分かり合えると言いますか、そういう方が真剣に“ツボ”を押してくるんですよ。そうなったら「俺でよければ教えます!」となりますよね。

—どういったお付き合いでしたか?

 夕方4時〜6時まで稽古をして、終わった後は毎回朝の5時くらいまで飲みに行っていました。芸事・お笑い・音楽、たまにふざけた男の話もしましたけど(笑)。

 志村さんは寡黙な方なので、そんなにベラベラとはしゃべりません。僕が振って、志村さんにその話題がハマったら「俺、こういう映画が好きでさ、こういうシーンがあって、自分のコントでもこう取り入れてこういう風にやりたいんだ」とアツくなる感じです。

 アツくなると“おネエちゃん”がいるお店に行っていったん冷まして、後半はおでん屋さんに行って…と最低3軒はハシゴしましたね。帰宅後も志村さんは寝られなくて、映画を1~2本観てから寝るんだと言っていました。

 稽古は、多い時で週2〜3回、トータルで17年やりました。「志村魂」という恒例の舞台がありまして、志村さんはそこで三味線を披露していたんです。舞台はコント・芝居・三味線という構成でしたが、素顔を見せるのは三味線演奏の時だけでした。

 志村さんはコントでは、よく見ないと気づかないところ、セットの小道具や細かいニュアンスをすごく考えていました。僕も三味線を派手に弾くより、小さい音にした時に全集中する。志村さんとは、「動」より「静」、そして「細かいニュアンス」という部分で共感するところが大きかったです。

—どんなお弟子さんでしたか?

 優秀・ストイック・真面目でしたね。きょうやった練習を次の練習までに、確実に体に入れてくるんです。10教えたら10覚えてくる。これはなかなか大変なことでして、例えば英会話を習っていて、翌週までに英単語を10個覚えてくる…となったら、忙しくて5個しかできなかった、とかありますよね。それが志村さんは、ほぼ100%、きょうやったことは必ず次の練習までに仕上げてきました。

—上妻さんは、昨年ソロデビュー20周年。ようやくコロナ禍による制限も緩和され、コンサート開催ですね。

 テーマは「伝統と革新」。昔からある伝統楽器で伝統曲をやりながら、新しい挑戦をします。僕は、従来と100%同じ形を受け継ぐより、現代の風を取り入れながら表現の幅を広げていき、淘汰されて残ったものが“伝統・クラシック”になると思っています。だから、今僕がやっていることは、100年後には“クラシック”です。

—いろいろな世界の方とコラボをされているのは何故ですか?

 中学生の時、“このままこの世界でやっていくと先細りになる”と思いました。どんどん演奏する人間が少なくなり、限られた人間しかやらない&聞かない世界になってしまう。それを広げたいという思いがあって、当時「ザ・トップテン」「ベストヒット」などの音楽番組を見て、歌謡曲のサウンドと三味線を一緒にできないかな、と思っていたんです。

 地元は茨城県なんですけど、早い方がいいだろうと、中学卒業後に東京に出て17歳で「竜童組」という宇崎竜童さんの系列のバンドに入り、ロックと三味線を合わせた音楽を作るようになったんです。そこからは海外に行き、自分のコンサートをやる、CDを出す、憧れのミュージシャンと共演する…など広げていきました。

—先細りになる心配をしながらも、三味線を続けた理由とは?

 最初の衝撃です。父親が趣味で三味線をやっていて、その時の衝撃が大きかったんです。音色やビート感にものすごく共鳴したというか、三味線ってカッコいい!いい音だな!という思いが、ずっと根本にあるんです。

 三味線というと、日本人の多くは「芸者さんがやるのよね」「歌舞伎ね」と、存在は知っているけど実像を知らないのが現状で。子供の時に演奏で回っていると、大人から「子供なのに珍しいね」と言われました。珍獣扱いですよ(笑)。それでも続けてきたのは、自分の中で根底にある三味線の音を多くの人に聞いてもらいたい、という思いが、ずっと積み重なっているのだと思います。

—新しいことをしていると、反発を呼びませんか?

 最初は傷ついて、嫌だと思うことはありました。津軽三味線なので、青森県の人から「それは津軽三味線じゃない」と言われたこともありました。でも、気にしていたら行動の幅はどんどん狭くなってしまうから、何とか途中で気持ちを切り替えましたね。

—なぜ乗り越えられたのですか?

 海外に行くと反応がいいんです。音楽は楽しんでナンボ!コンサートの途中で退席する人もいたりして、それを目の当たりにするとショックを受けますが、一方でスタンディングオベーションを受けて喜びも感じて。両方の気持ちがあります。

 100%の人を納得させることはとても難しく、反対もあっていいということで。そこで、自分のやってきたことに可能性はある!と思えました。

 “縦線”で深く追求していく人間は必要です。僕は、民謡・古典以外の人に発信して“横線”を広げる。裾野を広げる人間も必要なんです。分裂して増えていけば、取捨選択もできますし。

—上妻さんは“ヤンチャ”と言われることもありますね。

 そこまでのものではないですよ(笑)。若い頃は茶髪でピアスの頃もあったし、ケンカもしました。あまり人に言ったことはないんですが、海外でひったくりと殴り合いになったことも何回かありました。荷物を持っていかれて、追いかけたら相手が2~3人いて、1人とやりあっている間に横から催涙スプレーをかけられたりして。土地勘とかを考えると、やはり追いかけたらダメですね。

 とはいえ、小学校の頃から手はすごく大切にしていました。三味線のためにね。だから、今はケンカになりそうになったら、避けるようにしています。でも、大切な人が危なかったりしたら守りますよ。

—今も、大切にしている言葉はありますか?

 志村さんの言葉で、「やり続けること」。一度休憩して止まってしまうと、再始動するには1回目の何倍・何十倍の力・思いが必要になるので、止まらずやり続ける、ということです。

 この言葉は、志村さんが言うからこそ重みがあり、心に入ってきました。「仕事も三味線も…女性以外は長く続くんだ」と言っていましたね(笑)。落ち着いてよき時になったら、お墓参りに行きたいと思っています。

【インタビュー後記】

人を大切にする方だと感じました。本気の気持ちを持った人とはとことん付き合う。大事にしてくれそうです。初めてお会いしたとは思えない人懐っこさもあり、知らないうちに親しい感じで話していたことに気がつきました。三味線界では異端児かもしれませんが、やりたいことがはっきりしていて、突き進むブレなさがあります。どうかクラシックになるまで頑張ってほしいです。

■上妻宏光(あがつま・ひろみつ)

1973年7月27日生まれ、茨城県出身。いばらき大使、日立大使。6歳より津軽三味線を始め、数々の津軽三味線大会で優勝する等、純邦楽界で高い評価を受ける。ジャズやロック等ジャンルを超えたセッションで注目を集め、2000年に本格的にソロライブ活動を開始し、EU、アフリカ等、世界30ヵ国以上で公演を行なっている。2020年、ソロデビュー20周年を迎え、記念アルバム『TSUGARU』を発表。10月24日に「ソロデビュー20周年特別公演 上妻宏光 —伝統と革新— 」が東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールで行われる。