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波乱の北京五輪女子シングル 坂本花織が表現した“自由”

沢田聡子ライター
(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

■会場を覆う異様な空気

北京五輪女子シングル・フリーが行われる首都体育館は、異様なムードに包まれていた。カミラ・ワリエワ(ROC)のドーピング疑惑は社会問題となっており、どこか殺伐としている記者席の雰囲気も、いつもフィギュアスケート会場に漂っている華やぎとはかけ離れている。

最終グループがリンクに入り6分間練習を始めると、緊迫感は最高潮に達した。ロシア勢3人(ワリエワ、アンナ・シェルバコワ、アレクサンドラ・トゥルソワ)のスピード感が際立つが、坂本花織のリンクを大きく使うスケーティングには一味違う伸びやかさがある。

ショート3位で4番目に滑走する坂本の前に滑るのは、アレクサンドラ・トゥルソワだった。4種類5本の4回転を組み込む、驚異的な高難度プログラムだ。試合後の記者会見に銀メダリストとして臨んだトゥルソワは、コーチからは4回転は4本におさえるように言われたものの、自ら主張して5本跳ぶことを譲らなかったと明らかにしている。

ディズニーのアニメ『101匹わんちゃん』に登場する悪役・クルエラの誕生を描く映画『クルエラ』のワイルドな曲に乗り、4回転を次々と決めていくトゥルソワには、強い意志が感じられた。このオリンピックに向けてイメージを作るためか今季は髪を赤く染め、黒い衣装に身を包んだトゥルソワの筋肉に包まれた細い体から、膨大な熱が発散されているのが目に見えるようだ。その熱に反応して、首都体育館には熱狂の渦が起こる。記者席で前にいるロシアメディア関係者と思われる若い男性は立ち上がり、トゥルソワが一つジャンプを決めるたびに雄叫びを挙げている。ナショナリズムが発揮されがちな、オリンピックならではの光景だったかもしれない。

■爽快感をもたらした坂本の滑り 

トゥルソワの直後にリンクに入った坂本は、果たしてこの異様なムードの中で自分の演技を全うできるのか。しかし坂本が深くエッジを傾けて助走に入り、最初のジャンプとなる大きなダブルアクセルを跳んだ時、その懸念は払拭された。坂本が一つジャンプを跳ぶ度に、首都体育館を覆っていた重苦しさが消え、爽快感が広がっていく。

昨年10月上旬のジャパンオープンで、まだ新しいフリー『No More Fight Left In Me/ Tris 』の難しさに苦労していた坂本花織は、今季ブノワ・リショーが振り付けたショートプログラムとフリーについて説明している。

「自由になれるように、という意味を込めて、今回このショートとフリーを作って下さったので、今しかできない、今だからこそ出来るプログラムなのかなってすごく思いました」

また、フリーについては次のように語っている。

「どう解釈して滑ったらいいかという問題もあるし、本当に今までよりも難しい内容。メッセージ性が強いので、曲の内容がすごく今まで以上に難しいんですけど、“女性の強さ”というものを、しっかりフリーで表現できたらいい」

10月の時点で坂本が口にしていた“自由”と“女性の強さ”は、コロナ禍で不自由な状態にある世界を前提にしていたものだった。しかしドーピング疑惑に揺れる北京五輪で、今そのテーマは違う意味を持って観る者の胸に迫ってくる。坂本が演技を終えた時、たとえメダルに手が届かなくても、この演技にはそれ以上の意味があると強く感じた。だが結果的に坂本は、手強いプログラムから逃げずに完遂したご褒美として、銅メダルを手にしている。

「今本当にみんなが大変な思いをして過ごしているけど、フィギュアを観て少しでも元気になれたり、勇気が出たって言ってもらえるような滑りを自分は今すべきだと思うので、その気持ちをしっかり込めて滑りたいなと思います」

 

昨年10月に、そう語っていた坂本の言葉が思い出される。2022年2月17日、北京の首都体育館で、坂本はその言葉通り世界に勇気を届けてくれた。

ライター

1972年埼玉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、出版社に勤めながら、97年にライターとして活動を始める。2004年からフリー。主に採点競技(フィギュアスケート、アーティスティックスイミング等)やアイスホッケーを取材して雑誌やウェブに寄稿、現在に至る。

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