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1枚のハガキから55歳でゲーム音楽へ すぎやまこういち氏の歴史に残る英断

鴫原盛之ライター/日本デジタルゲーム学会ゲームメディアSIG代表
アルバム「すぎやまこういち ゲーム音楽作品集」より(※筆者私物にて撮影、以下同)

すでに多くのメディアで報じられているように、作曲家のすぎやまこういち氏が9月30日、敗血症性ショックのため死去した。

すぎやま氏といえば、「ドラクエ」ことロールプレイングゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズの作曲者として有名であることは、もはや改めて説明する必要もないだろう。

ところで、すぎやま氏の訃報を掲載したメディアのなかには、「ドラクエ」を機にゲームミュージックの作曲活動を始めたかのように書いたものも見受けられるが、実は同氏がゲームミュージックの作曲を手掛けたきっかけは「ドラクエ」ではないのだ。

ゲームミュージック作曲のきっかけはPC用ゲーム

そもそも、なぜすぎやま氏がゲームミュージックの作曲をするようになったのか?

2016年にスクウェア・エニックスが発行した書籍「ドラゴンクエスト30thアニバーサリー すぎやまこういちワークス〜勇者すぎやんLV85〜」よると、最初のきっかけはPC用将棋ゲーム「森田和郎の将棋」のアンケートハガキを、すぎやま氏自らが発売元のエニックス(当時)に書いて送ったことだった。

やがて、そのハガキに気付いた千田幸信氏(※後の「ドラゴンクエスト」プロデューサー)が、すぎやま氏に電話で作曲の依頼をしたところ同氏が快諾。その後、マンガを題材にしたPC用アドベンチャーゲーム「ウイングマン2 キータクラーの復活」の作曲をすぎやま氏が担当することになったという経緯がある。

本作の発売は1986年4月で、元祖「ドラゴンクエスト」の発売は同年5月だ。つまり、すぎやま氏のゲームミュージックデビュー作は「ドラクエ」ではなく「ウイングマン2」ということになる。

ほかにも、すぎやま氏は「ジーザス」(1987年)、「ガンダーラ 仏陀の聖戦」(1987年)、「アンジェラス~悪魔の福音~」(1988年)など、80年代からPC用ゲームを中心に数多くのタイトルで作曲を手掛けており、けっして「ドラクエだけ」の人ではないのだ。

ファミコン版「ジーザス 恐怖のバイオモンスター」のゲーム画面。「死神の影」などのBGMをすぎやま氏が作曲した
ファミコン版「ジーザス 恐怖のバイオモンスター」のゲーム画面。「死神の影」などのBGMをすぎやま氏が作曲した

「ゲーム≒社会悪」の時代にゲームミュージックの作曲を始めた英断

元祖「ドラクエ」が発売された1986年5月の時点で、すぎやま氏の年齢は55歳だった。当時は50代に限らず、30代でも40代でも、今とは比較にならないほどゲームを趣味にしている大人は少なかった。

また、1978年に登場した「スペースインベーダー」は全国各地で大ブームになったものの、「ゲームが青少年の非行を助長する」とか「ゲームで遊ぶのは不健康」などとマスコミや行政から袋叩きにされ、生徒のゲームセンターへの出入りを禁止する学校やPTAが続出する事態になった。

そんなこともあり、当時はユーザー(プレイヤー)も業界関係者も、誤解を恐れずに言えば社会的地位が非常に低く、ゲームを遊ぶ姿を見られるだけで学校の先生や近所の大人たちに白眼視される状況は、ファミコンブームが到来した1986年になってもあまり変わっていなかった。

筆者も小学生時代、「ゲームばっかり遊んでいたら、指先しか発達しないぞ」と授業中に50代の教頭先生に言われたり、中学生の頃には昼の校内放送でゲームミュージックを流したら先生に呼び出され、ビンタを浴びるなど大目玉をくらったこともある(※ちなみに、「ドラゴンクエストII」の東京弦楽合奏団バージョンを流した後輩はお咎めなしだった……)。

そんな時代にあっても、すぎやま氏は大のゲーム好きであることを公言してはばからなかった。

前出の「ドラゴンクエスト30thアニバーサリー」によると、幼少の頃から家族でトランプや花札、麻雀などを遊んでいたそうだ。大人になってからも「バックギャモン」や「モノポリー」、さらには「スペースインベーダー」や「ポン」など黎明期のアーケード(ゲームセンター用)ゲームにも興じ、今となっては貴重なアナログゲーム類のコレクションも持つなど、筋金入りのゲーム好きだった。

当時の大人としては珍しく、「ゲームは悪」などと偏見や先入観を一切持たず、元々ゲームに理解のある家庭で育ったすぎやま氏だからこそ、ゲームミュージックとの仕事につながる縁が生まれたように思えてならない。

スーパーファミコン版の「モノポリー」。本作のBGMの作曲者も、実はすぎやま氏だ
スーパーファミコン版の「モノポリー」。本作のBGMの作曲者も、実はすぎやま氏だ

ちなみに初代「ドラクエ」が発売されたのは、まさにファミコンブーム最盛期のタイミングだ。ビジネスとしても極めて有望な市場でありながら、すぎやま氏以外に著名な作曲家がほとんど参入しなかったのは、当時はゲームの社会的地位、評価が低かったことの裏返しであろう。

ゲームが社会の目の敵同然だった時代にあって、すぎやま氏が音楽を通じて多くの人を楽しませようと、ゲームミュージックの作曲を始めたのはまさに英断であり、日本のゲームの歴史においても極めて大きな出来事だったように思う。

さらに、すぎやま氏は作曲活動だけにとどまらず、オーケストラ楽団の演奏による「ドラクエ」シリーズなどのコンサートを精力的に開催していた点も特筆に値する。ゲームミュージックの作曲およびコンサートを通じて、ユーザーや業界関係者の社会的地位の向上に貢献したことが、すぎやま氏のゲーム業界における最も大きな功績ではないだろうか。

およそ35年にわたり、数々のゲームミュージックを世に送り出し、産業と文化の両面でゲーム業界の発展に寄与したすぎやま氏。歴史に残る英断を下したことには改めて感謝をするとともに、謹んでご冥福をお祈りしたい。

ライター/日本デジタルゲーム学会ゲームメディアSIG代表

1993年に「月刊ゲーメスト」の攻略ライターとしてデビュー。その後、ゲームセンター店長やメーカー営業などの職を経て、2004年からゲームメディアを中心に活動するフリーライターとなり、文化庁のメディア芸術連携促進事業 連携共同事業などにも参加し、ゲーム産業史のオーラル・ヒストリーの収集・記録も手掛ける。主な著書は「ファミダス ファミコン裏技編」「ゲーム職人第1集」(共にマイクロマガジン社)、「ナムコはいかにして世界を変えたのか──ゲーム音楽の誕生」(Pヴァイン)、共著では「デジタルゲームの教科書」(SBクリエイティブ)「ビジネスを変える『ゲームニクス』」(日経BP)などがある。

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