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性同一性障害と「女湯」問題-性器の外観要件も「違憲」と反対意見をつけた3人の裁判官はどう考えたのか?

千田有紀武蔵大学社会学部教授(社会学)
(写真:イメージマート)

10月25日の性同一性障害の特例法の大法廷は、戸籍の性別変更の審判の際に「生殖腺がないか、その機能を永続的に欠く」という手術要件を、裁判官の全員一致で「違憲」としました。ただ性別移行のためのもう一つの条件、「変更する性別の性器に似た外観を備えている」という外観要件は、最高裁では「違憲」とは判断されず、高裁に差し戻されました。

女性から男性へと移行しようとするひとは、ホルモン治療による性器の変化で「(ペニスという)外観」を備えていると考えられることが多いので、女性から男性への戸籍の性別変更のハードルはぐっと下がったと言えるでしょう。よかったと思います。

しかしこれまで一貫して問題となってきたのは、男性から女性に移行することです。高裁に差し戻されましたが、15人の裁判官のうち3人の裁判官が、外観要件を「違憲」だと判断しています。ここではその根拠を、とくにこれまでよく問題とされてきた「女湯」との関係で、裁判官がどう考えているのかをまとめてみようと思います(なので、ここでは性同一性障害のひとを男性から女性に移行しようとしているひと、不安を感じるひとを女性として読み解いてみます)。

三浦守裁判官の意見

外観要件を満たすためには外科手術をするか、ホルモン治療をするしかない。手術は、「生命又は身体に対する危険を伴い不可逆的な結果等をもたらす身体への強度の侵襲である」し、ホルモン治療も「生命又は身体に対する相当な危険又は負担を伴う身体への侵襲」ということができる。そもそも外観要件が要求されるのは、公衆浴場などでの社会生活上、混乱を生じる可能性があるからである。風呂は、厚生労働省の助言を受け、条例で男女別などと定められている。風呂に入るときに、法的性別を確認されるわけではない。

これらを踏まえると、性同一性障害のひとは社会全体からみれば少数である上に、性別適合手術を受けたひとも多くいる。性同一性障害のひとは、医者にかかりながら性別移行したいひとたちなのだから、女(文中では「他の性別」)に受け入れられたいと思いながら、女のひとたちを困惑させ、混乱させると考えること自体が、非現実的である。

このことからすると、手術要件がなかったとしても、性同一性障害のひとが公衆浴場を利用しても混乱が起こることは、「極めてまれなこと」と考えられる。また特例法は、例外を求めてはいけないとは書いていないので、別に法律をつくることもできる。混乱の可能性は極めて低いのだから、利用者は安心して公衆浴場をつかうことができる。

外観要件がなければ、「心は女」といって女湯に入ってくるという指摘もあるが、外観要件は、医師が診断した性同一性障害のひとが性別変更するための規定なのだから、この規定がなくても女湯には入れない。不正があれば対処すればよく、そのことは性同一性障害のひとの権利を制約する「合理的関連性」にはならない。

特例法ができて19年が過ぎ、1万人を超えるひとが性別変更をして、理解は広まりつつあると同時に環境整備もなされてきたのだから、外観要件がなかったとしても社会的な混乱が生じる可能性は低く、今まで通り(女性たちが)お風呂を安心して使い続けることが、社会全体にとって理解が困難だとは思われない。

またトイレや更衣室の利用にかんしても、トイレは他人の性器などは見ないのであるし、性器にもとづいて(男女が)区別されているわけではないので、外観要件は関係ない。安全にトイレを使うことは生活していくうえで不可欠で、それは性同一性障害のひとも同じである。トイレの使用によって、外観要件を維持する合理的な理由はない。

外観要件は、憲法13条違反である。

草野耕一裁判官の意見

外観要件を満たすためには、手術を受けなくてはならないが、「手術はそれ自体が申請者に恐怖や苦痛を与えるものであり、加えて、これらの手術を受ける者は感染症の併発その他の生命及び身体に対する危険を甘受しなければならない」。この外観要件は、公衆浴場等での社会生活上の混乱が起きるとされるが、これは「己の意思に尽して異性の性器を見せられて羞恥心や恐怖心あるいは嫌悪感を抱かきれることのない利益」を保護することだと考えられるだろう。これは尊重されるべき(女性の)利益だろう。いろいろな利益が対立したりするが「最善の視点」で、外観要件があるほうがいいか、ないほうがいいか考えてみよう。

外観要件が合憲の社会では、女湯の女性たちは男性器を見なくて済むが、性同一性障害のひとは、身体への侵襲を受けない自由を手放して我慢して手術を受けるか、「性自認に従った法令上の性別の取扱いを受ける利益の享受を断念する」しかない。女の人たちが男性器を見なくて済むという静謐な社会ではあるが、それは手術をしないひとの「自由ないし利益の恒常的な抑圧によって贖われた(あがなわれた)もの」にほかならない。ホルモン治療で外性器が変化していたとしても、それはあてはまる。

外観要件が違憲の社会を考えてみよう。女性たちが見たくもないのに男性器を見せられることが起こるかもしれない。しかし、2つの点に注意すべきだ。

第一に性同一性障害の人の数は少なく、手術をしている人も多く、手術をしていない人は少ないうえに、女性たちが男性器を見たくないと知っているのに、あえて女湯に入場し、男性器を見せるような行動をするひとはもっと少なく、存在するとしても、「ごく少数」にすぎないだろう。だから、女性が意に反して男性器を見せられる「可能性はそもそも極めて低い」。

第二に施設を業者が管理していることだ。①厚労省は男女は身体的特徴によってわけるべきといっている、②手術していないひとの入浴を禁止するか、許容するか(日時や曜日を限るなど)、あるいは中間的措置(無料か有料かでの水着を着てもらう)などのルールを定める必要があるだろう。

業者はトラブルを未然に防いで多くのひとに満足してもらいたいと考えるだろうから、細心の注意を払うので、女性たちが意に反して男性器を見せられる可能性はさらに低くなるだろう。したがって、手術要件があっても女性たちは意に反して男性器を見せられる可能性は低く、また性同一性障害のひとも手術を受けないで性別取り扱いの変更を受ける利益が与えられ、自由や利益に対する抑圧は大幅に減少する。

したがって外観要件が「違憲」である社会のほうが、「合憲」である社会よりも「善い社会」であるといえる

宇賀克也裁判官の意見

「医学的必要性の有無にかかわらず、また、本人が生殖腺除去手術を受けることを望んでいるかを問わず、生殖腺除去手術を受けなければ法的性別の変更を認めない制度は、自認する性別と法的性別の不一致により多大な不利益を受けている者に、法的性別を自認する性別と一致させるために生命身体への危険を伴う生殖腺除去手術を受けることを選択するか、危険を伴う生殖腺除去手術を回避するために自認する性別と法的性別の不一致と伴う社会生活における様々な不利益を甘受するかという過酷な二者択一を迫るととになる。そして、本件規定は、生殖腺除去手術を受けない者は真正の性同一性障害者ではないという、医学的根拠のない不合理な認識を醸成してしまうおそれがあると思われる」。

「他方において、5号規定(外観要件)を廃止した場合に社会に生じ得る問題は、もとより慎重に考慮すべきであるが、三浦裁判官、草野裁判官の各反対意見に示されているとおり、上記のような過酷な選択を正当化するほどのものとまではいえないように思われる。したがって、私は、5号規定も、本件規定と同様に違憲であるとする点で、三浦裁判官、章野裁判官の各反対意見に同調する」。

裁判官の意見を読んで

ざっくりとしたまとめですので、厳密性には欠けるかもしれませんが、以上です。裁判官がどれだけ理解してくださっているかはわかりませんが、個人的には、女性たちが懸念しているのは、性暴力だと思います。女湯で、男性器を見させられること(だけ)ではなく(だから水着の着用は何の解決にもならず)、自分の身体も見られることを含む暴力的な視線であったりもするのだと思います。実際にSNS上で、男性器を隠して女湯に入ったひとの、そういったレポートがなされていたりしているからです。

だからこそ、性同一性障害の「振り」をするひとを排除するために性別変更のハードルをあげたいという考え方が起こるのですが、そこは性同一性障害のひとの性自認を尊重して欲しいという願いとの葛藤が起ってしまっているのだと思うのです。また裁判官の言うように、性別適合手術だけではなくホルモン治療も「生命又は身体に対する相当な危険又は負担を伴う身体への侵襲」だというのであったら、未成年に対するホルモン治療などはとくに、細心の注意が払われるべきだと思いました。

外観要件がなくなったら、「嘘」をついて性同一性障害のひとの振りをする加害者がいるのではないかという懸念を女性たちがもっていることを前提として読むと、「(性別適合手術という)過酷な選択を正当化するほどのものとまではいえない」という裁判官の「比較」には、胸が痛くなるものでもありました。女性たちが男性器を見たくないと知っているのに、あえて女湯に入場し、男性器を見せるような行動をするひとが存在するとしても、「ごく少数」にすぎないというあたりは、少数だったらいいのだろうかとも思いました。こういった加害者の存在のせいで割を食っているのは、性同一性障害の当事者そのものであると思います。

いずれにせよ、いろいろなひとの願いと権利が交錯して、簡単な解決法などはないと思います。だからこそ、オープンに話し合いを積み重ねていくことを願いたいと思います。

武蔵大学社会学部教授(社会学)

1968年生まれ。東京大学文学部社会学科卒業。東京外国語大学外国語学部准教授、コロンビア大学の客員研究員などを経て、 武蔵大学社会学部教授。専門は現代社会学。家族、ジェンダー、セクシュアリティ、格差、サブカルチャーなど対象は多岐にわたる。著作は『日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか』、『女性学/男性学』、共著に『ジェンダー論をつかむ』など多数。

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